第3章 Act.16 霧鹿の噂
「えっ」
思わず声が出た。
「ここからそんなに遠くないところ。血抜きまではしてきたけど、さすがに一人じゃ運べなくてね。先生か冒険者を何人か借りてもいい?」
「ほう、それはありがたいな。生徒たちも喜ぶだろう。よし、何人か連れていく。案内してくれ」
トイボル先生たちが、シュリさんと一緒に丘の向こうへ向かう。
それからしばらくして、大人たちが一頭のヘラジカを運んできた。
すでに最低限の内臓処理も済ませてあるらしい。
近くにいた生徒たちが、一斉に集まってくる。
「おお……」
かなり大きい。これなら全員へ十分に肉が回りそうだ。
「うおおお、肉が食えるぞ!」
誰かの声に、あちこちから賛成する声が上がる。
特に育ち盛りの男子たちは大喜びで、中には小躍りしている奴までいた。
元々の夕食は、持参した保存食と簡単なスープの予定だった。
そこへ新鮮な肉が増えたのだから、喜ぶのも当然だ。
「解体を手伝う者はこっちへ集まれ! それ以外は夕食の準備だ!」
先生の指示で、すぐに役割が分かれた。
経験のある生徒は、大人と一緒にヘラジカの処理へ回る。
残った生徒たちは、薪を整え、鍋や食器を並べ、持ってきた野菜や保存食を出していく。
俺たちも夕食の準備だ。
ココラとウーナが水と鍋を用意し、シルヴィとムートが薪を運ぶ。
俺は焚き火の火加減を見ながら、必要な道具をアイテムボックスから取り出した。
全員で動いていると、時間が過ぎるのは早い。
解体された肉が班ごとに配られ始めた頃には、西の空が赤く染まり始めていた。
俺たちのところへ来たのは、背肉と腿肉だ。
脂は少なく、赤身が多い。
「どうやって食べる?」
ココラが肉を見ながら聞いてくる。
「ふふふ。こんなこともあろうかと、とっておきがある」
俺はアイテムボックスから小瓶を取り出した。
「何それ?」
シルヴィが覗き込む。
「マジックソルトだ」
「魔法の塩?」
ココラの長い耳が少し持ち上がった。
「調味料に魔法かけたのか? 食って大丈夫なんだろうな?」
シルヴィまで怪しそうに小瓶を見る。
「違うって。魔法みたいに美味くなるって意味だ。魔法はかかってない」
蓋を開ける。
中に入っているのは、塩へ乾燥させたニンニクと香草、それから少量の黒胡椒を混ぜたものだ。
前世で使っていた調味料を再現したもので、家でも普段から使っている。
塩や香草を毎回別々に使うのが面倒で、最初から混ぜておいたのだ。
「味見していいか?」
シルヴィが聞く。
「そのまま舐めるのか? しょっぱいだけだぞ?」
シルヴィは指先に少しつけ、そのまま口へ入れた。
「……ほんとだ。しょっぱい」
「だから言っただろ」
「でも、いい匂いする」
「だろ? 肉にかけると、ニンニクと香草の香りがよく合うんだ」
切り分けた肉へ軽く振り、平たい鍋へ並べる。
ジュウッ。
肉の焼ける音と一緒に、ニンニクと香草の匂いが立ち上った。
「うわぁ……」
ムートが嬉しそうに鼻を動かす。
焼き上がった肉を口へ運ぶ。
赤身のしっかりした味に塩気が加わり、ニンニクと香草の香りが肉の癖を和らげている。
悪くない。
「おいしい!」
ココラがすぐに頷いた。
「これ、いいな!」
シルヴィはもう次の一切れへ手を伸ばしている。
「香草が合うわね、しかも胡椒入りなんて贅沢!」
ウーナにも好評だ。
匂いにつられたほかの生徒たちにも分けると、あちこちで肉へ振りかけ始めた。
「レオン、もうちょっと」
「シルヴィ、かけすぎるなよ。塩だから」
「今日いっぱい歩いたから大丈夫!」
「そういう問題か?」
横でココラが笑った。
食事が終わる頃には、丘の向こうへ日が沈みかけていた。
食器を洗い、食べ残しや肉の屑を集め、夜に使う分を残して焚き火を小さくする。
匂いの強い物を放置すれば、魔獣やモンスターを呼び寄せかねない。
片付けが終わると、今度は先生たちが生徒を集めた。
「これから朝までを六つに分けて、交代で立哨に入る」
トイボル先生が、紙へ書かれた順番を読み上げる。
各班から一人ずつ出るが、生徒だけに任せるわけではない。
どの時間にも教師か冒険者が付き、野営地の外側も別に見回るらしい。
「何か見つけても、一人で確かめに行くな。その場を離れず、同じ時間に起きている大人へ知らせろ。近くの者を起こすのは、その後の指示を聞いてからだ」
昼の立哨と同じだ。
自分だけで判断して、暗い丘へ入っていくのが一番危ない。
全員で順番と連絡方法を確認すると、最初の組は立哨に入り、残りの生徒はそれぞれのテントへ戻ることになった。
俺たちの班は、俺とムートが男子用。
ココラ、シルヴィ、ウーナが女子用だ。
そこで、俺はムートの足元にいるノンちゃんを見た。
「ノンちゃんは?」
「僕のところでいいんじゃないかなぁ」
ムートが答える。
すると、ココラが女子用テントの前から声をかけた。
「ムート。ノンちゃん、こっちで寝てもいい?」
「ノンちゃんがいいなら、いいよぉ」
「ノンちゃん、こっちおいで」
ノンちゃんの耳がぴくりと動く。
ムートを見上げ――。
そのままとことこココラの方へ歩いていった。
振り返らない。
「……行っちゃったな」
「行っちゃったねぇ」
シルヴィにも撫でられ、嬉しそうに尻尾を振っている。
「まあ、ノンちゃんも女の子だしなぁ」
「そういう問題か?」
「一応?」
ウーナがテントの入口を開けると、ノンちゃんは嬉しそうに中へ入った。
入口を見つめたまま、ムートが呟く。
「飼い主はこっちだよぉ」
「それは知ってると思うぞ」
ちょっと切なくなった俺とムートも、男子用テントへ入る。
昼間、俺が土魔法で整えた地面だ。
横になってみると、思ったよりいい感じだった。
大きな石もないし、目立った凹凸もない。
「結構寝やすそうだねぇ」
「だろ?」
外から聞こえてくるのは、小さくなった話し声と焚き火の爆ぜる音。それに、草を揺らす風の音だ。
明日も朝から歩く。
自分の立哨時間まで、少しでも眠っておいた方がいい。
そう思って横になったのだが――。
「レオン、何してるのぉ?」
ムートが、俺の手元を覗き込んできた。
「スリングの難易度を計算してる」
俺は紙へ数字を書き込みながら答えた。
夕食前、トイボル先生が見せてくれた30m先へのスリング射撃。
あれが実際、どのくらい難しいのか気になったのだ。
久しぶりに、前世の高校数学と物理を思い出す。
もちろん、風や空気抵抗、鉄球の形なんかは全部無視する。
的は人間の胴体くらいとして、幅50cm。
30m先で中心から左右25cmまでなら命中だ。
これを角度へ直すと――。
「……約0.48度か」
「何がぁ?」
「鉄球を飛ばす向き。狙った方向から半度くらいずれたら、もう的の外」
「半度?」
ムートが首を傾げる。
「ものすごく少しってこと」
次は鉄球の速さだ。
先生の投げた鉄球を仮に時速130kmほどとして、スリングの回転半径を1mくらいとする。
かなり乱暴な計算だが、そこから狙いに収まる放すタイミングの幅を出してみる。
紙へ数字を書き込み――。
「……約0.00046秒」
思わず手が止まった。
「それって短いのぉ?」
「めちゃくちゃ短い」
1000分の1秒より短い。
もちろん、実際のスリングはこんな単純な動きじゃない。
速度も回転半径も毎回同じではないし、人間が的を見てから0.00046秒で指を離しているわけでもない。
何度も練習して、身体へ染みついた動きの中で、正しい瞬間に放しているはずだ。
むしろ――。
「……その方がすごくないか?」
速度も、腕の振りも、紐の動きも毎回少しずつ違う。
それを感覚で調整しながら、30m先へ3発連続で当てた。
しかも先生は、ほとんど狙い直していなかった。
さっきまでは、先生なら30mくらい普通に当てるんだな、と思っていた。
数字にしてみると、全然普通じゃない。
「トイボル先生、やっぱりおかしいな……」
「強いって意味でぇ?」
「もちろん」
俺が30mで3割くらいしか当たらないのも、なんだか急に許される気がしてきた。
いや。
むしろ3割当ててる俺、結構頑張ってるんじゃないか?
もう一度紙へ目を落とした時、テントの入口が開いた。
「ムートー。ノンちゃんのおやつ持ってない?」
「うわっ」
シルヴィだった。
もう寝る準備をしていたらしく、上着も着ずに薄手の肌着姿のまま立っている。
しかも襟元が普段の服よりかなり開いていて、豊かな胸の谷間まで普通に見えていた。
……いやいや。
どう考えても、その格好で男子用テントへ来るのはまずいだろ。
「おい、シルヴィ。せめて入口から声をかけろよ」
「かけただろ?」
「開けるのと同時だっただろ! それと……ちょっとは気にした方がいいと思うぞ」
「何を?」
「その格好だよ」
シルヴィが自分の身体を見下ろす。
「ああ、これ?」
「これ? じゃないだろ」
本人はまるで気にしていないらしい。
むしろ、こっちが意識しているのが馬鹿みたいに思えてくる。
とはいえ、だからといって堂々と見ていいわけでもないので、俺は少しだけ視線を逸らした。
その横では、ムートが分かりやすく顔を赤くして、くるりと後ろを向いている。
「え、えーっと、おやつだよねぇ」
ムートが少し慌てながら鞄を探っている。
「うん。ノンちゃんがお腹空いたみたい」
ムートは小さな干し肉を取り出した。
「これでいいかなぁ」
「ありがと!」
シルヴィは干し肉を受け取ると、俺の前に置かれた紙へ目を止めた。
「レオ、それ何書いてんの?」
「トイボル先生のスリングが、どのくらい難しいのか計算してた」
「計算?」
シルヴィが紙を覗き込む。
距離、速度、角度、それからラジアンや秒数。
計算途中の数字が、紙へびっしり並んでいる。
しばらく眺めたあと。
「……何の呪文?」
「数式だよ!」
「うへぇ……」
露骨に嫌そうな顔をされた。
「こんなところまで来て算術やってるとか、レオって変態だな」
「失礼すぎない!?」
「じゃ、ありがとムート!」
俺の抗議は完全に無視された。
シルヴィは干し肉を片手に、女子用テントへ戻っていく。
「…………」
「…………」
ムートがゆっくりこちらを見た。
「レオン、計算続けるのぉ?」
俺は紙を見る。
30m。
0.48度。
0.00046秒。
「……続ける」
変態扱いされたまま終わるのは、なんとなく悔しい。
それに、スリングは思っていた以上に奥が深そうだ。
あと少しだけ計算を確かめてから、俺は紙を片付けた。
今度こそ横になる。
自分の立哨時間まで、少しでも眠っておこう。
◇
干し肉を受け取ったシルヴィが女子用テントへ戻ると、さっそくウーナが声をかけた。
「それで、レオン君の反応はどうだった?」
「うーん、いまいちかな?」
「えー、せっかく胸元が見えるように着ていったのに?」
ウーナが腕を組んで首を傾げる。
「じゃあ胸じゃなくてお尻の方だったのかな?」
「どうだろうな。ちょっとは見てた気もするけど、すぐに目を逸らしてたぞ」
「うーん。今回の作戦は失敗かぁ」
ココラは二人の話を聞きながら、足元のノンちゃんへ目を向けた。
シルヴィがあの格好で男子用テントへ行ったのは、ウーナの提案だった。
レオンに少しでもシルヴィを女の子として意識してもらおうと、二人で考えた作戦だ。
「なあ、ココラ。レオンって、どういうのが好きなんだ?」
話を振られ、ココラは少し考え込んだ。
「えーと……よく、ウサ耳が可愛いって言ってくれるけど」
「耳かぁ……」
シルヴィが自分の頭へ手をやる。
「それは真似できないな」
「ふふっ。別に耳だけが好きってわけじゃないと思うよ?」
ココラが笑う。
「それに、レオンはシルヴィのいいところ、ちゃんと分かってると思うよ?」
「そうか?」
「うん。だから、そんなに焦らなくてもいいんじゃないかな」
「うーん、そっかぁ」
ウーナが再び腕を組んだ。
「じゃあ、次は別の方法を考えないとね」
「まだやるのか?」
「もちろん。シルヴィのためだもん」
「頼りにしてるぞ、ウーナ!」
二人が妙に張り切っているので、ココラは思わず笑ってしまった。
「でも、あんまりレオンを困らせないでね?」
「分かってるって!」
シルヴィはそう答えると、持ってきた干し肉をノンちゃんへ差し出した。
ノンちゃんは嬉しそうに受け取り、あっという間に食べ終える。
それからココラの隣へ丸くなった。
それでも、まだ眠る気はないらしい。
時々顔を上げては、三人の様子を見ている。
「さて、そろそろ寝る準備しないとね」
ウーナが靴を脱ぎながら言った。
「今日は随分歩いたし」
「明日はもっと奥まで行くんだろ?」
シルヴィが寝床へ腰を下ろす。
「うん。丘の奥に湖があるって聞いた」
ココラが答えた。
その言葉に、ウーナの手が止まった。
「湖って、もしかして霧鹿が出るところかな」
「霧鹿?」
シルヴィが聞き返す。
「この辺りに伝わってる話。昔、湖で大雨と霧に遭った若者たちがいてね。そこへ白い鹿が現れて、その後をついていったら高い丘へ出られたんだって。元いた場所は水に浸かったけど、若者たちは全員助かった。それから、その白い鹿は霧鹿って呼ばれるようになったっていうの」
ウーナはこういう話が好きなのか、楽しそうに話している。
「へえ。じゃあ、いい鹿なんじゃないか?」
シルヴィがそう言うと、それまで黙って聞いていたココラが、ノンちゃんの背中を撫でながら口を開いた。
「でもね、私の村だと少し違う話なんだ」
「違う話?」
「うん。おばあちゃんから聞いたんだけど、昔、霧がすごく深い日に、一人の猟師が霧鹿を見つけたんだって」
ココラは、思い出すように少し間を置く。
「その人も今の話を知ってて、霧鹿なら安全な帰り道に案内してくれるかもって思って、後を追ったの。でも、鹿はその人を案内してたわけじゃなくて、自分の行きたい方へ歩いてただけだったみたい」
「それで?」
シルヴィが聞く。
「追いかけてるうちに、猟師の人はどっちから来たのか分からなくなって、最後には霧鹿も見失っちゃったんだって。その日は村へ帰れなくて、次の朝、霧が薄くなってから自分で方角を確かめて帰ったって」
「じゃあ、霧鹿に迷わされたのか?」
「ううん。そうじゃなくて、その人が勝手に案内してくれると思ってついていった、って話だったよ」
ココラはノンちゃんの背中をひと撫でする。
「だから私の村では、霧鹿を見つけても、むやみに後を追っちゃだめって言われてるの」
「助けてくれる話と、追うなって話が両方あるのか」
シルヴィが少し不思議そうな顔をする。
「へえ……それ、初めて聞いた」
ウーナは怖がる様子もなく、興味深そうに二人の話を聞いていた。
「同じ霧鹿なのに、村で話が違うんだね」
「うん。でも昔の話だし、本当にあったことなのかは私も知らないよ。村では、ずっとそういう話になってるだけ」
「でも、本当にいたら見てみたいな」
ウーナが言うと、シルヴィも頷いた。
「私も。明日、湖で会えるかもしれないしな」
「二人とも、見つけても追いかけちゃだめだよ?」
ココラが笑いながら言う。
「分かってるって。見るだけだよ」
「シルヴィは見つけたら走っていきそうだけど」
「そこまで子供じゃないぞ!」
「ふふっ」
ウーナが笑った。
「でも、白い鹿って綺麗なんだろうね」
「うん。霧の中にいたら、ちょっと不思議な感じがしそう」
ココラも頷いた。
その時、テントの屋根から小さな音がした。
パラ、パラパラ……。
「あ、雨?」
ウーナが天井を見上げる。
雨粒が少しずつ増え、薄い布を軽く叩き始めた。
「明日までにやむといいね」
「大丈夫だろ。これくらいなら」
シルヴィはそう言って、ごろんと寝床に横になった。
それを見て、ココラとウーナも横になる。
外では小雨がぱらぱらとテントを叩き、風が草を揺らしていた。
ココラはノンちゃんの背中を撫でながら、雨音をぼんやり聞いていた。
ふと、長い耳がぴくりと動く。
風向きが変わったらしい。
その時、遠くから低い音が聞こえてきた。
ざあ……。
「何の音?」
ウーナが尋ねる。
「分からない。水みたいに聞こえたけど」
ココラはしばらく耳を澄ませたが、その音はやがて風に紛れて聞こえなくなった。




