09
祖母の認知証が進むまではそれなりにまともな食卓も維持できていたらしいが、鍋や薬缶の空焚きが続くようになると、父は給湯器以外のガス供給を停めた。以来、柘植家の朝食はシリアルか調理パン、昼は叔母が惣菜を届けてくれていたようだが夕食はほぼコンビニ弁当で間に合わせていたそうだ。なにせ父は米すら炊けない男なのだ。
「これ……、全部おまえが一から作ったのか?」
そして僕は一人暮らしをしているせいで自炊ができる。夕飯の支度を頼む、と父から渡されたのは五千円、残しても翌日の昼まで傷まない煮物中心の献立を心がけた。
「一からったって、僕に卵は産めないし、野菜もスーパーで買ったものだよ」
「大ちゃんは面白いねえ」
僕の冗談に祖母はケラケラと笑った。名前を呼ぶ機会の半分は従兄弟と間違えられる。
「僕は拓巳だよ、ばあちゃん」
「そう言わなかったかい?」
こんなのはテレビのコント番組で大袈裟に取り扱われる類のものだと思っていた。父は、俺の苦労がわかったか、とでも言いたげににやにやしている。
「ばあちゃん、デイサービスは楽しいかい?」
「なんだね、それは?」
「昨日、一昨日と行ってたんだろう」
「……ここのところ頭がモヤモヤしちゃっててねえ」
祖母が困った顔をするので、僕は追究を止めた。
「短期記憶がブッ壊れちまってんだ。昔のことならまだよく憶えてるぞ」
プロ野球中継を観ながら父が言った。
「父さん!」
例えそのとおりでも当人の前で言っていいことじゃない。
「でけえ声出すなって。あっ、また、あんなクソボールに手ぇ出しやがって――。懲りずにこいつを使う監督も監督だ」
反省の色などまったくない。
「大ちゃんの顔を見るのも久しぶりだねえ」
そして祖母は何事もなかったかのように僕の名を間違える。
「拓巳だってば」
「ああ、そうだったねえ」
夕食が終わるまでがずっとその調子で、とうとう訂正する気も起きなくなった。
「どうだ、疲れるだろう」
祖母が風呂に行くと父はテレビを消して言った。確かに老人の介護は根気と辛抱なくしてできるものではないと聞く。
「よく、続いてるね」
――面倒くさがりの父さんに。後半は口のなかで呟いた。
「あんなんなっちまってもオフクロはオフクロだからな」
珍しく哀しげな顔をする父の一言にすべてが集約されているように思えた。
父の携帯が鳴った。
「今度こそソフィーかもね」
「バッカ野郎、親をからかうんじゃねえ!」
そう言いながらも嬉しさを隠せない様子で父は居間を出て行く。十分ほど経ったろうか。父が血相を変えて戻ってきた。
「沢村病院に行ってくる。ばあちゃんを頼んだぞ」
「なにかあったのかい?」
「救急車で運ばれた連中のひとりが死んだ。所長の脇原だ。他にもやばいのがいるらしい」
「えっ! じゃあ、やはりO―157だったのかな」
「それはまだわかってねえみたいだ。だから病院も対症療法しか打つ手がないんだってよ」
「でも父さんが行ったところで――」
病院には患者の個人情報についての守秘義務がある。かつての同僚というだけで詳しい話が聞けるとも思えない。だけど父は、着ていたシャツを脱ぎ捨てて言った。
「あそこは城北店の客なんだよ。いまの電話は、なにかあったら知らせてくれと頼んでおいた事務長からだ。家族が取り乱して困ってる、落ち着かせてやってくれと頼まれちまったんだ」
「わかった、ばあちゃんは任せといて。父さんも気をつけて」
「おうっ!」
父はその分厚い胸板を叩いて言った。




