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 武蔵市の帰途、高速道路のサービスエリアで眠りこけてしまった父が矢貫氏と会談を持ったのは土曜の夜だった。昼間の喧噪が嘘のように消えた井ノ口サンライズ城北店のサービススオフィスでは、スタッフ用コーヒーメーカーで淹れたエスプレッソが芳醇な香りを漂わせている。

「その不審者も三枝剛毅の雇った暴漢だったのかもしれんな。運よく警邏中の警官が通りかかってくれなければ、おまえも今頃――。よくぞ無事で戻ってこられたものだ」

 父の報告を受け、矢貫氏が言った。

「へへっ、虫の知らせってヤツよ」

 虫は虫でも旁(つくり)に它がつく。蚊に始まり蛇で落ちがついた一連の事件の全貌はこのふたりによって語られる。

「とにかく、あのメールは助かった。庄司の死の真相が唯一の切り札みたいなものだが、それが推測でしかないのは少々心許ない。おどおどしていたらホテルのドアすら開けてもらえなかっただろう」

「里佳子はホテル住まいだったのか」

「うむ、彼女は尾張保健衛生大学病院の講師として招かれていた。ホテルはそこが手配したものらしい」

「おまえ、それをどうやって知ったんだ? 例の情報サービスは使わなかったんだろう」

「興信所や探偵社は横の繋がりが密だそうだからな。少々怪しげだが情報屋を使った。午前中に頼んだ里佳子の所在を午後には調べ上げて連絡を寄越してきた」

「そいつはまた――」父はエスプレッソをぐびりと一口流し込む。「電光石火だな」

「顔合わせなし、すべてメールでの遣り取りだが情報は正確だった」

 国民健康保険や納税通知での問い合わせを理由に、親族を装って自治体から個人情報を引き出す悪質な情報屋がいる。いきなり罵声を浴びせることにより応対した担当者の無条件反応を引き出すのだ。後に起きるストーカー殺人事件でも同様の手口で入手した被害者の現住所を五万円程度で売り渡している。

「里佳子は素直に喋ったのか?」

「苦労させられたよ」そこで矢貫氏は苦笑する。「学者肌とでもいうのか、若い女に似合わず口が重くてな。さすがに庄司の妹だけのことはある。我々素人の想像など及びもつかん凄い話が聞けたよ」

「ほう。俺にも聞かせてもらおうか」

 父が居住まいを正す。矢貫氏はカップのコーヒーを飲み干して手帳を取り出した。

「まず、散布した病原菌だが、これは巧巳君の想像とおりウエストナイルウイルスに遺伝子組み換えを行ったものだった。驚くべきはここからだ。里佳子の作りだしたウイルスは特定の糖鎖B3に反応して増殖、ウエストナイル脳炎を起こすが、感染者がそれを持たない場合、発熱や嘔吐、つまり食中毒の症状止まりで快方に向かうようになっている」

「なんだ、その糖鎖だのB3だのってのは」

「ひとの血液型は赤血球表面にある糖がつながった糖鎖の種類で決まるらしい。B3というのは――」矢貫氏は手帳をめくって字を追った。「B型の亜型で、脇原と近藤の血液型がこれに当たる」

「そんな眼に見えないようなものを狙い撃ちしやがったのか――。だけど里佳子はどうやってそれを調べたんだ?」

「里佳子が食中毒ダイヤルの設置に来ていたのはどこだった」

「鵜飼保健所だろ? それがどうした」

「井ノ口サンライズでは六月に集団検診が行われることを忘れたのか。保健所には全社員の血液サンプルが残っていたんだよ」

「迂闊に血液型も口にできねえ世の中だな……って、おい待てよ。あの日は夕方にもラジコンヘリの音がしてたって言うじゃねえか。あれはなんだったんだ?」

「稀血とも言われるくらいだから多くはないだろうが、それでも国内に数十万人のB3型保持者がいる。被害の拡大を恐れた里佳子は殺虫剤を散布した。その時、コントロールを失ってヘリを墜落させたそうだ。トレーラーを放置していったのは不要になったからだ。やはり職権打刻については知らなかった」

「へーえ、殺虫剤をねえ」

 古ぼけたジッポーを弄ぶ父の声に不機嫌が混じる。

「気にいらんのか? 俺の見る限り里佳子は嘘を言ってるようでもなかったがな」

「そのことについてじゃねえよ。確かに脇原たちのいじめは陰湿だったけど、なにも殺すほどのこたあなかったんじゃねえのか。あの警官なんかまるっきりの巻き添えだぞ。しかもそれが勘違いだったときたもんだ。それでもおまえはこれを隠蔽するつもりか?」

「隠蔽か――。有体に言えばそうなるな。だが、里佳子を告発するとなれば庄司のことも表沙汰にせねばならん。労組設立の話は流れ、第二、第三の庄司を生むことにもなりかねん」

「それがあったか」

 父は両手で頭を掻き毟った。

「なあ柘植、こうは考えられんか。誰もが思いもよらない方法で、誰も立証不可能なことをやり遂げた兄妹だが、兄は死を以って自らの行いを贖い、妹がこの先歩むだろう人生には苦難と悔恨が茨となって立ち塞がる。罰は下されてるように思えるがな」

 僕も矢貫氏と同意見だ。父だって死のなんたるかを知れば、それがとても厳罰とは言えないものであることに気づくだろう。魂は肉体にあって初めて悩み苦しむものなのだから。

「そりゃまあ確かに里佳子を告発したところで死んだ者は帰ってきやしねえけどよお」

 父は少しトーンダウンしていた。

「それとあの警官だが」矢貫氏は再び手帳をめくる。「副署長の話では〝やらずの佐村〟と呼ばれていたらしい」

 我が国の警察機構に於いては検挙数が即昇進につながるものでもないため、面倒な事件やマスコミが取り上げないようなものはおざなりにされる傾向にある。調べてみてわかったのだが、飯沼善治さんの行方不明者届けを、事件性が薄いだの管轄が微妙だのと難癖をつけ受理しなかったのも佐村警部補だった。


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