図書室に現れたヴェルガ
戦術・発展演習の講義を終え、ヴェルガは両隣で受講していたアディンとロランと共に教室を出る。一旦自分達の教室へと戻り、また廊下で集合した。向かう先は中庭だ。天気のいい日は中庭で昼食を摂るのが恒例だった。カフェテリアに向かう者や購買へ駆け出す者、あるいは持参した弁当を持って手頃な場所を探す者で廊下は混み合っている。人の波を器用にかきわけながら三人は中庭へ向かった。
中庭の外れに立つ、大きなニレの木の下。静かで人があまり来ないことからヴェルガはこの場所が気に入っている。いつもの場所にはすでにリディーラとティリカが待っていて、三人に気づいて手を振った。
他愛のない雑談を交わし、持参したバスケットを開ける。寮の食堂では頼めば昼食を用意してくれるので、五人はいつもそうしていた。校内のカフェテリアにいけば昼食を提供してもらえるのだが、程度の差はあれ五人ともあの騒がしさを苦手としている。寮の垣根を越えてすべての学年の生徒が一ヶ所に集うとなると、それなりの喧騒と問題がつきものだ。人の多い場所だと、食事にも会話にも集中できないことがある。それをヴェルガ達は嫌がっていた。
朝食や夕食と違って昼食は寮ごとに固まる必要がないということで、派閥の面々はそれぞれ好きな場所で好きな友人と食事を摂っている。というか、いちいち派閥の者達を召集して付き合わせるのも悪いと他ならないヴェルガが思っている。彼らには彼らの付き合いがあるのだから、と。
だからこそヴェルガは、一緒に食事をする友人は少ないしわざわざ広い場所に行く必要もない、どうせ一緒に食べる奴らも全員騒がしいのが苦手だしな、と中庭の隅で固まって昼食を摂ることにしていた。この昼食の時間が『王子の茶会』と呼ばれ、王子に選ばれた者、すなわち婚約者のリディーラ、右腕のロラン、懐刀のアディンとティリカしか同席を許されないと、一部の生徒……特にアルフェンアイゼ派の生徒達から思われ、もしもそこに招かれることがあればすべてをなげうってでも馳せ参じる……ということをヴェルガ達は知らない。
もし五人のうち誰かがそれを知っていたら、少なくともアルフェンアイゼ派の生徒であれば誰であろうとあっさりその場に招かれるだろう。その前に、右腕と懐刀とはどういう意味だろう、と首をかしげるだろうが。周囲からはそういう風に見られているのだが、本人達にはあまりその自覚はなかった。
そんなこんなで端から見れば至高の食事会、本人達からすればただの昼休みは過ぎていく。食後もリディーラの持参した菓子をつまみ、五人はしばらく呑気に歓談していた。ヴェルガの懐中時計が昼休みの終わりが迫っていることを示したころになり、ようやく校舎に戻る。何もかもがいつも通りだった。
五限は作法・発展演習だ。教室に入ると同時にカイルの姿を見つけたヴェルガは、なるべくカイルの座っている席から離れた場所に着席した。しかしカイルはヴェルガの入室に気づいたらしく、何故か破顔して近づいてくる。
「なんだよ、結局来たんだな!」
(ひぃっ!?)
心の中で上げた情けない悲鳴が表に出てくることはない。表面上は平静を装ったまま、ヴェルガはじろりとカイルを睨みつけた。
「……俺にはかかわるなと言ったはずだが?」
(なのになんで近づいてくるんだよ……。なんなんだ? 一体何が目的なんだ?)
わからないものは怖い。それが自分とは正反対のものならなおさらだ。ヴェルガは全身で早くどこかに行ってくれオーラを醸し出す。そんなヴェルガに対して何か思うところがあったのか、カイルは訳知り顔で頷いた。
「あっ、そういえば約束してたよな。悪い悪い。安心しろ、ちゃんと守るからさ」
(わ、忘れられてる……。やっぱり俺の言葉なんて、こいつにとっては取るに足りないものだったのか? ……というか、こうして話しかけてくる時点で守ってないだろうが!)
ヴェルガがなんとか言い返そうとしたその瞬間、カイルはさっと身を翻して席につく。わざわざその背中に向けて声を張り上げるのも気が引けたので、結局ヴェルガは何も言えなかった。
六限も終わって放課後になり、委員会の活動のために図書室に向かう。途中でティリカと会ったが、彼女は生徒会の役員の一人であり、炎ノ日が生徒会の活動日だ。お互いにこれから用事のある身だったため、さほど長話もせずに別れた。
受付にはすでに今年入学したばかりの新しい図書委員がいる。ヴェルガの当番仲間の男子生徒だ。名前はシエル=エイカー、クラスは確かローリネストだっただろうか。暇だったのか、シエルは本来なら制服のブレザーの胸ポケットに付いているブローチを取り外して熱心に磨いている。ヴェルガに気づいたシエルは手を止めて小さくお辞儀をし、ブローチを胸ポケットに付け直した。真新しいローリネストの紋章が彼の左胸で輝く。さほど親しい仲だというわけではないせいか、後輩が相手だというのに隣に座るだけでもかなり緊張した。
「アルフェンアイゼ君、忘れ物は見つかった?」
「忘れ物?」
受付に座ったヴェルガに背後から声がかかる。司書のメイフェルだ。小声で投げかけられた問いの意味がわからずにヴェルガは振り返った。司書室の扉からこちらを見つめるメイフェルは、ヴェルガの反応を見て不思議そうにしている。
「あら、違ったかしら。朝、本を借りていった後にわざわざ図書室に戻ってきたから、てっきり何かを忘れたのかと思ったんだけど」
「なんのことですか? 俺はあのあとすぐに教室に戻って、そのまま講義を受けていましたが」
「……え?」
神々の本を借り、早足で講義を受ける予定の教室に行き、すぐに二限が始まった。それからヴェルガは図書室に近寄ってはいない。講義の間に挟まる短い休み時間は次の講義の準備や友人達との雑談に使っていたし、昼休みはずっとリディーラ達と中庭にいた。図書室に戻る暇などない。それを伝えると、メイフェルは目を丸くした。
「だけどあのとき、確かにアルフェンアイゼ君に会ったのよ」
「先生の見間違いだったんじゃないですか? 銀髪の生徒は多いわけじゃないですけど、かといって先輩だけっていうわけでもないですし」
口を挟んだのはシエルだ。頬杖をついてぼんやり前を見ていたシエルは、横目でちらりとヴェルガを見る。まさか彼が会話に加わるとは思っていなかったので少し面食らってしまった。
シエルの言う通り、学院に通う銀髪の生徒はヴェルガだけではない。珍しい銀の髪はヴェルガを示す大きな特徴ではあるが、ヴェルガの代名詞とまではいかなかった。
「確かに、後ろや遠くからだったら、見間違いってこともあるかもしれないけど、あのときわたしはここから入り口に立つアルフェンアイゼ君を見たの。目だって合ったわ。あれは間違いなくアルフェンアイゼ君よ」
少しむっとしたように、メイフェルはきっぱり断言する。シエルは半信半疑のようだが、ヴェルガもメイフェルが誰かと自分を見間違えたとは思えない。ヴェルガは一年の時も図書委員だったし、委員会の活動以外でも頻繁に図書室に行っている。メイフェルともかなり親しくしているほうだ。顔を合わせたというのに、他人と間違えられることなどないだろう。
だが、事実ヴェルガは図書室には行っていない。これはどういうわけなのだろうか。
「じゃ、姿を人に似せられる魔物が学院に侵入でもしたんじゃないですか? ドッペルゲンガーとか、シェイプシフターとか。ああ、スライムの新種にもそういう擬態ができるものが発見されたんでしたっけ」
「講義で使った魔物の幼体が逃げ出したのかもしれないな。魔物の脱走となると厄介だ。……だが、そういった魔物を使った授業はなかったはずだし、俺もそんな魔物には遭っていないぞ」
適当に答えるシエルにも真面目に返事をし、ヴェルガは考え込む。魔物を扱う講義はそこそこ数があり、時には本物の魔物を用いる授業を行うこともある。そのうちのいくつかはヴェルガも受講していたが、ここ最近そういう力を持つ魔物についての授業を受けた記憶はなかった。脱走も何も、学院内に魔物がいたようには思えない。
ヴェルガが受けていない講義についてはわからないが、本物の魔物を使うような本格的な授業が始まれば噂ぐらいは耳にするだろう。そもそも、魔物が何かに擬態する場合はその対象となるものを知らなければならない。つまり、どこかで魔物とヴェルガは遭遇していなければいけないのだ。しかしヴェルガにその心当たりはなかった。
授業中にそんな魔物を見たことはない。ダンジョンでミミックに会ったことは何度かあるが、ミミックが人に化けることはあまりないはずだ。そもそも、ダンジョンの魔物はダンジョンの外に出ることはできない。ダンジョンでそういった魔物に遭遇したから魔物がヴェルガに化けた、という線は薄いだろう。
考えられるのは、すでに学院の生徒に擬態していた魔物とヴェルガが接触していた可能性だが、何故その生徒の姿を捨ててヴェルガの姿に擬態し直したのだろう。
王子の身分など、魔物には関係ないはずだ。人外の存在である魔物からすれば、どの生徒も等しくただの人間にしか見えない。そもそもヴェルガが王子だなどとは気づけない以上、王子に擬態することに意味があるようには思えなかった。もしあるとすれば、それは"魔物"という範疇に収まらない知性をその魔物が持っている証明に他ならない。だが、そんなイレギュラーな個体はヴェルガの知る限りでは存在しないはずだ。もしいるとすれば、それは大きな問題に繋がってしまうかもしれない。
「魔物……? いいえ、そんなはずは……」
メイフェルは納得しきれないようだ。シエルもだんだん気になってきたのか、頬杖をつくのをやめてあれこれメイフェルに尋ね出す。ヴェルガも作業の手を休めることはしなかったが、図書室に現れたもう一人の自分について考え始めた。
しかしそれ以上の答えは思いつかない。結局、三人が悶々としている間に委員会の活動終了時刻を迎えてしまった。




