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父は日付が変わってから帰ってきた。さすがに疲れた顔をしている。
「お帰り、どうだった?」
「俺が病院に着く前にまたひとり死んだ。係長の近藤って男だ。他の四名も小康を保ってはいるが、病原体が特定できない以上、予断を許さないってのが担当医の見解だそうだ」
「そうなんだ。家族のひとも心配だね」
「ああ。それもそうなんだが――」
父はいつになく歯切れが悪い。
「なんだよ、父さんらしくもない。言いたいことがあるならはっきり言えよ」
「うむ……、実はどうにも腑に落ちねえことがあってな。比較的、症状の軽い大塚が言うには、死んだ近藤はビール以外なにも口にしてなかったそうなんだ」
「勘違いじゃないのかい?」
「仲が悪いわけじゃないが近藤と大塚はよく意見がぶつかる。この日も河川敷に向かう車中からずっと議論を戦わせてたらしい。そのうち近藤が、気分が悪いとしゃがみ込んだのを手始めに体調不良を訴えるのが続出したってのが事の次第なんだそうだ」
「だって食中毒なんだろう? そんなのあり得ないじゃ……あっ!」
父はニヤリと笑って言う。
「気づいたか。状況からして食中毒だろうってのは勝手な思い込みに過ぎねえ。先入観は真実を見る眼を曇らすものだからな。スコトマだよ、スコトマ」
ミスター思い込みのあんたが言うか。
「じゃあ、ビールに毒物でも混入してたとか」
「グラスならまだしも缶だぞ。どうやって毒物なんぞ入るだよ」
父の示唆が順当であることを認めながらも僕の虚しい抵抗は続く。
「ビールが賞味期限切れだったとか」
「おまえなあ」父は呆れたように言った。「古いビール飲んで死んだ奴を見たことあるか? それに下戸の脇原は持参した烏龍茶を飲んでいた」
「だったら、うーん……」
僕は屈服する。こんな出来に巻き込まれる予定ではなかったため鉄道会社しか調査してきてない。となれば人生経験と知識で遥かに僕を上回る父を唸らす考えなど思いつくはずがない。
「理事長は国立感染症研究所に検体を送るよう指示を出した。前理事長がいなくて良かったぜ」
「どういうこと?」
「病院創始者である前理事長はな」父はショルダーバックからノートパソコンを出して起動する。件の病院のホームページを開くと僕に向けて見せた。「なんでもかんでも自分で決めないと気が済まないひとだった。こうしてよそに病理検査を頼むなんざ問題外だったろうよ。晩年、その前理事長に認知症の兆候があらわれる。診る患者すべてを『脳梗塞の前兆あり』って診断しちまうもんだから保険に入れないってクレームが相次ぐことになる。理事長なんだから診察は部下に任せろって言ったって聞くひとじゃねえ。手を焼いた先生方と事務長は、よその病院で勤務していた息子――これが現理事長なんだが、彼に泣きついた」
「それでどうなったの?」
「前理事長を騙くらかして施設に放り込み、一件落着って訳よ。しかし運転免許にさえ更新があるのに、なんで医師免許にはそれがねえんだろうな」
「ある意味、病気にかかるより怖い話だね」
施設案内に見る新しい建造物は、病棟と言うよりラブホテルに近い。前理事長のワンマンぶりが窺い知れる。
「ははは、ちげえねえ」
父は笑ったが、そこに〝ギャハハハ〟はない。
「ともかく、だ」父はすぐに神妙な顔に戻って言った。「俺はおっかなくなった。なにやらとんでもねえ事が起きているような気がしてならねえ」
その予感はやがて現実のものとなっていく。