第1話 杖の寿命と、賢者様
「レイン、お前は今日でパーティから除名だ。荷物まとめて出ていけ」
ガレオンの声には、欠片の迷いもなかった。
俺――レイン・アーシュは、ダンジョンの最下層に近い、湿った石畳の上でその言葉を聞いた。
すぐ後ろでは、討伐し終えた大蛇種の死骸が、まだ微かに痙攣している。
「は?」
「鑑定士なんて、アイテムの名前を読むだけの仕事だろ。お前がいなくても、店で鑑定してもらえばいい。むしろ、お前の取り分が浮く分、得だ」
(三十秒前まで、あなたが死にかけていたのを止めたのは俺なんですが)
そう思ったが、口には出さなかった。
説明するだけ無駄だ。三年間、それを骨身に染みるほど学んだ。
俺の鑑定スキル〈深層解析〉は、対象に本気で関心を持ったときだけ、その先まで見える。
アイテムの状態。その人の抱えている不調。近い未来の損耗。
ガレオンに何度も「右に避けろ」と叫んできたのも、その力のおかげだった。
だが、それを彼が「自分の反応速度」だと思っているなら、もう何を言っても届かない。
「……ガレオン、それでも一応聞くけど。今までの俺の鑑定、本当に何の役にも立ってなかったと思ってるのか」
「は? 何の話だ」
「いや、別に。聞いただけだ」
俺は、自分の声が思っていたより平坦なことに、少し驚いた。
怒っているはずなのに、怒りの形になって出てこない。
たぶん、もう、期待することすら、疲れていたのだと思う。
「おい、もう一回言うぞ。お前はもう要らない。分かったら、さっさと荷物まとめろ」
「……分かりました」
俺はそれだけ言って、鑑定の巻物を懐にしまった。
「お、素直だな。じゃ、達者でな」
ガレオンはもう俺を見ていなかった。
仲間たちが集めた戦利品を整理する作業に、すでに気を取られていた。
俺という存在は、もうその風景の中に含まれていない。
「レイン……」
ミーシャだけが何か言いたげにこちらを見ていたが、結局何も言わなかった。
俺は、彼女の方を見て、小さく頭を下げた。
それだけが、せめてできる、最後の挨拶だった。
俺は黙って、パーティを離れた。
ダンジョンを出て、ギルドに向かう道中、空には薄い雲がかかっていた。
(さて、これからどうするか)
三年間、誰かのために力を使い続けて、最後に残ったのはこれだった。
報酬の取り分。装備の代金。それらを差し引いた手持ちの金は、決して多くない。
(もう、誰にも期待しない方がいい)
そう思うと、不思議と気持ちは軽かった。
期待しなければ、傷つくこともない。
これからは、誰とも深く関わらず、ただ静かに暮らせばいい。
そう決めていた。
王都のギルドで、追放されたことの正式な手続きを終え、俺は宿で一晩を過ごした。
翌朝、ギルドの掲示板を眺めながら、俺は次の行き先を考えていた。
王都に残れば、いずれガレオンたちと顔を合わせることになるだろう。
それは、避けたかった。
掲示板の隅、ほとんど誰も見ない場所に、一枚の張り紙があった。
『辺境の街ラステイル、冒険者ギルド 各種職人・鑑定士、随時募集』
——辺境。
冒険者ランクのほとんどが「底辺」と呼ばれ、誰も望んで行かない場所。
それなら、ちょうどいい。
誰も俺のことを知らない場所で、静かに暮らせるはずだ。
俺は、その張り紙を、もう一度、念のために鑑定してみた。
『募集情報
信頼度:通常の範囲
ただし、当該ギルドにおける鑑定士の在籍数:ゼロ』
(鑑定士が、一人もいないのか)
それなら、需要はあるかもしれない。
少なくとも、また「役に立たない」と言われることは、避けられるかもしれない。
俺は、その日のうちに、ラステイル行きの馬車に乗ることを決めた。
馬車は、五日かけて、王都からラステイルへと進んだ。
道中、特に何事もなかった。
御者も、他の乗客も、俺のことを気にする様子もなかった。
それが、むしろ、心地よかった。
誰にも期待されず、誰にも何かを言われない時間。
——これが、これから自分が選ぶ生活なのだと、改めて思った。
馬車の窓から見える景色は、王都の喧騒とは違い、ただ広い草原と、遠くに見える山々だけだった。
時々、小さな村を通り過ぎる。
子供たちが、馬車に向かって手を振っていた。
俺は、その様子を見ながら、自分の中の何かが、少しだけ和らいでいくのを感じていた。
——とはいえ、それも、まだ自分では気づかない程度の、わずかな変化だった。
五日目の夕方、馬車は、ラステイルの街に到着した。
王都ほど大きくはないが、それなりに賑わいのある街だった。
市場では、商人たちが声を張り、子供たちが走り回っている。
冒険者らしき格好の者たちも、あちこちに見える。
(思っていたより、活気がある街だな)
俺は、その光景を見て、少し意外に思った。
「底辺」と呼ばれる街にしては、人々の表情は、明るかった。
辺境の街、ラステイル。
ギルドの建物は、王都のものよりずっと簡素だったが、それでも、しっかりとした石造りだった。
——のはずなのに、ギルドの扉を開けた瞬間、俺はやけに賑やかな空気に出迎えられた。
「だから言ったでしょ、あの依頼は受けるなって!」
「いや、でも報酬がいいから……」
「報酬がいいのは死亡フラグなのよ!」
カウンターで怒っているのは、受付の女性らしい。
胸の名札には「オリヴィア」とあった。
怒られているのは、まだ十五、六歳に見える剣士の少年だった。
(賑やかな街だな)
俺はその騒ぎを横目に、空いている席にそっと座った。
王都の喧騒よりは、よほどましだった。
少なくとも、ここでは、誰も俺のことを知らない。
それが、何より、気楽だった。
食堂の中を見回すと、様々な冒険者たちが、思い思いに過ごしていた。
酒を飲んでいる者。武器の手入れをしている者。地図を広げて何かを相談している者たち。
その様子は、王都のギルドとあまり変わらなかったが、雰囲気は、少し違って見えた。
王都では、誰もが、自分の評価や名声を気にしているような空気があった。
ここでは、もっと、生活そのものに近い、肩の力が抜けた空気が流れていた。
(悪くない街かもしれない)
俺は、そう思いながら、卓上に置かれていた水を一口飲んだ。
「……お兄さん、見ない顔だね」
隣の席に座っていた老人が、ふと声をかけてきた。
白髪の交じった髭をたくわえ、年季の入った旅装をしている。
「今日来たばかりです。鑑定士です」
「鑑定士? ほぉ。実はこの杖、もう三十年も使ってるんだが、最近どうも調子が悪くてな」
老人が懐から取り出したのは、年季の入った木製の杖だった。
表面は何度も研磨された跡があり、握りの部分は、使い込まれて滑らかになっている。
特に頼まれたわけでもないのに、俺の意識は勝手にそこへ向いてしまう。
三十年使われた杖への、老人の愛着が、なぜか伝わってくる。
(……誰とも関わらないと決めたばかりなのに)
(……まただ)
興味を持ってしまえば、もう止まらない。それが俺の性分だった。
俺は、軽く息を吐いて、その杖に意識を集中させた。
『老杖
芯材:劣化進行中。表面のひびは深部まで到達
推定耐用:あと三日
次に強く力をかけた瞬間、柄が折れる可能性:高』
「その杖、もう寿命です。あと三日で柄が折れますよ」
俺はそのまま言葉にした。
老人は、目を丸くした。
「……三日? なんでそんなことまで分かるんだ」
「鑑定士なので」
「いやいやいや、普通の鑑定士はそこまで言わんだろう!」
(普通ってなんだ)
俺は答えなかった。
老人は、それでも、半信半疑な様子で、自分の杖をしげしげと見つめていた。
「いや、見た目は別に何もおかしくないんだがな……」
「表面ではなく、内部です。木の芯まで、ひびが入っています」
「内部まで分かるのか……」
老人は、感心したような、それでも少し疑わしげな表情で、俺を見た。
「ま、まあ、もしお兄さんの言うことが本当なら、新しい杖を、早めに用意した方がいいわけだな」
「そうした方がいいと思います」
「分かった。ありがとうな、お兄さん」
老人は、それだけ言って、自分の席に戻り、また酒を口にした。
俺は、その後ろ姿を見ながら、小さく息を吐いた。
(これくらいなら、まあ、害もないだろう)
そう思っていた。
それから三日後。
俺は、まだギルドの登録手続きを終わらせただけで、依頼を一つも受けずにいた。
宿の安い部屋を借り、毎日、ギルドの食堂で時間を潰している。
そんな生活も、悪くないと思っていた。
「おい、あんた! あの杖、本当に折れたぞ! ちょうど三日後にだ!」
老人が興奮した様子でギルドに駆け込んできたとき、俺は食堂の隅で静かにスープを飲んでいた。
「あんたのおかげで新しい杖に変える時間ができた。命の恩人だ!」
「いえ、ただの鑑定です」
「いやいや、これは大したもんだ! ちょっとした賢者様だな!」
(大げさだな、この人は)
俺は苦笑いするだけで、特に否定はしなかった。
老人が嬉しそうに周りに話している程度なら、別に害はないだろう。
そう思っていた。
ギルドの中の数人が、ちらちらとこちらを見ていたが、それだけだった。
(これくらいなら、まあいいか)
その様子を、カウンターの向こうから、オリヴィアがじっと見ていた。
「ねえ、あなた」
「……何でしょう」
「今の話、本当?」
「本当ですが、ただの鑑定です」
オリヴィアは、しばらく俺の顔を見つめたあと、小さく笑った。
「ふぅん。……まあ、面白い話なら否定しなくてもいいんじゃない?」
「は?」
「あなた、ギルドには登録していくの?」
「ええ、そのつもりです」
「じゃあ、書類だけ書いて。鑑定士として」
「……それだけですか?」
「それだけ。何を期待してたの?」
俺は、自分が少し身構えていたことに気づいて、少し拍子抜けした。
(賢者として登録される、とでも思ったのか、俺は)
椅子に座ったまま、俺は懐の鑑定証を取り出した。
オリヴィアは、それを受け取って、書類に手早く目を通した。
「Sランク相当の鑑定証ね。……あなた、本当に王都から来たの?」
「ええ」
「王都の鑑定士がこんな辺境に来るのは、珍しいわね。何かあったの?」
「……色々ありました」
俺は、それ以上は説明しなかった。
オリヴィアも、それ以上は聞かなかった。
「まあ、いいわ。何か事情があるのは、よくあることだもの。歓迎するわ、レインさん」
「……よろしくお願いします」
俺は、改めて、頭を下げた。
この街での日々が、どうなるかは、まだ分からない。
ただ、王都よりは、少し居心地が良さそうだった。
「お兄さん、賢者様って呼んでいい?」
先ほどの老人が、嬉しそうに聞いてきた。
「……好きにしてください」
俺は小さく溜息をついた。
(まあ、一人くらいそう呼ぶ人がいたって、すぐに忘れられるだろう)
——それが、後になって途方もない誤算だったと知るのは、もう少し先のことだった。
その夜、俺は、宿の小さな部屋で、ベッドに横になりながら、これからのことを考えていた。
静かに暮らす。誰とも深く関わらない。
それが、自分の決めたことだった。
だが、今日一日を振り返ってみると、もう、その決意は、わずかにほころびを見せていた。
老人の杖を、放っておけなかった。
それだけのことだったが、自分の性分が、簡単には変わらないことを、改めて実感していた。
(まあ、これくらいは、大した問題じゃないだろう)
そう思って、俺は目を閉じた。
——その小さな出来事の積み重ねが、自分の人生を、思っていたよりずっと大きく動かしていくことに、この時の俺は、まだ気づいていなかった。
外では、ラステイルの夜風が、静かに、街を吹き抜けていた。




