第37話 血の土地
暗い闇の中で、濁った真紅の瞳が、まるで独立した生き物のようにギョロリと蠢いた。ギリシャ彫刻のように整った、彫りの深い流麗な顔立ちは、今は無機質な笑みを浮かべて、あたかも味の悪い能面のように見える。アッシュブロンドの髪がぞろりと揺れた。
「【……気分はどうかね、二人とも?】」
「……」
僕は身じろぎをした。軽口の一つでも叩いてやりたかったが、思った以上に口が動かない。鉄格子を隔てて見下ろしてくる魔族を睨み付けるのが精一杯だった。
魔族に連れ去られた僕とフィアルカは、薄汚れた牢獄に二人揃って入れられていた。場所は、途中気絶させられた上に土地勘がないためよく分からない。ただ微かに遠く聞こえる波の音から、海の近くであろうと察せられた。薄暗く湿った空気の中で、僕は膝を抱え、ハア、と息をつく。吐き出した息は真っ白だった。寒い。尋常ならざる冷気があたりを満たしている。外気による寒さではない。冷気の発生源は、牢獄の中で僕と離れ、対角側に座っている魔人種族の少女、フィアルカだった。
呪いを中和していたフウやローザと離れたことが致命的だった。最終的に世界全てを凍り付かせるという凍結の呪いが、恐ろしい勢いで体を蝕んでいる。既に指先や髪の毛は凍り付いて殆ど動かせない。フィアルカも、自らの呪いを抑えるための魔術を使っているようだが、完全に抑止するには至っていない。
「……こんな……ことをして、何になるんですか?」
辛うじて搾り出した声は掠れて虫の吐息のようだった。魔族の瞳がギョロリと僕を見つめる。
「【ナルシサスがそれを望んでいる】」
「……彼女と話をさせて下さい」
断られるかと思ったが、魔族は案外素直に応じた。彼女ががくりと首を垂れる。数秒後、上げられた顔には、エメラルドのような瞳が煌いていた。
「【……やあ、いろは。会いたかったよ】」
いっそ暢気な、とさえ言える穏やかな口調でそう呟いて、ナルシサス──魔族の宿主である彼女は、鉄格子に近寄った。霜の下りた鉄格子を掴み、褐色肌の整った顔を寄せて僕を見つめる。魔族の無機質な顔とはうって変わって、その顔には燃えるような情熱の火が窺えた。
「【ああ、いろは。燃える炎のような唇、宵闇のような髪と瞳、白雪の積もるような肌。苦痛に呻く貴方もキレイだ……。もっともっと聞かせてくれ。愛する貴方の憎悪、悲嘆、絶望、全てを見せて……】」
「……」
冷や汗が背中をつたう。涼やかな鈴のような声だが、語る言葉は彼女の仄暗い、病んだ心根を感じさせた。
「【いろは。貴方はここで氷の彫像になるんだ。そうすれば誰も貴方に手出しできない。……想像してみてご覧? 私は氷になった貴方を毎日撫でる。──勿論、愛情たっぷりにね! 愛しい人。一日百回は愛してるって声をかけてあげる。ふふふ、そうだ、指輪やら宝石やらも買ってあげないとね。街に一緒に買い物に行こう。ああでも駄目かな、街の人たちは凍り付いたいろはを見て、美の神が下りてきたと勘違いしてしまうかもしれないから! ふふ、ふふふふ。あはははっ!】」
「……」
ひとしきり背中を揺らして引き攣れるような笑い声を響かせた後、ナルシサスはフィアルカに視線を向けた。
「【貴女がフィアルカか。私の中の魔族が言っていたよ。氷の呪いを与えられた子だとね】」
「【……それで?】」
「【貴女には感謝しなければならないね。ふ、ふふ、ふふふ。ありがとう。いろはを氷付けにする手伝いをしてくれてありがとう】」
にこやかなで、ナルシサスはそう言った。皮肉ではなく本心でそう思っているような口調だ。フィアルカは刺すような冷たい目をして侮蔑の言葉を吐く。
「【……愚かね。氷付けになった死体を愛でて何が楽しいの? 憎しみを通り越して哀れにすら思うわ】」
「【死体? 死体だって?】」
ナルシサスは両腕を広げて大げさに驚いて見せた。
「【いろはは死なないよ。だって彼は私の夫だからね。私の愛がある限り、彼も私の胸の中で生き続けるんだ】」
「【……。話にならないわ。頭も心も弱い女。早く魔族に乗っ取られてしまえばいいのに】」
「【うん? 弱ったな……。どうしてあなたはそんなに怒っているんだい? ああそうか、あなたは魔族に呪われたからそんな態度を取るんだな! 安心してくれ、首尾よくいったら、呪いを解くよう魔族に頼んでみるから】」
「【……】」
魔族より話が通じそうにないってどういうことなんだろうか。しかしまあ──と、僕は自分の腰元をちらりと見る。牢獄に囚われてはいたが、刀は取り上げられていなかった。刃物に傷つけられても血液魔術で即座に反撃できると考えたのだろうけれど、慢心と言う他ない。分裂している彼女の自我と、他者を見下す魔族の慢心は利用できる。
僕は思考を巡らせる。ナルシサスを殺すことは、恐らく可能だ。けれどそれはあまりやりたくなかった。だってロリババアだし。ロリババアだし!
「イケメン風ヤンデレ系ロリババア! ありだと思います!」
「【えっ】」
「【えっ】」
突然叫んだ僕に、ナルシサスとフィアがビクッとなった。……いけない、口に出してしまった。自重しよう。
……話を戻そう。ナルシサスと魔族を陥落させるにはどうすればいいか? 僕は考える。快楽漬けにして篭絡する方法はフウには有効だったけれど、牢獄に繋がれた今の僕ではちょっと難しい。そもそもナルシサスは始めからデレてる訳で、根本的に無意味な気がする。となると──。
「……」
……恐怖を植えつけて支配するか? 幸いというべきか、フウとの戦闘を見るに、魔族にも恐怖の感情はありそうだ。問題は、その方法である。
僕は腰元の刀をもう一度見やり、次に自分の手足を見た。凍り付いた指先は刺すような痛みを訴えてくる。あまり猶予はない。ナルシサスは鉄格子を掴んでいる。壁際に座る僕との距離は約二メートル。僕は決意を固め、ガバっと立ち上がると同時に刀を鞘から引き抜き、全力で振り下ろした!
「うぐっ……!」
「【つっ……】」
体は思ったように動かず、刀の重みに振り回されて狙いがぶれ、刀身はナルシサスの肩に軽く刺さるに留まった。人間であっても相当な浅手、血液魔術を用いる魔族にとってはむしろ追い風である。それが分かっているから、ナルシサスは僕の行動に軽く困惑したような表情をするだけだった。
だが僕の目的には十分だ。眉をひそめたナルシサスの顔が驚愕に染まる。彼女に刺さっていた刀が怪しく輝いたかと思うと、ナルシサスの傷口からドパッと堰を切ったように血が溢れ出す。
「【ひっ!? ああああああ、うわあああああっ!?】」
ずぶずぶずぶ、呪いの刀が嗤うように輝くたびに、夥しい血が流れて刀身に吸われていく。ナルシサスは恐慌した様子で無茶苦茶に手を振り回して刀を弾き飛ばした。カラン、カラン、床に落ちて刀は牢獄の外、僕の手の届かない場所まで飛んでいった。
「【小癪な、真似を!】」
ふー、ふー、と荒い息をつきながら僕を睨み付ける彼女の目は、濁った血の色に変わっていた。彼女が押さえる肩口から血が滴り、床に液だまりを作っている。
「なるほど。血とは魔族そのものであり、魔族の力の源である。魔術を使うために血を流す必要があるけれど、極度の出血や流血には恐怖を覚える、と」
「【……! やはり貴様は危険な──】」
「吸い尽くせ」
彼女の言葉を遮って僕は床の血だまりを指差した。顔に笑みを浮かべ、精一杯虚勢を張って、発動するのは毎度お馴染み『創造主の指先』。きらきらと光の粒が収束し、血だまりがぞろりと揺れる。怪訝な表情をする魔族の顔が、一瞬後に激しく歪んだ。
「【ひ!? うああっ、ああっ!?】」
ぶわっ、と黒い霧のようなものが魔族の小柄な体を取り囲んでいる。魔族は錯乱したように必死で腕を振って逃れようとしている。創造主の指先が生み出したモノ。それは、蚊の大群だった。ぶあああ──と羽音を立てながら、幾千幾万の蚊の集合体が蚊柱を作って、血を滴らせる獲物に群がっていく。
「【血が、血がぁ、あああっ、──のお、来るなぁっ!】」
ぶあっ、と炎が広がる。黒い靄が炎に呑まれ、ぱちぱちと音を立てて墜落していった。
「【ふ、ああああっ、あ、ふー!】」
僕から十メートル余りの距離を取り、肩で息をする彼女の目に浮かぶのは燃えるような殺意と、確かな恐怖の念である。
「【……のれ、おのれ、この男、やはりこの場で殺すしか!】」
「【駄目だ、駄目だ、それは約束が違う! 殺してはいけない、彼は氷付けにするんだ!】」
「【しかし!】」
「【うるさい、私のものだ、私のものなんだ! それが出来ないなら私の中から出て行け! 意思も心もない血の塊になって、日の光と乾気の中で朽ちてしまえ!】」
「【う、うう……】」
魔族の瞳が赤と緑に交互に移り変わって絶叫を上げている。まるで独り言を叫んでいるようだが、宿主であるナルシサスと寄生者である魔族が交互に言い合っているのだろう。
殺されるのを一番危惧していたが、案外ナルシサスの立場が強くて、それは免れそうだ。魔族も弱っているという話だから、強制的に洗脳するような力が無いのか、そもそもできないのか? その辺は謎だが、取り敢えず僥倖ではある。
「【……次善の策だ。こいつの動きは一切封じる】」
「【ううむ……。まあその程度なら】」
考えているうちに話はついたようだった。魔族が手を振りかざす。途端、僕の体は金縛りになったように動かなくなった。辛うじて瞬きと呼吸はできるが、それだけだ。血の瞳を苛立たしげに揺らめかせ、魔族はフィアルカを睨む。途端、フィアルカは「【がっ!? あがっ、がが、がぁっ!】」と首を押さえて悶え苦しみ始めた。人が上げるとは思えない絶叫に、ぞっと背中が震える。
「フィア!」
僕は叫んだ。喉は動かせたが、体は動いてくれない。その間にもフィアルカの顔は紫色に染まり、やがて見えない手に引っ張られたかのように、「【がはあっ!?】」と首を引き千切られ、──フィアルカは死んだ。どさっと無残な死体が転がり、吐き気がこみ上げてくる。だが、
「【……。脅しのつもり? 無意味なことを。わたくしに不死の呪いをかけたのはあなた】」
瞬きする間にフィアルカは元通りの姿になっていた。冷然とした空色の瞳はゴミを見るような目で魔族を見据えている。
「【無意味ではないさ。この男にはそっちの方が堪えるだろうからな】」
魔族が歪んだ嘲笑を浮かべた。確かに、……今のは結構効いた。肌を重ねたこともある人が苦しむ姿を見せ付けられるのは、身を切られるより精神を削る。時間がないとは言え、焦りすぎてフィアルカの身を危険にさらしたのは否めない。這いつくばる僕の様子を見つめ、魔族は小さく息を吐いた。
「【……次におかしな真似をしたらその女の内臓を生きながら引き摺りだしてやる】」
「【……やってみなさい、蛆虫】」
魔族とフィアルカが視線を交わした。にたり、魔族はいやらしく顔を歪めてせせら笑う。
「【ふ、くくく。滑稽だな。その男はお前の手で氷付けになって死ぬというのに】」
「【! ……黙れ、誰のせいで!】」
「【お前のせいだよ。愚かで哀れな魔人の娘! 膝を抱えて蹲っていればよかったのに。お前のせいでこの男は死ぬんだ。お前と関わったばっかりに私に知られ、ナルシサスに目をつけられ、今こうして惨めに死のうとしている。可愛そうになあ。可愛そうになあ。ふ、ふっくくく、ふ、ふ】」
フィアルカは、粘着質な笑い声を立てる魔族をギリギリと歯軋りしながら睨みつけた。その表情に、魔族は満足げに頷いた。
「【さて、何日持つかな? じっくり鑑賞させてもらうとしよう。人が苦しむ様子を見るのは最高の娯楽だからね……。おっとせっかくの鑑賞だ、ワインが欲しいな】」
魔族は踵を返してその場を後にした。……慢心してるなあ。力はあるんだろうけれど、力があり過ぎて肝心の運用する機微が足りないといった感じだろうか。まあ、死に掛けてる僕も大した口を叩ける立場じゃないけれど……。さてさて、急がないと。喉から声を絞って、僕は呼びかける。
「フィア、こっちに、来て、」
「【……? でも】」
赤フレームの眼鏡ごしに、空色の瞳が困惑したように揺れる。僕と彼女が離れているのは、凍結の呪いから逃れるためだった。近寄れば当然、凍結の進行が早くなる。
「いいから、早く、」
「【……分かった】」
フィアルカは困惑しながらも近寄ってきた。いつもの防寒具姿、いつもの冷然とした顔立ち、けれど瞳は潤んでいる。自分自身が殺される恐怖ではなく、僕を心配しているための表情だと悟って、胸がチクリと痛んだ。
「抱き締めて、ください」
「【……え?】」
「お願いです。必要なことです、から。信じて」
「【……】」
しばし逡巡した後、フィアルカは僕に抱き付いてきた。今までにもまして強烈な冷気が体を包んで、気が遠くなりそうだ。
「ぐ、う……」
「【……大丈夫?】」
不安げな声が耳を打つ。体が自由なら頭を撫でてあげられるのに、と惜しんだ。
「【……どうするつもり、これから? 考えがあるんでしょう?】」
「フィア。僕の体、魔術で、できるだけ、死なないように維持できますか?」
「【……できる……けれど。凍結は確実に進むから、長くは持たない】」
「それで、構いません。時間を稼げれば。待つ、だけでいいんです」
だって、もう終わってますから。僕は目を閉じた。魔族とのやりとりを振り返る。
一手目は確認。血の喪失が魔族にとって非常に恐ろしいものであるということを確かめた。
二手目は圧迫と隠蔽。魔族に恐怖心を植え付け、更に三手目への布石を打った。
三手目は──。
そこまで考えてブルリ、僕は体を震わせた。悪寒が背中を這い回る。
「フィア、もっと、強く抱いて」
「【……うん】」
防寒具ごしに彼女の体が押し付けられる。細い腕が僕の腰を抱いた。体がパキパキと音を立てて凍りつくのを感じる。その感触に──僕は安堵の溜息をついた。
「問題は、僕の体が持つか、なんですよねえ」
正直あんまり自信はないけれど。瞼の裏にナルシサスの顔を思い浮かべる。
「褐色肌ヤンデレ系ロリババア! 実にいいです。絶対にベッドであふんあふん言わせて、本当の愛情で僕好みに染め上げてみせます! そのために、僕は死ねないのです!」
「【……】」
冷ややかな目をしたフィアルカに鼻と口を押さえられ、呼吸が詰まって「あばば」となった。




