親方、いつもの朝を迎える
目が覚めた。
版築の壁が薄暗い中でぼんやり見える。窓から空気が入ってくる。涼しい。秋だ。
起き上がった。腰が鳴った。膝も鳴った。四七歳の体は朝一番に音がする。毎朝のことだ。慣れた。
台所に立った。かまどに火を入れる。豆を挽く。湯を沸かす。コーヒーを淹れる。
一杯目。
苦い。うまい。いつもの味。
椀を持って外に出た。中庭を通る。ミーナの部屋の窓が開いてる。仕様書を読んでるのか。窓辺にミーナの後頭部が見える。
「おはようございます、棟方」
「おう」
棟方組の家の前を通った。ガルドがもう起きてる。庭で素振りをしてる。拳を振ってる。壁を殴るための筋肉を維持してるんだと。壁を殴る練習って何だ。
「おはよう親方」
「おう。——今日の実習は」
「三期生の壁積みだ。昨日の続き。午後は壊す授業をやる」
「任せた」
トルテがガルドの横で伸びをしてる。猫だ。猫みてえな伸び方してやがる。
「おはようございます親方! 今日も元気です!」
「うるせえ。朝からでけえ声出すな」
「はーい!」
返事もでけえ。
学院に歩いていく。自分の家から学院まで五十歩。近い。朝のコーヒーを飲み終わる前に着く。
途中でルッカとすれ違った。鍛冶実習棟に向かってる。
「おはようございます、親方」
「おう。今日は何鍛える」
「ユーリ式免震支承の量産治具を作ります。型を統一して、どの鍛冶屋でも同じ品質で作れるようにしたいので」
「いい仕事だ。頼む」
エルノが測量道具を抱えて走ってきた。
「棟方殿! おはようございます! 三期生の増築棟の杭位置を出してきます!」
「走るな。道具を落とすぞ」
「はい! ——すみません!」
講堂に入った。三期生がもう並んでる。ユーリが前に立ってる。
「はい、じゃあ朝の体操始めます。——腕を前に回して」
全員が腕を回してる。俺も後ろの方で回した。肩がぱきっと鳴った。体操の前に体が鳴ってちゃ世話ねえ。
「——ご安全に」
「「ご安全に!!」」
三十人近い声がドームに響いた。いつもの音だ。
* * *
午前中。仕様書の改訂作業。
エルノと並んで机に向かってる。ユーリの住宅用免震支承の項目を仕上げる。図面の寸法を確認して、耐荷重計算の検証結果を書き込む。
「棟方殿。ユーリ殿の計算、完全に正しかったです。安全率の取り方も適切です。——文句のつけようがありません」
「文句をつける気はねえ。追加しろ」
「はい。——仕様書、また分厚くなりますね」
「分厚くなるのはいいことだ。薄い仕様書は足りてねえ証拠だ」
エルノが仕様書に書き加えてる。丁寧な字だ。図面が正確だ。ミーナが「エルノさんの図面は読みやすい」と言ってた。そうだろうな。こいつの図面には無駄がねえ。必要な線だけが引いてある。
仕様書のページをめくった。最初の一ページ目。「基礎工事」。八十センチ掘って、割栗石を突き固める。百回以上。——最初に書いた項目だ。あの頃は仕様書がぺらぺらの数枚だった。今は分厚い本になってる。
セオが帳簿を持ってきた。
「棟方殿。今月の学院の運営報告です。収支は黒字。差し入れの量が先月の二倍です。三期生が入ったので近隣住民の関心が高まったようです」
「差し入れが倍か。飯に困らねえな」
「あと、帝国のメルダ殿から精霊の交信が来てます。『到着しました。場所はヴァルゲン北区画に決定。地盤調査を開始します。コーヒーうまい。ご安全に』とのことです」
「コーヒーうまいって。——報告に入れるな、私的な感想は」
「入れません。でも伝えておきたかったので」
セオが笑ってる。こいつも笑うようになったな。
* * *
昼。講堂を出て市場に向かった。飯を食いに——じゃねえ。飯屋の梁を見に行った。
席について、天井を見た。梁は安定してる。本棚を動かしてから反りが戻って、そのまま安定してる。
「お客さん。今日は何にします」
「穀物飯と焼き魚と汁物」
「いつものですね」
いつものだ。飯を食った。うまい。天井を見上げながら食ってたら、店主が笑ってた。
「お客さん、うちの天井好きですね」
「梁が気になるだけだ」
「ああ、あれ。あの後すぐ南側に本棚動かしたんですよ。——全然反らなくなりました。ありがとうございます」
「礼はいらねえ。飯がうまい。それで十分だ」
市場を歩いて帰った。排水溝を見た。流れてる。パン屋の煙突を見た。煤は溜まってねえ。鍛冶屋の床を見た。水平。全部問題ねえ。
下町湯の前を通ったら行列ができてた。相変わらず繁盛してる。番台の管理人が手を振ってきた。「親方! 今日も入ります?」。夜に入る。昼は仕事だ。
* * *
午後。三期生の実習を見に行った。
ガルドが壊す授業をやってる。三期生が一メートル四方の壁を積んで、ガルドが殴って壊す。壊して、弱点を見せて、もう一回積ませる。
「ここの目地が空いてる! 指で押せ! 奥までだ!」
「はい!!」
「もう一回積め! 今度は壊れねえ壁を作れ!」
ガルドの声がでかい。三期生がびくびくしてるが、手は止まってねえ。手を止めない奴は伸びる。——俺がいつも言ってることだ。
ユーリが横で見てる。ガルドの授業を見守ってる。口は出さねえ。ガルドのやり方に任せてる。
俺は二人の後ろで見てる。口は出さねえ。二人に任せてる。
三期生の女の子——マルタさんの隣の家の娘——が壁を積んでた。手つきがぎこちねえが丁寧だ。一個置くたびに指で目地を押してる。初日に教わったことを忠実にやってる。
ガルドが殴った。五割。
——壊れなかった。
「おっ!! 壊れねえ!!」
「え!! あたしの壁が!?」
「初日で五割に耐えたのか!! やるじゃねえか嬢ちゃん!!」
女の子が目を丸くしてる。自分の壁が残ったことに驚いてる。
「やった……! やったあたし……!」
隣の学生が拍手してる。ガルドが「まだ五割だぞ。六割を目指せ」と言ってる。
俺は黙って見てた。口は出さねえ。——出す必要がねえ。
回ってる。全部回ってる。
* * *
夕方。風呂に入った。学院の風呂。
湯に浸かりながら何も考えなかった。体が温まって、筋肉がほぐれて、頭が空っぽになった。
風呂から上がって、講堂で現場汁を食った。根菜と肉と発酵調味料。いつもの味。ガルドが「っっっぷはーーーっ」と声を出した。いつもの声。
コーヒーを飲んだ。今日の三杯目。飲みすぎかもしれねえが、まあいい。
講堂の外に出た。夜の空気が涼しい。秋だ。虫の声がする。学院の灯りが窓から漏れてる。学生たちがまだ喋ってる声が聞こえる。
ミーナが中庭のベンチに座ってた。自分の部屋があるのに外にいる。
「部屋にいなくていいのか」
「外も好きです。——部屋があるから、外が好きになれました。帰る場所があると、外に出るのが怖くなくなります」
「……そうか」
「棟方。明日は何をしますか」
「明日? ——朝の体操をして、ご安全にを言って、コーヒーを飲んで、仕様書を見て、壁を叩いて、飯を食って、風呂に入って、寝る」
「いつもと同じですね」
「いつもと同じだ」
「それが——いいことなんですね」
「いいことだ。いつもと同じ朝が来るってのは、壊れてねえってことだ。建物が壊れてねえ。人が怪我してねえ。仕事が回ってる。——それが一番いい」
ミーナが頷いた。
「建ノ民の長に聞かせたかった言葉です。——いつもと同じ朝が来ることが、一番の成功だって」
「大げさだ。——ただの朝だ」
自分の家に帰った。扉を開けて、靴を脱いで、寝床に入った。版築の壁が温かい。
目を閉じた。
明日も朝が来る。コーヒーを淹れて、体操をして、ご安全にを言う。学院に行って、壁を叩いて、学生を見て、飯を食って、風呂に入る。
帝国ではメルダが学院を建て始めてるだろう。エルフの森では卒業生が橋を守ってるだろう。ドワーフの地下都市ではルッカのボルトが天井を支えてるだろう。カイザではユーリの免震住宅が立ってるだろう。街道では管理人が毎朝道を歩いてるだろう。下町湯では今日も行列ができてるだろう。
全部動いてる。全部回ってる。
棟方鉄。四七歳。異世界土方。
加護なし。スキルなし。レベル1。
持ってるものは——突き棒と、コテと、水準器と、コーヒーの豆と、首巻きと。
仲間と、弟子と、居場所と。
仕事は——きっと、まだまだ続いていく。
ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。
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