第1章 Act.1 逃亡中の魔法使い、酒で全てを台無しにする
「クソ、クソ……やらかした……」
暗い留置房の中で、チーノは1人つぶやいた。
冷たい石の床。湿った空気。鉄と古い木の匂い。
両手には、魔力の流れを乱す古い手枷がはめられている。
酔いは、徐々に抜けてきていた。
そして酔いが抜けるほど、自分が何をやらかしたのかも、はっきりしてきた。
酒場で喧嘩をした。
店を追い出された。
腹が立って、夜の川へ向かって土魔法をぶっ放した。
その先に何があるかなど、ろくに確認もしなかった。
結果、壊したのは町の小型エーテル浄化設備につながる排水配管。
騒ぎを聞きつけた町兵に囲まれ、酔っていたチーノはまともに抵抗することもできず、そのまま捕まった。
「……あと少しだったのに」
チーノは壁に頭を預け、目を閉じた。
本来なら、今ごろこんな場所にいるはずではなかった。
ティリアガルデンから1つ領地を隔てたバーハム領。そこから追っ手を避けながら、2か月近く北へ逃げてきた。
チーノは、封魔手枷のはまった両手を見下ろした。
――国境まであと一歩だった。
目的地はソルヘイム共和国。国境を越えてしまえば、少なくとも今よりは追跡が難しくなる。
そのために町や大きな街道を避け、野宿を繰り返してきた。
チーノは、もともと貴重な美術品や外国製の磁器などを扱う旅商人だった。
商売はうまくいって、羽振りも良かった。
理由の1つが、チーノの持つ固有魔法だ。
生き物以外なら、荷物も道具も武器も、1m四方ほどの見えない空間へしまっておける。
チーノはそれを、心の中で「秘密の箱」と呼んでいた。
割れやすい磁器も、湿気を嫌う絵画も、安全に運べる。
商人にとっては、これ以上ないほど便利な力だ。
だが同時に、関所や検問を無視して物を運べる力でもある。
半年前、その魔法を使っているところを、ガラの悪い連中に見られた。
最初は脅されただけだった。
誰にも言わない代わりに荷物を運べ。
そう言われて、何度か怪しい品を運んだ。
怖かった。
だが、金は良かった。
連中は「仲間になれば、もっといい思いをさせてやる」と言った。実際、仕事をこなせば、普通の商売ではなかなか手に入らない額の金が渡された。
そのうち脅されなくても仕事を引き受けるようになっていた。
禁制品、盗品、危険な薬物。
中身の分からない物もあった。
チーノは、冷たい石の床へ視線を落とした。
自分の吐いた息が、わずかに白く見える気がした。
2か月前、連中の一部が領兵に捕まった。
その時点では、領兵もチーノの名前や人相までは正確につかんでいなかった。だが、捕まった連中への取り調べが進めば、いずれ素性が割れ、他領へも手配が回るはずだ。
秘密の箱のおかげで、旅に使う道具や食料は持っていた。もともと旅商人として各地を歩いていたため、野宿にも長旅にも慣れていた。
幸い、詳しい人相や足取りまでは、まだ完全には掴まれていないはずだ。
それでも、いつ自分の情報が伝わってもおかしくない。
だから逃げた。
あとほんの少しだったのだ。
ティリアガルデンも素通りするつもりだった。
だが、ここ最近まともに酒を飲んでいなかった。
小さな町だ。
ここまで手配情報は届いていないだろう。
念のため、町へ入る時には「フルック」という偽名を使った。
捕まった後も、町兵にはフルックと名乗っている。
今のところ、偽名だと気づかれている様子はない。
だが、それも詳しい身元調査が始まるまでだ。
バーハム領への照会や手配書の確認が進めば、自分がフルックではないことも、いずれバレるだろう。
だからこそ、長居するつもりはなかった。
1杯だけ。
本当に、1杯だけのつもりだった。
「……馬鹿が」
チーノは自分を吐き捨てた。
杖も短剣も腰袋も、身につけていた魔石や魔道具も、すべて町兵に取り上げられた。
服の縫い目まで調べられ、靴の中まで確認された。
それでも、見つからなかった物がある。
秘密の箱だ。
魔法そのものは、取り上げようがない。
そして、その中身も。
チーノは封魔手枷を見る。
この手枷のせいで魔力の流れはめちゃくちゃだ。
いつものように秘密の箱を開くことはできない。
だが、完全に使えなくなったわけではなかった。
集中すれば、ごく小さな物なら取り出せる。
その中には金も食料もある。
小刀や針金もある。
そしてもう1つ。
逃げる途中で売り先へ渡せなかった、小さな密輸品が残っていた。
何に使う物なのか、チーノも知らない。
あの連中からは、ただ一言。
慎重に扱え。
そう言われただけだった。
まともな品ではない。
おそらく呪物の類だろう。
できれば触りたくもない。
チーノは手枷をはめられた両手を、ゆっくりと握りしめた。
「……いざとなったら、これを使うしかないか」
何が起きるのかは分からない。
騒ぎさえ起きれば、逃げる機会くらいは作れるかもしれない。
このまま身元を調べられ、バーハム領の一件まで知られるよりはましだ。
まだ使うつもりはない。
まだ時間はある。
だが、本当に逃げ道がなくなった時は――。
その時は、賭けるしかない……。




