神の書
それからヴェルガは仲間達に向けててきぱきと指示を出した。転移の法術具を起動させて財宝の山を部室に送り、帰還の準備をする。思わぬ収穫に仲間達は興奮しきりだった。
まばゆく輝く宝の山も、本来なら貴族の子女の前ではさほど魅力的には映らないものだ。けれどこの場にいる半数以上は、様々な理由から財宝とは縁遠い。そのうえ、自分の力で手に入れたものとなれば喜びはひとしおだった。
ダンジョンで手に入れた財宝は、一部を学院に寄付すれば他は自由にしていいということになっている。とりあえずヴェルガ達はいつも、金貨の二割を寄付することにしていた。
物品の換金後の価値を含めるとややこしいので、物品についてはその限りではない。帰還してからの検品は顧問の立ち会いのもと行うので、歴史的に重要そうなものや学術的に価値のあるものはしかるべき場所に収められる。それが規則として定まっているので、学院側も物品をその規則以上に寄付させようとはしなかった。
もしダンジョン内で金貨以外の財宝を手に入れた場合、顧問が鑑定してから一人一人が欲しい物を選び、余ったものは換金して金貨とともに分配する。もし欲しい物が一つしかなく、かつそれが誰かと被ってしまったなら公平にくじで所有者を決める。それが第二ダンジョン探索部のいつものやり方だった。
部室に戻ると、すでに顧問のドゥーエンがいた。ドゥーエンは歴史学の教師で、考古学にも造詣が深い。二年ライドワイズの担任ということもあり、この学院の中ではヴェルガともっとも親しい教師だ。地下十二階の隠し通路を発見したことはすでに彼の耳にも入っていたようで、初老の穏やかな紳士はヴェルガ達の帰還を笑顔で迎えてくれた。
鑑定が始まる。あれは博物館に、これは大丈夫。あっちはそうだな、美術館に持っていこう。ドゥーエンの指示に従って次々と仕分けがなされていく。その間ヴェルガ達は各々の寮の食堂に駆け込み、少し遅い夕飯を食べてきた。
戻ってきた頃には仕分けもほとんど終わっていて、後はもう残った品を分配するだけだ。仕分けと言っても、自分達で自由にできる財宝はまだたくさんある。まずは部長のヴェルガから、と全員がきらきらした目をヴェルガに向けた。
「ああ……そうだな、俺はこれだけでいい。あとはお前達でわけてくれ」
ヴェルガが手に取ったのは例の黒い本だった。祭壇に供物(?)を捧げたらひとりでに現れた本なので、なんらかの価値があると思っていたのだが、ドゥーエンの査定からは逃れたらしい。それならぜひとも自分のものにしたいところだ。
「それを選んだか。アルフェンアイゼ、やはり君がそれを見つけたのかね?」
「ええ。……この本について、先生は何かご存じなんですか?」
ドゥーエンは微笑みながらあごひげを撫でている。ヴェルガが尋ねると、ドゥーエンは軽く頷いた。
「神の間の祭壇は、ある特定の条件を満たした者が祈りを捧げると一冊の本が現れるらしい。これまでの階層で神の間を発見した君達の先輩の中にも、そうやってその本を手に入れた者がいたのだ。その神と眷属からの祝福の数が本を手に入れる条件なのでは、と言われているが、はっきりしたことはまだわかっていない。しかし、すべての者がそれを手に入れられるわけではないことに変わりはないさ。大事にしたまえ、アルフェンアイゼ」
「そんな貴重な本を俺が持っていていいんですか? 図書室に寄贈したほうが……」
「いいのだよ。それは神からの贈り物だ。所有者は、それを見つけた者でなければ。学院も、生徒が神から頂いたものを取り上げようなど無粋な真似はしない。写本ならともかく、原典は君が持つべきものだ」
閉架書庫にかつての先輩が寄贈した別の神の本の写本があるから、気になるなら読んでみればいい。ドゥーエンは思い出したように付け加える。このケルハイオスの黒い本も、写本を図書室に収めればいいのだろう。ヴェルガは頷いて礼を言った。
その後も戦利品の分配は続き、無事に全員が満足のいく形で配り終えることができた。今日の戦果や感想をわいわい話しながらみんなで学生寮区画に戻り、就寝の挨拶をして各々の寮に入っていく。
本を机に置いてほっと一息つき、寝巻に着替えるため制服を脱ぐ。その時、姿見が何気なく目に入った。横目で見ると、上半身が裸の少年が映っている。どれだけ陽に晒そうと白い肌は赤くなるばかりで、筋肉もろくにつかない。貧相な身体だ。自嘲気味に笑って視線を戻す。だが、ヴェルガはすぐに姿見を二度見した。
「なっ……!?」
姿見を正面から直視し、ヴェルガはそこに映る己の体躯をしげしげと眺める。正確にはその左胸、今朝にはなかったはずの……なかった気のする、奇妙な文様を。
黒いそれは狼をかたどっているように見えた。視線をずらして直接自分の胸を見ても、その紋様は変わらずそこにある。痣にしては鮮明で、刺青にしては覚えがない。けれどヴェルガはその紋様の意味を知っていた。闇と混沌の神ケルハイオス、彼の神の名を讃える黒狼。そんなものが左胸に刻まれるなど、唯一心当たりがあるとすれば――――
「……あの時の衝撃、か?」
そう虚空に問うも、当然答えは返ってこない。机上では、本の装丁に用いられていた金緑石が月光を受けて妖しく煌めいていた。
寝る支度を済ませ、椅子に座って本を手に取る。乾いたページが擦れる音と同時に漂ってきた古い本特有の匂いに鼻孔がくすぐられた。
著者の名はなく、書名も記されていない。目次もないので、順に読んでいくことにした。古語で書かれているが、古い本ならさほど珍しいことでもないだろう。ヴェルガ自身古語の翻訳には自信があるので、読むことに支障はない。
それは神話だった。闇と混沌の神ケルハイオスとその眷属神にまつわるさまざまな物語が収録されている。古めかしい言い回しやより詳細な描写などで飾られてはいるが、内容自体はさほど目新しいものではない。おおまかなあらすじぐらいならば誰だってそらで言える程度の有名な物語から、よほど詳しい者でなければ題名も聞いたこともないような無名の話まで、収録されている話の傾向は幅があったが、どれもヴェルガには既知のものだ。
珍しいと言えば、全編を通して闇の神についてまとめた書物があること自体がそうとも言えるが、内容自体は普通の本屋にでも並べられていても不思議ではないものだ。この本がわざわざ条件付きで祭壇に現れる神の贈り物にはとても思えなかった。
他の神の書物もそうなのだろうか。光と秩序の神ルドルリヒト、星と時の神シャイツァイト、炎と正義の神ティスアイファス、太陽と運命の女神エイソル、天空と名誉の神スカナ、風と自由の神ルカント、水と幸運の神クラターウォ。この七柱の主神からの祝福が、闇と混沌の神ケルハイオス以外にヴェルガが受けているものだ。他の主神ならともかく、この七柱についてはケルハイオスほどではないものの興味はあった。
ドゥーエンの話では、神の本は閉架書庫に並べられているという。明日辺り図書室に寄って本を探しにいってみよう。そう決めて、ヴェルガはページに目を落とした。
「……"私がこの世の悪となろう。この私がいる限り、真の邪悪は目覚めない。それが均衡の掟なのだから"」
目に入ったフレーズを思わず口ずさむ。それは、闇と混沌の神ケルハイオスが邪神と呼ばれるに至る物語の一説だ。主神の一柱に数えられていたケルハイオスが、他の十一の善神とたもとをわかつ瞬間に発した言葉がこれだと言われていた。
この本にも当然のように収録されていたその物語は、ケルハイオスに関係する神話のなかでもケルハイオスという神の性質をよく表している。献身と自己犠牲の神ケルハイオス。それがかの神にまつわるもう一つの名だった。
誰もがケルハイオスを邪神と呼び、その悪行に眉をひそめる。今もケルハイオスを崇め奉るのは、それこそケルハイオスからの祝福を受けたごく少数の邪教徒だけだ。
神の時代において、ケルハイオスは悪ふざけを好むはた迷惑な神とされていたものの、邪神と呼ぶほどの存在ではなかった。彼は神の王サウィンダーの弟であり、主神の一柱にも数えられている。本当の意味での邪神なら、どれだけ強くても最初からその位を与えられることはなかっただろう。
変わったのは、神をもってなお「真の邪悪」と言わしめる存在が現れてからだ。神々はこれを魔王と呼び、魔王とそれに付き従う軍勢が神の領域に侵略したことをきっかけにして大きな戦争が始まった。
激戦の果てに勝利したのは神の陣営だったのだが、魔王を完全に倒すことはできず、果ての谷という場所に封じ込めることが精一杯だったという。いずれ封印の力が弱まることを恐れた神々は、それについての対策を考え、一計を案じたのがケルハイオスだった。
"この魔王は、十一の神が力を合わせて討ち取った。ならばこの魔王は十一の神と同等の力を持つのだろう。しかし十二番目の神である私は、たった一柱でここにいる十一の神と対等に渡り合える。無論私の眷属も、他の神の眷属とは比べ物にならないほどに強い。おわかりか、私は私と配下の者達だけで世界のすべてを敵に回してもなお戦うことができるのだ。"
それはケルハイオスの詭弁だ。ケルハイオスの力がそれほど強いなら、魔王との争いもすぐに終わらせることができた。しかし終戦には百年以上かったという。そもそもケルハイオスは援助こそすれ参戦はしていなかったというから、もしケルハイオスが武器を取っていればもっと早く終戦を迎えられたのかもしれないが。
とはいえ、そこは実際に戦っていない者の大口だ。当然他の神々は、ケルハイオスの言葉が真っ赤な嘘だと思ったに違いない。この無意味な挑発に神々が憤るなか、一柱だけ大真面目な顔で場にそぐわないケルハイオスの言葉に深く賛成した神がいた。
"つまりこのケルハイオスは、魔王と同等の存在ということだ。ああ、なんということだろう。我ら十一の神が総出で一の邪悪を鎮めたというのに、二つ目の邪悪が存在していたとは。我らは一の邪悪で手一杯だというのに、二の邪悪が相手では我らも負けてしまうに違いない。だが、これでは善と悪の均衡が崩れてしまう。世界の調和が保てない。"
光と秩序の神ルドルリヒト。ケルハイオスの好敵手であった神は、ケルハイオスの意図するところを正確に読み取った。そこでケルハイオスの援護をしたのだ。ルドルリヒトの相槌を受け、ケルハイオスは続けた。
"そう、その通り。だからこれからは私を悪と扱ってくれ。もう二度とこの魔王を目覚めさせないために、私が新たな魔王となってこの世界に君臨しよう。さあ、誓約をここにしようじゃないか。善と悪は常に均衡を保っていなければならない。私が悪の役をやるから、善の役は任せたぞ。"
ケルハイオスの狙いを理解した神々は、ケルハイオスの言葉を受け入れた。ルドルリヒトは自身の眷属だった誓いの神を呼び、その場で主神達は誓いを立てる。ケルハイオス一柱を邪神とし、十一の善神と一の邪神がいる限りこの世には過剰な善も邪悪も生まれないと。
"私がこの世の悪となろう。この私がいる限り、真の邪悪は目覚めない。それが均衡の掟なのだから。"
その言葉を残し、ケルハイオスは去っていった。最初から十一の神と同等の力を隠し持っていたのか、あるいは誓いに際して十一の神と同等の力を得られたのか。その力がいつからケルハイオスのものになったのかは定かではないが、それからのケルハイオスは強大な力をもって邪神の名にふさわしい悪事をたびたび行うようになる。邪神の化身が地上で行う悪事には、人間もずいぶん苦しめられたようだ。
だが、そのすべての目論みは大事に至る前に他の神に打ち砕かれ、そのたびにケルハイオスは制裁を受けていた。ケルハイオスの神話はいつも、悪の限りを尽くす邪神の化身を、善神の化身、あるいは善神に見出だされた英雄が倒すという形で終わるのだ。この場合の化身やら英雄やらは歴史上の人物か、本当に実在したかわからない人物が当てはめられている。
善神側がほどほどの被害を受け、邪神側もほどほどの報いを受けるのも善と悪が拮抗していることを示すためのものなのだろう。化身による悪巧みを見破られたケルハイオスは、善神によって様々な罰を受けるのが常だった。
そうして自ら悪の名を冠したケルハイオスの献身のかいあってか、今に至るまで魔王が復活したことはない。神々の誓いにより、邪神ケルハイオスがいる限り魔王は顕現できないのだ。これが闇と混沌の神ケルハイオスが悪神と呼ばれる経緯であり、その司る悪が形式だけのものであることを示していた。
いつのころからかこんな神話も形骸化し、ケルハイオスを額面通りの邪神と受け取る者も少なからずいたが、ケルハイオスの真実を知る者は多い。
そういった者達は、必要以上にケルハイオスを讃えることで彼の司る悪の力が弱まって魔王が復活することを恐れ、形式としてケルハイオスを疎んじている。ケルハイオスを讃えても許されるのは、生まれながらにして邪神の加護を受けた"邪教徒"だけというわけだ。
その成り立ちが成り立ちであるからして、邪神ケルハイオスはまさに必要悪と言うべき存在だった。ケルハイオスは公の信仰の対象にはならない。おおっぴらに認めてしまえば、彼が善の存在であるとみなされて誓いが効力を失う。ケルハイオスはあくまでも悪神だ。そうでなければいけない。実際、"悪"となったケルハイオスが混沌という名の災いを振り撒くのは事実なので、その名を憎むことに抵抗は少ないだろう。
彼を信仰するのはごく少数の人間で、基本的には邪神として忌み嫌われている。その考え方は十二神信仰でももっとも重要なものの一つであり、人々はケルハイオスに感謝すると同時にその存在を敬遠していた。
当然、ケルハイオスからの祝福を受けた者達も例外ではない。彼らはケルハイオスと同じく人々から忌避される。自分を犠牲にしても平和を願ったケルハイオスの気高さをヴェルガは誇りに思っているが、少し複雑なのも事実だった。




