親方、崩れた壁を読む
朝のコーヒーを飲んでいる時だった。
アルヴェインから戻って三ヶ月。王都ローデンの朝はすっかり穏やかなもんで、やることと言えば水力練り機の三号機の歯車調整だとか、運河の支線設計だとか、地味だが手堅い仕事が並んでいる。ガルドは運河沿いの宿場の増設で東に出てるし、エルノはエルフの森の定期報告書を整理中。ルッカは鍛冶場で新型のロックボルトを試作してる。
要するに、平和だった。
平和な朝のコーヒーは、格別にうまい。苦味のあとに甘みがじわっと来る。王都の豆はやっぱり安定してる。アルヴェインの豆も悪くなかったが、こいつが一番しっくり来る。
——と思った矢先に、リルが血相を変えて飛び込んできた。
「親方さん、精霊の交信機能から伝言がありました! 帝国のイレーネさんから——」
リルが俺の前に立って、精霊の声を中継し始めた。土の精霊が地中を伝って運んできた声。イレーネの、いつもの几帳面な口調じゃねえ、緊張感がある。
『帝国南部のカイザという町で、集合住宅が崩壊しました。瓦礫の下敷きで重傷者三名。建物は——棟方殿の仕様書に基づくコンクリートブロック工法で建てられていたそうです』
コーヒーの椀が、手の中で止まった。
「……もう一回言ってくれ」
『コンクリートブロック工法の集合住宅が崩壊。重傷者三名です。ヴァルターが現地に向かっていますが、棟方殿にも来ていただきたいと——』
「行く」
コーヒーを置いた。味が分からなくなってた。
* * *
カイザは帝国南部の小さな町だ。西部要塞から馬で三日。帝国の国境を越えてからの道は、軍用道路を外れると途端にぬかるみだらけになる。以前来た時と変わっちゃいねえ。
カーラとリルだけ連れてきた。大人数で押しかける場面じゃねえ。
町に入って、すぐに分かった。
広場の向こうに、瓦礫の山がある。コンクリートの破片が積み重なって、粉塵がまだ漂ってる。周囲にはロープが張られて、帝国の兵士が立ち入りを制限していた。その手前に住民が集まって、黙って瓦礫を見てる。泣いてる女がいる。子供を抱いた男がいる。
ヴァルターが瓦礫の脇に立ってた。老いた巨体がいつもより小さく見えた。俺を見つけて、一歩近づいてきた。
「来たか、親方」
「状況を教えてくれ」
「三階建ての集合住宅だ。二十人が住んでいた。昨日の明け方に一階部分が崩壊して、上の二層が落ちた。十七人は逃げた。三人が瓦礫の下敷きになった。命に別状はねえが、一人は足を潰されて、まだ動けん」
三人。
「建てた職人は?」
「帝国の研修を受けた石工の一人だ。仕様書を持っていた。——儂が渡した仕様書を」
ヴァルターの声が低い。「儂の目が届かなかった」と言いかけて、止めた。その先を言わせちゃいけねえ。
「見せてくれ」
ロープをくぐって、瓦礫に近づいた。
* * *
崩れた建物の前にしゃがみ込んだ。
まず全体を見る。三階建ての南東の角から崩れてる。一階の壁が外側に倒れて、二階と三階がそのまま落ちた形だ。北西の角はまだ立ってる。崩壊は建物全体じゃなく、片側から始まってる。
——不同沈下の崩れ方だ。
王都に来て最初にやった仕事を思い出した。マルタさんの長屋の壁。あの時は壁のひび割れだけで済んだが、原因は同じだ。地盤が片側だけ沈んで、建物が傾いて、耐えきれなくなった側が潰れる。
だが、あの長屋は古い木造だった。こっちはコンクリートブロック造りだ。ブロック工法で不同沈下が起きるってことは、基礎がまるで効いてねえ。
瓦礫に手を伸ばした。コンクリートブロックの破片を一つ拾い上げる。
ブロック自体は悪くねえ。寸法も揃ってるし、焼きも均一だ。型枠の作りが丁寧なのが分かる。帝国の石工は手先が器用だから、ブロックの成型は問題ないだろう。
次に目地を見る。ブロックとブロックの間のモルタル。ここも厚さは均一で、配合も悪くなさそうだ。
壁は問題ねえ。じゃあ何が壊れた。
瓦礫の端を回り込んで、崩壊の起点——南東の角に行った。倒れた壁の根元が露出してる。基礎の断面が見えた。
見た瞬間、分かった。
浅い。
基礎が浅すぎる。地表から三十センチも掘ってねえ。帝国の南部はレグニカより寒い。凍結深度——冬に地面が凍る深さ——は、この辺りなら七十センチから八十センチはある。基礎はその下に据えなきゃいけねえ。なのにこの基礎は三十センチだ。半分以下。
冬のたびに地面が凍って膨張して、基礎石を押し上げる。春に溶けても基礎は元の位置に戻らねえ。少しずつずれていく。数年と繰り返すうちに、片側だけが持ち上がって——建物が傾いて、ある朝いきなり崩れる。
ヴァルゲンの城壁で、俺がヴァルターに指摘したのと同じ症状だ。あの時は城壁だったから持ちこたえてた。こっちは民家だ。壁が薄い。耐えられなかった。
基礎の下の割栗石を確かめた。掘って、手で触った。
……ゆるい。突き固めが足りてねえ。石同士が噛み合ってなくて、手で引っ張ると抜ける。こんなもんは基礎じゃねえ。石を並べただけだ。
「ヴァルター。仕様書に凍結深度の記載はあったか」
「ある。『基礎は凍結深度より下に設置すること。帝国南部の目安は七十センチ以上』と書いてある。——儂が確認した」
「書いてあるのに、三十センチで建ててる」
「……」
「割栗石の突き固めも、仕様書に手順が書いてある。突き棒で百回以上突くって。だがこの石は五回も突いてねえ」
立ち上がった。粉塵が手についてる。
仕様書は正しい。凍結深度も、割栗石の突き固めも、全部書いてある。手順も数字も間違っちゃいねえ。
だが——建てた奴は、なぜ深く掘るのかを分かっていなかった。なぜ百回突くのかを分かっていなかった。「七十センチ」って数字は覚えていても、「凍結深度より浅い基礎は冬に持ち上がる」って原理を理解してなけりゃ、条件が変わった時に対応できねえ。カイザの土地は粘土質で水を含みやすい。普通の土より凍上の影響がでかい。仕様書の「七十センチ」じゃ足りなくて、ここなら九十か百は必要だった。
だがそんな判断は、「なぜ深く掘るのか」を理解していなきゃできねえ。
仕様書は「作り方」を伝えた。
「考え方」は——伝わっていなかった。
三人が瓦礫の下敷きになったのは、考え方が伝わらなかったからだ。
* * *
瓦礫の前に立ったまま、動けなくなった。
ドラゴンに壁を壊された時とは違う。あれは天災だ。壊す側がいて、守る側がいる。構図がはっきりしてる。
こっちは違う。壊したのは——俺の技術だ。俺が広めた工法で建てた建物が崩れて、中にいた人間が怪我をした。もう少し崩れ方が悪けりゃ、死人が出てた。
カーラが隣に立っていた。何も言わない。言わないでいてくれるのが、ありがたい。
ヴァルターが口を開いた。
「すまん、親方。儂が——」
「あんたのせいじゃねえ」
「だが——」
「謝るなら俺だ。仕様書を書いたのは俺の仲間で、工法を広めたのは俺だ。——あんたじゃねえよ、ヴァルター」
瓦礫を見た。コンクリートの破片に霜が降りてる。三人分の命がこの石の下にあった。
「……技術を広めるってのは、こういうことなのか」
独り言のつもりだったが、声に出ちまった。カーラがちらっとこっちを見て、また前を向いた。
* * *
ロープの外に戻ると、住民が集まっていた。
男が一人、俺に向かって詰め寄ってきた。
「お前が棟方か! お前の作り方を真似た家が壊れたんだ! どう落とし前をつけるんだ!」
「……落とし前は、直すことで付ける。他にできることはねえ」
怒ってる。当たり前だ。
カーラが小さく俺の袖を引いた。「行くわよ」って意味だろう。今は何を言っても刺さる。
明日から、カイザの町を一軒ずつ叩いて回る。帝国南部に広まった「テツ式」の建物を全部点検する。問題がある建物は全部直す。
——直すだけで足りるのか。
分からねえが、今の俺にできるのはそれだけだ。
宿の窓から、瓦礫が見えた。月の光がコンクリートの破片を照らしてる。
コーヒーを淹れる気にならなかった。この旅で初めてだ。




