寿命
誰も、すぐには口を開かなかった。
雨音だけが静かに窓を叩いている。
私は無意識に、自分の髪へ触れていた。
柔らかい白。
昔から変わらない色。
染めたことなんて、一度もない。
なのに。
今この瞬間だけは、
自分の髪がまるで“別のもの”みたいに思えた。
「……偶然、ですよね」
自分でも驚くくらい、小さい声だった。
男は答えない。
否定もしない。
その沈黙が、
逆に嫌だった。
「管理局は、私を疑ってるんですか」
「違います」
即答だった。
「現時点で、あなたと初代《勝負師》の関連性は確認されていません」
「じゃあ」
「ですが」
言葉を遮るように、
男は続けた。
「あなたは極めて危険性の高い観察対象です」
観察対象。
監視対象。
危険職業。
さっきから、
人間に向ける言葉じゃない。
「……はは」
乾いた笑いが漏れた。
「なんか、急に化け物扱いですね」
保健医の先生が顔をしかめる。
「水瀬さん――」
「失礼」
男が静かに言った。
けれどその声には、
少しだけ硬さがあった。
「こちらも職務です」
「職務なら何言ってもいいんですか」
思ったより低い声が出た。
自分でも驚く。
男は数秒黙り、
それから小さく息を吐いた。
「……あなたが不快に感じたのなら謝罪します」
感情の読めない顔。
でも。
ほんの少しだけ、
疲れて見えた。
「ただ、《勝負師》は過去に実害を出しています」
静かな声。
「我々は、“知らない危険”を最も警戒します」
私は何も返せなかった。
それは多分、
正しい言葉だったからだ。
知らないものは怖い。
前例のない力は、
管理できない。
そんなこと、
言われなくても分かっている。
「……一つ、確認したいことがあります」
男がこちらを見る。
「あなたは先ほど、《BET》の対象に“運命”という項目を確認したと言いましたね」
「……はい」
「それ以外は」
「え?」
「他に、“賭けられるもの”は表示されていませんでしたか」
私は眉を寄せる。
もう一度、
ステータス画面へ意識を向けた。
半透明のウィンドウ。
《BET》。
その下。
【現在指定可能対象:運命】
やはり、それしかない。
「……ありません」
答えた瞬間。
男の表情が、
初めてわずかに変わった。
安堵。
そんな色だった。
でも。
次の瞬間。
ステータス画面が、微かに揺れた。
「……え?」
ノイズみたいに、
文字が滲む。
保健室の照明が、一瞬だけ明滅した。
空気が重くなる。
心臓が嫌な音を立てた。
そして。
【追加対象を確認】
視界の中央に、
赤黒い文字が浮かび上がる。
【賭け対象:《寿命》】
喉が、ひゅっと鳴った。
「……は?」
思わず声が漏れる。
視界の中央。
赤黒い文字は、消えない。
【賭け対象:《寿命》】
理解したくなかった。
スキルの演出とか、
そういう冗談であってほしかった。
「どうしました」
男の声。
私はすぐに答えられない。
嫌な汗が背中を伝う。
「……追加対象が、出ました」
その瞬間。
男の表情が固まった。
「内容は」
「……《寿命》です」
保健室から音が消えた。
雨音さえ遠い。
保健医の先生が、
息を呑む気配だけが聞こえた。
「……ありえない」
男が、小さく呟く。
初めてだった。
この人が、
感情を隠しきれなかったのは。
「何なんですか、これ」
声が震える。
「寿命を賭けるって、どういう意味ですか」
返事はなかった。
男は険しい顔のまま、
胸元の端末を操作している。
指の動きが、さっきより速い。
「応答しろ、こちら七課監察員・榊」
低い声。
『――繋がっています』
端末から機械音声が返る。
「コード黒。対象職業《勝負師》」
空気が変わる。
保健医の先生が目を見開いた。
『……確認しました』
「追加対象に《寿命》を確認」
数秒。
通信の向こうが沈黙した。
そして。
『直ちに対象を隔離してください』
背筋が冷えた。
「隔離……?」
思わず呟く。
男――榊は、
静かに端末を下ろした。
その目が、
さっきよりずっと鋭い。
「水瀬零さん」
静かな声だった。
でも。
そこには明確な緊張があった。
「これより、あなたを探索者管理局本部へ移送します」
「……は」
「拒否権はありません」
頭が追いつかない。
さっきまで、
ただの高校生だった。
白髪で、
少し目立つだけの。
それが今は。
危険職。
監視対象。
隔離。
管理局移送。
知らない言葉ばかりが、
現実を塗り替えていく。
「……なんで」
気づけば、
そんな言葉が漏れていた。
「私は、まだ何もしてない」
榊は答えない。
代わりに。
視線だけが、
私のステータスへ向いていた。
正確には。
赤黒く表示された、
《寿命》の文字へ。
「……それが、“始まってしまった”からです」
始まってしまった。
その言葉だけが、
頭の中に嫌に残った。
「……意味、分かんないんですけど」
声が掠れる。
榊は数秒だけ黙り、
それから静かに口を開いた。
「《勝負師》は、“賭けられる対象”が増えるほど危険性が上昇します」
「……」
「初期段階では通常、《運》や《魔力》程度しか確認されません」
私は眉を寄せた。
「でも、私には《運命》があった」
「ええ」
榊の表情は重い。
「その時点で既に異常です」
空気が冷たい。
保健室なのに、
妙に息苦しかった。
「《寿命》が追加された事例も確認しています」
嫌な予感がした。
「……それって」
「初代《勝負師》です」
やっぱりか。
心臓が沈む。
「当時の記録では、《寿命》追加確認から三日後――東京第一ダンジョン消失事件が発生しています」
三日。
たった。
三日。
「……偶然じゃ」
最後まで言えなかった。
榊の顔を見れば分かる。
管理局は、
そう思っていない。
「現在、《BET》の発動条件は判明していますか」
「……いえ」
「使用意思だけで発動する可能性があります。絶対に、能力使用を試さないでください」
絶対に。
強い口調だった。
でも。
その言葉を聞いた瞬間。
視界の端で、
赤黒い文字が微かに脈打った。
【《BET》発動待機中】
「……っ」
背筋が凍る。
「どうしました」
「これ……勝手に……」
言いかけた瞬間だった。
ドクン。
心臓が大きく跳ねる。
世界が、一瞬だけ暗くなった。
「水瀬さん!」
保健医の声が遠い。
耳鳴りが酷い。
視界の奥で、
赤黒いウィンドウがゆっくり開いていく。
――【BET対象を選択してください】
違う。
私はまだ、
使うなんて一言も――
その時。
窓の外で、
爆発音みたいな轟音が響いた。
ガシャァン!!
保健室の窓ガラスが砕け散る。
「な――」
風と雨が吹き込む。
悲鳴。
校庭側から聞こえる、複数の叫び声。
榊が即座に振り返った。
「……ダンジョン反応!?」
次の瞬間。
校内放送が、ノイズ混じりに響いた。
『緊急警報、緊急警報――校内にゲート発生を確認』
空気が凍りつく。
『繰り返します。校内にゲート発生を――』




