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5・香坂史緒様へ

 昇降口で靴を履き替え、傘立てにあった誰のものかも分からないビニールの傘をお借りして、急ぎ表へと出る。

 頭では、私が行ったところでどうもなりはしない、とは分かっていたし、悪い結果じゃないかもしれないと思いもしたけど、何故か今はなにより、葵の傍にいなくちゃ、という気持ちの方が強かった。

 先程よりも勢いを増しつつある雨の中、私が校庭へと足を踏み出すと、校門の方に二つのシルエットが見えた。

 やがて傘を差した影がこちらに背を向け、校門の外へと姿を消していく。そして取り残されたもう一つの影は、ただポツンと、雨の中に力なく立ち尽くしていた。

 その様子で、鼈甲屋(べっこうや)のお姉さんが、葵に何を告げに来たか分かってしまった。


「……葵……」


 どう声をかけていいか分からず、一人ずぶ濡れで(たたず)む葵に、手を少し伸ばして傘を差し掛ける。ふと足元を見ると、彼女は傘を差していないどころか、靴すら上履きのままで飛び出してきていた。

 泥だらけになった白い靴が、私の目には物悲し気に映る。


「……『ごめんなさい』だって……」


 しばらくの沈黙の後、葵が絞り出すように小さな声で言った。


「……うん……」


 どう返していいか分からず、私はただ、その言葉に頷く事しかできない。

 それからまた数瞬流れた後、葵は背中を反らせて、大きく息を一つ吸った。


「――あーあ、まいったなぁ、ダメだったかぁ」


 いつもと変わらぬ声で、そう言って私に向き直る葵。その顔も、雨で濡れている以外はいつもと変りなかった。雨と涙の区別はつき難いけど、少なくとも目は潤んでいない。


「ゴメンなー、史緒。あんだけ付き合ってもらったのにさ……なんかなぁ……あたしもあたしなりに頑張ったつもりだったんだけどなぁ。照れくさいの我慢してさ」

「……うん……」

「やっぱあれかな?逆にもっとさ、普段のあたしをアピールしてけば良かったのかな?ホラ、あんたは止めたけど、食べ物の事もっと書いたりしてさ」

「……うん……」

「ま、それでもさ、ちょっとはいい夢見られたよ。あたしの憧れてた、キラキラしてフワフワした、女の子の世界の住人になれたみたいで、さ」

「……うん……」

「だからさ、史緒」

 

 私の頭を、葵の手が優しく撫でた。


「……もう、泣くなよ」


 その言葉に堪え切れなくなり、私は傘を放り出して葵の胸に飛び込んだ。葵は困ったように動きを止めたものの、やがて私の背に腕を回してくる。雨で濡れている彼女の制服の胸元を、私の涙がさらに濡らしていった。


「……だって、だってさ、葵……あんなに頑張ってたのに……」

「そりゃお前、頑張ったからって報われない事だってあるだろ。あのお姉さんに好きな人がいたとか、実はもう付き合ってる人がいたとかさ」

「……そうだけど……そうかもしれないけど……」

「それかホラ!実はあたしみたいな食いしん坊が苦手だったとか?まー、確かに、サービス目当てで通ってたようなとこあるもんなー。見透かされちゃってたのかも」

「……」

 

 はは、と自嘲気味に笑う葵の声に答える代わりに、私は彼女の胸にさらに深く顔を埋めた。

 だって……葵がいつも通りに振舞えば振る舞う程、私にはそれが悲しく感じられて……涙が止め処なく溢れてくる。

 ずっと葵のラブレター作成を傍で見ていた私だから分かる……葵、本当は泣きたいよね。私なんかよりずっとずっと。だって、あんなに一生懸命、お姉さんに想いを伝えようって……。

 だから、葵の代わりに私が泣いてあげる……努力を知ってる分、下手な慰めの言葉なんか掛けられないから……ごめんね……情けないけど、私が葵に、友達としてしてあげられるのは、それが精一杯。

 やがて、午後の始業を知らせるチャイムが校庭に響き渡る。知らないうちに、昼休みの時間が過ぎて行ってしまったらしい。

 そのタイミングで、葵の指が、まるで涙を拭い去ろうかとするように、私の濡れた髪を梳いてくれる。

 その仕草が、少しだけ私を元気づけてくれた。


「ったく、いつまで泣いてんだ……あんたはどんだけ泣き虫なんだよ……折角あたしが鍛えてきてやったのに、一年生の時から何も変わってないじゃないか」


 葵のからかうような口調に、やっと私はゆっくりと彼女の胸から顔を上げた。

 見上げたその先にあったのは、何も変わらない、白い歯を見せて爽やかに笑う、無邪気でやんちゃな男の子みたいな、いつもの葵の表情。

 私は手の甲で涙を拭くと、ちょっと唇を尖らせて、拗ねた真似をして見せる。

 

「……何それ……葵がいっつもあたしを虐げてきたのって、そんな理由からだったの?」

「おいおい、虐げて、っていうのは人聞きが悪いな。鍛えてって言ったろ?トレーニングだよ、トレーニング」

「……あんなスパルタなトレーニング、名門校の運動部だってやらないでしょ……」

「いやいや、だって言うだろ?『獅子は千尋、亀は万年』とかなんとか」

「……『獅子は我が子を千尋の谷に落とす』、ね……」


 葵の間違いを訂正して、思わずふふっと笑ってしまう。どんな間違いよ、それ……全く、葵ってばそれでも文芸部の副部長なの?

 私が笑ってるのを見て、葵は優し気に少し目を細めた。


「あーあ、しっかしビッチャビチャになっちゃったな……なあ、史緒、ジャージとかあるか?」

「え……?うん、教室前の廊下にある、私のロッカーに入ってるけど」

「お、そうか。あたしもなんだ。そしたらさ、こっそり着替えて、午後の授業はサボって何か食いに行こうか?」

「……葵、それ本気?」

「勿論。どうせ遅刻だしな。それにさっき言ったろ?あたしはまだデザートを食べてないんだよ」

「私は昼ご飯食べたばっかりで、そんなに入んないんだけど?」

「ま、それでも付き合えって。昔っから何度も言ってきた通り。人間、嫌なことがあったり辛いことがあったら、食べるに限る、ってさ。そしたら泣き虫の史緒だって、涙を忘れられるだろ?」


 うん、そうだね。お兄ちゃんの口癖だっけ?初めて会ったその時から、葵はその言葉をよく口にしてた。

 だったら、ちょっと無理してでも付き合おうか。私が涙を忘れる為に、じゃなくて、葵がこの悲しい恋の結末を乗り越える為に。


「……分かった。じゃあ私がご馳走するね。……葵がどれだけ食べるか、お財布が心配だけど……」

「いいよ。ラブレターの礼もまだだったしな。今日はあたしが奢るさ」

「ホント?……じゃあ、とびっきり高い物注文しちゃおっかな」

「あのなぁ史緒、あんま調子に……っと、雨、止んだか?」


 葵が掌を上向きにして雨の降りを確かめる。あ、ホントだ。いつの間に止んだんだろう……全然気が付かなかったな……。

 それどころか、見上げると雲の隙間から晴れ間も差してきていた。また暑くなるかな?そしたら制服も干しておけばすぐに乾きそうだけど。


「あ、葵!見て見て!」


 空を指さして葵に声をかける。葵の背後、校門の向こう側に見えたのは、はっきりと浮かぶ七色の虹。

 お、綺麗だな、としばし虹を眺めていた葵は、ふっと私を振り返ると、ちょっと照れた様子で私の肩に手を置いた。


「そうだ、今なら言ってもいいかな……あのさ、史緒。前に言いかけてたけどさ……聞いてくれるか?」

「?な、何よ、急に改まって……」

「あー、その、なんだ……茶化すなよ?絶対に茶化すなよ?」

「茶化さないってば!で、何?」

「その……あたしさ、あんたが―――」


 虹のアーチを背にして、葵は私に向かって微笑んだ。


「―――あんたが友達で、本当に良かった」


*****


「はい、史緒ちゃん。紅茶入ったわよ」


 栗色のウェーブがかった髪の少女が、そう言って私にティーカップを載せたソーサーを手渡してくる。私と同じクラスであり、通称『文芸部の聖母』こと宮嶋果恵だ。

 ありがと、とそれを受け取り、私は部長の机に頬杖をついて色々と思考を巡らせていた。

 文化部棟四階、文芸部部室。今日の授業も終わり、いつも通りの放課後。部室にいるのは私と果恵だけだ。

 今私が考えこんでるのは他でもない、葵が話していた『真っ赤な封筒』の事と、沢渡さん言うところの『妖女』の件だ。鉄砲塚さんの件といい、最近の一連の出来事は色々スッキリしないんだけど、この事に関しては群を抜いてるんだよね……。


「どうしたの、史緒ちゃん?ずっと仏頂面で考え込んでるけど……何かあったなら相談に乗るわよ?最近葵と忙しそうにしてたし」


 ガラステーブルの前のソファに座り、そう言ってカップの紅茶を飲む果恵。そっか、果恵に部活まかせっきりだったもんね……心配してくれてるんだろうな。事情話してなかったもんね……。

 うーん、どうしよう……果恵ってば頼りになるし、これは葵のラブレターとは直接関係ないから、相談するのは構わないかな……それに、果恵なら確か葵と同じ中学だったから、何か知ってるかもしれないし。


「えっとね……そのさ、果恵の通ってた中学で、変な噂って聞いた事ない?その、『真っ赤な封筒のラブレター』とか、『ラブレターを燃やす謎の妖女』とか」

「……なぁに、それ?学校の七不思議か何か?」

「あ、い、いや……知らないならいいんだけどね」


 不思議そうな顔で私を見つめ返してくる果恵に、私は次の言葉を紡ぐことができない。むむむ、困ったな。どう話を展開していったらいいものやら……。


「大丈夫?怖い小説でも読んだの?一人でお手洗い行ける?お布団入れる?何なら、膝枕してあげましょうか?」

「いや……子供じゃないんだからさ……ま、まあ、果恵が何も知らないならそれでいいんだけど」


 うーん、やっぱり何の確証もなくこんな話しても信じてはもらえないよね……困ったな。こういう時に、この事件に詳しいあの子さえいれば……。


「お疲れーっす。久々に顔出しに来ましたー」

 

 すると、ドアが開いて、部室に入ってくる女生徒が一人。ボブカットの髪を赤いカチューシャで上げたお喋り好きそうな少女……まさに今、私が待ち望んでいた、沢渡杏さんその人だった。


「沢渡さん!もう具合いはいいの?鉄砲塚さんから、しばらく学校を休んでるって聞いてたけど」

「え?ま、まあその……絶好調ではないすけど、程々に」

「そっか……でもちょうど良かった!あのね、前に話した『妖女』の話を、果恵にも―――」


 だが、『妖女』のフレーズを聞いた途端、さっきまでいつも通りにしか見えなかった沢渡さんの顔から血の気が引き、滝のような汗が流れ始めた。


「ナナナ、ナンノ事スカネー……沢渡ニハサッパリワカラナイス」

「何の事って……あ、そうだ!!葵から聞いたんだけど、沢渡さんも『真っ赤な封筒』もらったんじゃないの!?それにはなんて書いてあったの!?」

「イイイ、イヤー、香坂ブチョウの(オッシャ)ルトオリ、確カニ今日ハイイ天気スネー」


 窓の外へと目を逸らして、下手くそな口笛を吹き始める沢渡さん……だ、ダメだ……会話にならない……それにしてもここまではぐらかすなんて、何かよっぽど怖い目にでもあったのかな?

 私達二人のやり取りを、黙って物珍しげに見ていた果恵だったが、何か思いついたかのようにソファから腰を上げた。


「二人とも今日は変ねぇ……まあいいわ。切らしそうだし、紅茶とお菓子買ってくるから、話がまとまったら後で聞かせてくれる?」


 そう言い残し、私達を置いて部室を出ていく果恵。あ、ちょっと……って、確かにこれじゃ、今彼女に話すことはないかぁ……。

 うーん、どうしたものか、と思った矢先、沢渡さんが話題を変えようと言わんばかりに、明るい声を出した。


「あ!そ、そうそう!!香坂部長、今日は、新しい噂仕入れてきたんすよ!!」

「え?ああ、また何か清潤で変な噂でも出回ってるの?」


 あ!と思い当たる。……沢渡さん葵の事追い回してたし、こないだ雨の中、葵と私が抱き合ってたとかなんとか、そんな噂じゃないでしょうね……鉄砲塚さんにそんなおかしな事吹き込まれたら、また面倒な事になっちゃうな……。

 けれど、沢渡さんが話し出した噂は、私の予想とは大きくかけ離れていた。


「……実はすね、何でも、うちの生徒から手紙を受け取った、外部の女性がいたらしいんす」

「へえ、外部の女の人が」


 っていうか、また手紙絡みの話かあ……最近本当に多いなあ……。ま、手紙の受取人も女性って事で、百合っぽいから大人しく聞くけどさ。


「そんでですね、その外部の女性……仮にA子さんとでもしましょうか……」


 あれ?さっきまで明るかったのに、何か段々沢渡さんの声のトーンが下がって来た?ちょ、ちょっと!大丈夫!?雲行きが怪しくなってきてない!?さ、最近部室で似たようなシチュエーションあったよね!?


「可愛らしい封筒に入ってたから、A子さんはラブレターかと思ったらしいんすよね」

「ふ、フンフン……なんだ、微笑ましい話じゃない……無駄に雰囲気作るのやめてよ、沢渡さん」

「そう思うじゃないですか……けど……いざその封筒を開いてみたら、中に入った便箋には書き殴るような字で……」

「え!?う、うん……な、なんて書いてあったの!?」

「―――『お前を許さない』―――って……」


 ひいいぃぃ!!やっぱり怖い話じゃない!!な、何で果恵はこういう時にいないの!?一緒にトイレ行って!添い寝して!膝枕で寝かしつけてよ!!


「……で、全く心当たりは無かったものの、A子さんはわざわざその子に会いに行って、『ごめんなさいごめんなさいごめんなさい』って平謝りに謝って、事なきを得たみたいなんすよね」

「―――あ、良かった。そこまで怖い話じゃなかった……まあそのA子さんには十分怖い話だったでしょうけど」


 そのA子さんが何で恨みを買ってたか知らないけど、謝って済んだなら良かったじゃない?……それにしても、心当たりが無くとも人に恨まれる事なんかあるんだ……私も気を付けようっと。

 

「で、それっていつ頃の話なの?最近?」

「そっすね。こないだ雨降ってた日があったじゃないすか。A子さんが謝りに行ったのはあの日らしいすよ」


 ああ、あの雨の日にそんなことが起きてたんだ……ふーん……ん!?

 な、なんだろう……な、何か引っかかるような……ま、また閃きがスランプに入っちゃったのかな……何かこう……もう少しで……。

 私が必死に思考をまとめようとした矢先、ノックもなく、バン!と部室のドアが開いて、猫の耳のようなツーサイドアップを揺らしつつ、鉄砲塚さんが入って来た。


「ブチョー、お待たせいたしました!例のモノお持ちしたんですケド!」


 ちょ、ちょっと……折角何か浮かびそうだったのに……それに何よ、例のモノって……ま、まさか、何か卑猥な物とかじゃないでしょうね!?そ、そんなものお願いした記憶は―――。

 想像に頬を赤らめる私になどお構いなしに、上機嫌で膨らんだスポーツバッグを私の前の机に置く鉄砲塚さん。

 な、何?ま、またラブレターを山ほど持って来たの?……も、もう葵のラブレターの件は一件落着したし、今更―――。

 私の想像通り、バッグの中から机に広げられたのは、何十通……ううん、百通は超えてそうな、様々な色をした膨大な量のラブレターだった。な、何コレ……こないだより明らかに増えて……アレ!?

 そこで私は、一つの事実に気が付いた。これって……どれもこれも、そ、その……。


「て、鉄砲塚さん、ま、まさか……」

「あ、お気づきになりましたぁ!?ブチョー、なかなかのケイガンですね、慧眼!」


 そう、この手紙、どれも宛先と差出人が一緒なのだ……。

 宛先は「香坂史緒様へ」、そして差出人は「鉄砲塚沙弥」……。

 つ、つまりこれ全部―――……。


「いやー、サスガに大変でしたケド、何とか書き上げましたぁ!これで、部長の初めてどころか、百ちょい番目のラブレターまではあたしのモノですね!」


 う、嘘でしょ……一肌脱ぐとか言ってから、まだ数日しか経ってないのに……そ、そりゃこの子の筆の速さは知ってはいたけど、まさかここまで―――。


「ついつい書き出したら筆が止まらなくなっちゃって―――。ジョーネツってヤツですよね」


 と、止まらなくなっちゃって、って、ちょ、ちょっと、鉄砲塚さん……沢渡さんの目の前で流石にこれは……明日には、尾ひれの付いた私達のおかしな噂が学校中に―――!!

 ところが、沢渡さんはラブレターの山をしげしげと眺めて。


「沙弥っちー、香坂部長へのドッキリの為だけに、よくこんだけ封筒用意したすね。沢渡まで驚いちゃったす」


 あ、ど、ドッキリだと思ったんだ……そりゃそうだよね。普通なら、こんなのそうとしか思えないし……。

 けど、鉄砲塚さんの事を何一つ分かってないよ、沢渡さん。この子は、この封筒の中身もしっかり書いてるし、多分内容も全部違ってる……鉄砲塚さんには、それだけの文章の才能と……それと、そ、その……は、恥ずかしいんだけど、わ、私への、そ、その……絶大な愛情があるから……。

 

「ま、これだけあればラブレターっていうものがどんなものか、ブチョーにもオワカリ頂けるでしょうし、それに、百番目ちょっとまであたしのモノなら、もし今後ブチョーが誰かにラブレターを貰ったとしても、ヤキモチ焼かないで済むっしょ」


 ふふん、と得意気に鼻を鳴らす鉄砲塚さん。まあ確かに、この量のラブレターを読めば、嫌でもどんなものか分かるでしょうよ……勿論、送り主からの想いがこもってるのは知ってるけどね……それに鉄砲塚さんも、もし私へ他の誰かからラブレターが来たって、それだけ上位を独占してれば、ちょっとやそっとじゃ送り主への焼きもちは―――……。

 ん?想いがこもってる……?送り主への焼きもち……?

 あ!そ、そうか!!こ、ここに来てやっと腑に落ちた!

 ―――この子ってば、ずっと私に焼きもちを焼いて欲しかったんだ……!!

 そう理解した途端、思わず口元から笑みがこぼれた。全く……そんなことがきっかけで、あれだけ大騒ぎしてたの?この子ってば……。

 円妙寺さんの言葉を思い出す……そうか、確かにこの子は、私なんかよっりずっと大人びてて、セクシーで、何でも出来ちゃうから忘れがちになっちゃうけど。

 ―――女の子、だもんね。

 私は椅子から立ち上がって手を伸ばすと、鉄砲塚さんの髪をそっと撫でた。


「お疲れ様、鉄砲塚さん……それと、ありがとうね、ラブレター。全部大切に読ませてもらうから……」

「ブチョー……」


 見つめ合う私と鉄砲塚さん……やがて、彼女は机の上に身を乗り出して来る。その緑色の瞳に吸い込まれるように、私もまた身を寄せて―――……。


「おい!史緒も鉄砲塚も、部室でなーにやってんだ!」


 その声に自分を取り戻し、椅子に座り直して机を蹴り、キャスターを利用して鉄砲塚さんから離れる私。鉄砲塚さんといえば、目を閉じ唇を突き出して……ちょ、ちょっと!いつまでやってるのよ!!

 そ、それにしても危なかった……ついつい雰囲気に飲まれそうになってた……こ、声の主は救世主か誰か?

 ドアの方を見ると、いつ部室に入って来たのか、そこには呆れたような顔をして、腕組みをして立っている葵の姿が。


「……あー、ビックリしたす。沙弥っち、ドッキリとはいえやり過ぎでしょ。沢渡、本当に二人がキスしちゃうのかと……」

「まっさかー。……だよなぁ、鉄砲塚?うちの部室でそんな破廉恥な行為、例え流されやすいアホの部長が許しても、副部長のこの佐久間葵が許さねえぞ?」

「は?つか、何で二人の恋路に佐久間センパイの許可がいるですか?ショージキ言って、大きなお世話なんですケド?」


 大好物を取り上げられた猫の如く、シャーッ!と喉を鳴らし威嚇しながら、眼光鋭く一歩踏み出す鉄砲塚さんと、彼女を挑発するように、両腕を大きく掲げ、臨戦体制に入る葵。な、何……?二人の周りの風景がグニャリと歪んでる気がするんだけど……こ、これはまさか、世に言う『闘気』ってヤツ!?

 こないだ先送りになって力が有り余っているのか、二人とも全開全力だ……こんなとこでこの状態の彼女達がぶつかったら……文字通り文芸部崩壊の危機……!!なんだったら、文化部棟まで崩壊しかねない……どどど、どうしたら―――。


「ただいまぁ。あら?葵と沙弥ちゃんも来てたのね。ケーキ多めに買ってきて良かった。さ、皆でお茶にしましょ」


 一触即発のその瞬間、ドアが開き、二人の間にのんびりした声が響いた。か、果恵!!そ、そこにいたら危な―――!!

 しかし、私の心配をよそに、果恵は手にした箱を持ち上げ、「ホラ、ここのケーキ、葵も好きでしょ?」と葵に見せた。途端に、葵の身体から闘気がスーッと消え失せていく。

 

「お!いいねえ、ちゃんとモンブランも買ってきたんだろうな?」

「勿論……葵の好物だもんね」

「さっすが果恵!よっし、じゃあお茶にしようか」


 す、凄……果恵ったら、ケーキ一つで、見事に葵をコントロールしている……これからは『文芸部の聖母』じゃなくて『文芸部の猛獣使い』って呼ぼうかな。

 そんな葵の様子に毒気を抜かれたか、鉄砲塚さんは不満げな顔を浮かべたままではあったものの、大人しくソファに腰を下ろして足を組んだ。


「……何という人心掌握術……お見事です……」


 気が付けば、部長用の机の前に、沢渡さんに並んで円妙寺さんが立っている。こ、この子……相変わらず神出鬼没が過ぎる……!たまには普通に出てきなさいよね!


「円妙寺さん、いつの間に……」

「……つい今しがた……買い物をしている『師匠』を見かけて合流しまして……今も一緒に入って来たところです……」


 ふーん、師匠とねー、と納得しかけて、ポポンッ!!と頭に疑問符が浮かぶ。ん?し、師匠って誰の事!?

 私の疑問に答えるかのように、ケーキを皿に取り分けていた果恵が、困ったように言った。


「もう……了子ちゃん、その呼び方は止めて、って何度も言ってるでしょ?恥ずかしいんだからね」

「え!?円妙寺さん、果恵の事、師匠って呼んでるの!?な、何で!?」


 こないだまではそんな風に呼んでなかったよね!?わ、私がしばらく部室に顔を出さない間に、一体何が―――??

 

「……実は……この間季刊誌に提出した私の作品に……宮嶋先輩が的確なアドバイスを下さいまして……それに感銘を受けて……師と仰ぐことにしたのです……」

「そんな大したこと言ってないわよ。ただ、縄とか鞭とか、そういうので肉体的に痛めつける描写だけだと物足りなく感じるから、精神的な責めも必要だ、って言っただけで」

 

 あ、そういえば、果恵は季刊誌の編集中に、『了子ちゃんにアドバイスしてあげようかなぁ』とか言ってたっけ。

 そ、それにしたって、果恵の練乳みたいな甘い声で痛めつけるとか責めとか言われると、逆に怖いな……。

 円妙寺さんは果恵の言葉に、ふふっ、と笑って「ご謙遜を……」と返した。


「……あの時師匠が出してくれた……精神的責め苦のアイディアの数々……私の想像の及ぶところではありませんでした……尊敬するに値する、素晴らしいお方です……」


 ……果恵、あなた円妙寺さんに何を吹き込んだの!?というか、あの円妙寺さんにここまで言わせるって、果恵って一体何者!?猛獣使いどころか、妖怪変化を使役する陰陽師か何か!?

 でも確かに、精神的責め苦は分からないけど、見た目にそぐわず、果恵の書く小説って、黒百合というか病み百合というか、ドッロドロのグッチャグチャだもんね……私は少し苦手だったりするけど、好きな人は好きでたまらないだろうな、って感じの。

 

「師匠の凄いところは……責め苦のアイディアだけにとどまらず……そこに至るまでの……登場人物の心理描写の圧倒的リアリティと……何より……精神操作の巧みさにあります……マインドコントロール、という物ですね……」


 陶然とした様子で、ほう、と小さく溜息をつく円妙寺さん。そ、それ、そんなウットリとした顔で言う事!?私は鳥肌が立ってるんだけど!?

 「ハイハイ、お褒めの言葉ありがとう」と、制服の上に着たエプロンで手を拭きながら、果恵は私と円妙寺さんの元へやって来た。


「了子ちゃん、皆にお茶を配ってくれる?史緒ちゃんはなぁに?手紙をこんなに広げて……」


 そう言って、机の上に大量にある鉄砲塚さんからの手紙を、果恵は手際よくまとめていく。ほ、ホント、果恵ったら理想のお母さんだな……。


「あ、ありがとうね、果恵」

「いいわよ。さ、片づけとくから史緒ちゃんも向こうのソファに行って」


 果恵に促され、鉄砲塚さんの向い、葵の隣に座る。目の前のガラステーブルには、紅茶と、皿に乗った様々なケーキが並べられていた。私の前にあるのは、ラズベリーの乗ったムースケーキ。


「……沙弥のアップルパイ……美味しそう……私の芋羊羹と半分こしない……?」

「いいよー。つか、ここのケーキ屋さん芋ヨ―カンとか売ってるんだ。意外なんですケド」

「お、そういや沢渡、こないだあたしから逃げ出したのは何だったんだよ」

「ウウウ、ウワー。美味シソウナケーキスネー。沢渡チーズケーキ大好物スヨー」


 テーブルを囲む皆の賑やかなやり取りを眺めつつ、ふう、と一息。まだ気になる事もあるけど、長かったこのラブレター騒動もとりあえずは一段落、かな?

 

「……史緒。お前のそのムースケーキさ、あたしに一口くんないか?」

「え!?い、いいけど、これラズベリーだし、多分甘酸っぱいよ?葵、酸っぱいの大の苦手でしょ!?」


 葵の申し出に戸惑う私。それに、その……春の季刊誌の葵の作品での青梅ゼリーといい、前に鼈甲屋に行った時にサービスされた梅の餡を挟んだお餅といい、酸っぱい物って、あのお姉さんのイメージがあるんだよね……名前も梅宮さんだったし……。

 私の返事を待たず、葵は手にしたフォークで、ラズベリーのムースケーキをサッと小さく削り取る。


「いいんだよ。いつまでも苦手なものあっちゃ良くないだろ?少しずつでも克服して、乗り越えていかなきゃな―――そのうち梅だって食べられるように、さ」


 そう言いつつ、葵はフォークに乗ったムースケーキとしばし睨み合う。

 ……やがて彼女は意を決したように、パクン!と一気に一口で―――。


「!!!!うぎぎぎぎ……!!あ、甘いけど、すすす、酸っぱい……!!!」

「ホラ、言わんこっちゃない!」


 顔をしかめる葵の口元に、私は急いで紅茶を運ぶ。

 ……無理しなくていいよ、葵。

少しずつでもって自分で言ったじゃない。私も隣にいるからさ、焦らずにゆっくり、乗り越えていこう。

 ―――甘くて酸っぱい、ラブレターの思い出を……。

 

*****


『……あなたに出会ってからのあたしは、まるで震える一匹の子猫のよう。貴女に抱き締めてほしい、貴女に温めてほしい、貴女に……あたしの全てを愛してほしい。あたしもまた、ミルクを舐めるようにして、貴女の全てをこの舌で―――……』


「だあああぁぁッ!!!」


 思わず絶叫し、私は愛用の子供用学習机の上に手紙を放り出す。ちょ、ちょっと鉄砲塚さん!ど、どこの世界にR-18指定のラブレターがあるっていうのよ!!

 ハアハアと息を荒くしながら、私はまだ山程もあるラブレターの束を絶望的な気分で眺める。……これでやっと三通目なんだよね……ま、まだ九十七通以上もあるのか……。

 勿論、ひ、卑猥な内容も含まれるとはいえ、手紙に書いてある鉄砲塚さんの私への想いは、間違いなく本物だ。だからただでさえ読むのが恥ずかしいのにさ(……ついつい……そ、その……不覚にもときめいたりもするんだけどね……)、そこに重ねてこれでは、果たして読み終わるのに何日かかる事やら……。


「……それでも全部読む、って約束したもんね……頑張らないと……」


 溜息をついて椅子の背もたれによりかかると、私は冷静さを取り戻そうと目を閉じた。

 ラブレター騒動も一段落、って思ってたけど、何だったらこれ、葵のラブレターの推敲よりある意味ではハードかも……。

 ラブレター騒動……そういえば、葵のラブレターを皮切りに、ここ最近は色々とおかしな事があったな。

 私の頭の中に、漠然と様々な事柄が浮かんでくる。

 葵近くに中学の頃から見え隠れする、『真っ赤な封筒』と『謎の妖女』の影……やっぱりその正体は私達と一緒で、清潤学園に通う生徒なのかな?けど、同じ中学だった果恵が何も知らないって言ってたのは意外だった。


「ふああぁぁ……。普通なら噂くらいにはなってそうだけどなあ……」


 思わず大欠伸……とと、私としたことがはしたない。

 噂……そういえば、噂の出どころの沢渡さんも『真っ赤な封筒』を手にしてた、って葵が言ってたっけ。

 沢渡さんといえば、彼女がしていた新しい噂話も気になるな……鉄砲塚さんが部室に入って来たせいで考えが途切れちゃってたけど、外部の女性『A子さん』が、清潤の生徒から手紙をもらった話。


『中に入った便せんには書き殴るような字で……―――『お前を許さない』―――って……』

『……そこにはただ一言だけが、こう大きく書き殴られてたんだ……。―――『絶対に、逃がさない』―――ってね……』


 なんだろう、雰囲気的には葵が受け取った、『真っ赤な封筒』を思い出すんだよね……もしかして、沢渡さんの情報不足で、中に入ってたのは黒い便箋だったり……っていうのは考え過ぎかな。大体そのA子さんが、『謎の妖女』に恨みを買う謂れなんてないもんね……。それに、『真っ赤な封筒』じゃなくて、『可愛らしい封筒』に入ってたらしいしさ……。

『可愛らしい封筒』……そういえば、葵がラブレターの為に用意した封筒、薄い水色で可愛らしかったな……。鞄のほつれて破けたとこから落ちたって言ってた……。


『最後の授業の時までは、確かに内ポケットに―――』


 鞄のほつれに葵は気が付いてなかった……だとしたら、もしかして、誰かが手紙を抜いた後に……それをカモフラージュしようとして……穴を開けたんだとしたら?……なんて、考え過ぎでしょ……下手なミステリーじゃないんだから……。

 それに……ちゃんと手紙は戻ってきたんだし……あれ、届けてくれたのは円妙寺さんだけど……彼女が拾ったんじゃなさそうだったんだよね……。


『いいえ……拾ったのは……『し』……』


 そうそう……『し』……だっけ……誰かの名前を言いかけてたけど……私の聞き間違いだよね……今その頭文字の人……白峯先輩は……文芸部にいないし……。

 あ、そういえば円妙寺さん、『師匠』なんてあの子のこと呼んでたっけ……ふふ、おかしいの……。


「……うーん……眠……」

 

 ゴシゴシと目を擦る。とりとめもなく思考を巡らせていたら、何だか段々睡魔が襲ってきたみたい……最近睡眠不足だったもんね……生活リズム戻さなきゃ……こないだの朝みたいに……夢見心地でまた電柱にぶつかっちゃう……。

 でも、こないだは朝もやが凄かったからぶつかっただけで……だって、シルエットしか見えないような状況だったからさ……駅から出てきた……清潤の生徒だって……殆ど見えなかったもん……清潤の生徒……そう、彼女に似た……。


「…………」


 ……彼女だとしたら……あんな朝早くからどうして登校してたんだろう……理由は何?……もしかして、葵の下駄箱や机に、前日からとか、早朝からのラブレターが入ってないかの確認と焼却?……とか……そんな……まさかね……『謎の妖女』じゃないんだから……。


「むにゃむにゃ……」


 バカバカしい……あのシルエットが……彼女の……あの子の筈が……無いじゃないの………。

 ……あの……子の……果恵の筈が…………。

 

「おねーちゃん、風邪引いちゃうよ!!」

「わわわ、ななな、何!?」


 突然耳元で大きな声を出されて、椅子から転げ落ちそうになる……な、何?驚かさないでよ!?

 見上げると、そこには心配そうにしている私の妹、早苗の姿が。


「大丈夫?……ゴメンね。おやすみ、って言いに来たら、おねーちゃん椅子に座ってウトウトしてたから」

「……だ、大丈夫大丈夫……、び、ビックリしただけだから……あ、ありがとうね、早苗……」


 「おやすみ」と早苗に手を振ると、私は椅子へと座り直した。

 んー……何だろ……夢うつつで色々考えてたら、重要な何かに到達しそうになってたような気が……だ、ダメだ。驚いたショックで、全部綺麗に頭から飛んじゃってる……。

 むむむむ……手がかりすら閃かないや……やっぱりまだスランプは続いてるのかなあ?

 一旦リセットするように頭を軽く振って、私はラブレターの束の上から一通手にした。

 ベッドに入る前に、さっきのラブレターは卑猥だから一旦保留にして、新しく読み直そう。そうこうしてるうちに、さっきの考えがまた浮かんでくるかもしれないしね。

 そう思い、手にしたラブレターに視線を落とす。


「―――ん?」


 ……色とりどりな封筒があって、装飾も様々だけど、これは赤い色をしただけのシンプルさだなあ……おまけに宛名も差出人も書いてない。書き忘れ?完璧超人の鉄砲塚さんらしくもない……ま、これだけ量があれば一通くらいはそういう事もあるかもね。

 深く考えもせず、封筒を開ける。それと同時に、私は目を見開いた。


「ちょっと……鉄砲塚さんってば、流石にこれは趣味悪いでしょ……」


 中から出てきたのは、真っ黒な便箋―――もう!寝る前だっていうのに、勘弁してよ!嫌でも『謎の妖女』の連想しちゃうじゃない!!

 全く!と怒りつつも便箋を開いた、その瞬間。


「ふんぎゃあああああああああああああぁぁぁ!!!!!!」


 絶叫と共に、今度こそ私は、ドシーン!!と椅子から床へと転げ落ちた。

 私と共に床へと落ちた黒い便箋には、恨みを込めて書き殴ったような字で、たった一文―――……。

 

『これ以上、嗅ぎまわるな』


 なななな、何これ!?ま、まさか本当に『妖女』からの手紙!?い、いつの間にラブレターの中に紛れ込んだの!?ひょ、ひょっとして、さ、沢渡さんが手にしてたのも、同じ文面だったり―――!!??

 わ、私達、もしかして、常に『謎の妖女』の監視下にいるの―――!!??ひ、ひいいいぃぃぃぃ!!!!


「お、おねーちゃん!?す、凄い声と音がしたけど、ど、どうしたの!?」


 驚いて部屋に駆け込んできた早苗を、床から見上げながら、私は思った。この『真っ赤な封筒』と『謎の妖女』の件は一旦静観しよう……勿論、友人として葵に何かあったら全力で守るけど、今のところ、彼女に対しての害は無くなってるし……可哀想だけど、葵に対して恋心を抱く女生徒達には、沢渡さんの方から「葵はラブレターを読まないから書かない方がいい」って噂を流してもらって……彼女達に身の危険が及んだり、手紙を燃やされるよりはずっといいもんね……。

 そしていつかきっと、この『妖女』の正体は暴いてみせる……人の想いのこもったラブレターを処分するなんて、絶対に許せることじゃないもの。

 見てなさいよ、『妖女』!!負けないんだから!!

 まあ、今はそれはそうとして……。


 ギブアップ……。

 

 そう考えた後、私の意識はスーッと遠のいていった。


***** 

 

 その(くら)い森には魔女が棲んでいる。

 魔女は傲慢で、強欲で、冷酷で、そして何より愛に飢えていた。

 そんな魔女が、一人の少女に出会い、愛を知った。少女の名はアリシア―――この国の王女である。

 健康的な容姿とその明るい性格に、魔女は一瞬で心を奪われてしまった。


「ああ、アリシア……貴女はなんて美しいの……」


 陶然としたように(ひと)()ちる魔女。


「貴女を誰にも渡したくない……私だけのものにしたい……誰の目にも触れないよう、いっそ幽閉してしまいたい」


 それが歪んだ愛情だという事は、勿論魔女にも分かってはいる。しかし魔女は、その為ならどんな手段をも厭わない、と心に誓ってもいた。王女を自分の手にする為なら、例え誰の心を傷つけようとも……アリシア王女を欺こうとも―――魔女自身の心を偽ろうとも、だ。


「焦ってはいけない……少しずつでいい、少しずつで……」


 自らに言い聞かせるようにそう言って、魔女はニィッと微笑んだ。

 少しずつ少しずつ、蜘蛛が糸を張るように……貴女が気がついた時には、私の愛からもう逃れられないように……。


「……セレン、先程から上の空だが、どうした?」


 アリシア王女の心配そうな声で、少女―――セレンは我に返った。


「……あ、い、いえ、なんでもありませんわ。ちょ、ちょっとボーッとしてしまいまして……」

「セレンがボーッとするなど珍しい。どこか体調でも悪いのではないか?」


 アリシア王女の指摘通り、普段は聡明で冷静な侍女・セレンがこのように考え事に耽るなど、珍しい事だった。

 ここは王城近くの泉のほとり。以前より計画していたピクニックの日だ。空も晴れ渡り、絶好の行楽日和と言えるだろう。普段城では行動が制限されている王女は、今日が来るのを楽しみにしていた。

 しかし、長らく自分に仕えてきた少女の調子が悪いとあっては話は別である。


「………何なら今日のピクニックは中止にして、城へ戻っても良いのだぞ?」

「い、いえ、とんでもありません!私なら大丈夫ですわ。ちょっと陽気に当てられてしまっただけですので……少し休憩すれば……そうだ!そろそろ頃合いですし、この辺りでお昼にいたしましょうか?」

 

 そう言うと、セレンは手にしたバスケットケースを持ち上げた。


「今日は腕によりをかけて、王女の好物のプディングも作ってきたのですよ」

「それは楽しみだ。セレンのプディングは絶品だからね……だが、くれぐれも無理はしないでくれよ?」


 気遣わしげに微笑むアリシア王女の笑顔に、セレンの鼓動が昂まる。


(アリシア王女……貴女のその笑みも、私だけのものにしたい……)


 ―――少女なら誰しも胸の内に昏い森があり、そこには欲望という魔女が棲んでいる……侍女として、主であるアリシア王女に初めて会った時、セレンはそれに気がついた。

 それから彼女は王女の信頼を勝ち取るよう務めてきたし、その為に陰で何をしようとも、周りから不審がられる事など一度もなかった。

 少しずつ、だ。そう、少しずつ……美しい獲物はもうすぐ自分の張った糸に飛び込んでくる。

 そう思った時、セレンの顔に歪んだ笑みが浮かぶ。昏い森の魔女の浮かべていた、氷の微笑(びしょう)が。


「……ああ,アリシア、愛しい人……私は貴女を―――」


 アリシア王女に聞こえぬよう、セレンは小さな声で呟いた。


「絶対に、逃がさない――― 」



『昏き森に魔女は微笑む  宮嶋果恵』

  ―清潤女子高等学園文芸部・季刊誌「春」より一部抜粋―



 Sweet & Sour Love Letters 清潤女子学園百合部・季刊誌「春」別冊  ー完ー

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