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蓮の檻   作者: echo
2章

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34/35

30話

ガタゴトと一定のリズムを刻む馬車の振動が、硬い木製の車輪を通じて、座席のクッション越しに身体の芯まで伝わってくる。

窓の外を流れる景色は、ここ数日見慣れたラシェルの荒野から、石造りの側溝が整えられた王道へと姿を変えていた。街道の両脇には等間隔に街灯の支柱が並び、その先には黄金色に色づき始めた麦畑が地平線まで続いている。


「小林殿、ロロア様。前方をご覧ください。間もなく王都の第一障壁、正門が見えてまいります」


馬車の右隣、護衛のようにぴたりと並走していた騎士団のルカが、愛馬の首を軽く叩きながら落ち着いた声で告げる。

その言葉を聞いた瞬間、それまでたわいもない冗談を言い合っていた車内の空気がふっと変わった。



初めて訪れる王都という巨大な存在への純粋な期待。そして、異邦人である自分がその巨大な社会に放り込まれることへの、正体の知れない不安。それらが綯い交ぜになり、俺の心はどこか落ち着かなくなる。


ふと隣に座るロロアに目を向ければ、彼女もまた同じようだった。

膝の上に置かれた彼女の手は、無意識のうちに硬く握りしめられており、指先がわずかに震えている。窓の外を見つめるその横顔は、流れる景色を追っているようでいて、その実は自身の内側にある深い深淵を見つめているようだった。


沈黙を破り、最初に言葉を発したのはロロアだった。


「……ねぇ、裕真。あの化け物のこと、王都の人たちはどう思うかしら」


ぽつりと零された声は、先ほどまでの明るい響きを完全に失い、澱のように暗く沈んでいた。

ラシェルの街を襲った、あの悪夢のような悲劇。

目の前で異形へと変容してしまったアゼル。どろどろとした黒い肉塊となり、実の親をその手で引き裂き街に混乱をもたらした前代未聞の大事件。


変容してしまったアゼルを前に、彼女は自身の甘さゆえに対処を誤り、結果として街に混乱を招いてしまった。

その事実は極秘とされている。けれど、そんな形式上の隠蔽など、本人にとっては関係のないことだ。

自分自身と向き合う覚悟を決め、変わることを決意した今のロロアであっても、心に深く打ち込まれた楔が抜けるわけではない。

その楔から伸びる鎖は、彼女がどこへ行こうと後ろをついて回り、ふとした瞬間に彼女の心を冷たく締め上げ、苦しめ続けていく。


窓の外を流れる風景と、彼女の抱える救いのない後悔。

その対比が残酷なほど鮮明で、暗く沈んだ顔のロロアを見ていられなくなった俺は、努めて明るい、冗談めかした調子で口を開いた。


「おいおい、そんなに難しい顔してると、王都の門番に怪しまれて捕まるぞ。」


 彼女は一瞬きょとんとした表情を浮かべ、それからふいと顔を背けて、少し不機嫌そうに鼻を鳴らす。


「……別に、そんな難しい顔なんてしてないわよ。でもありがとね。」


少しだけ頬を膨らませて見せたロロアだったが、すぐに表情を和らげ、視線を泳がせながら小さく息をついた。強張っていた表情がわずかに解けていく。


「どういたしまして。そういえば、リナは元気にしてるのか? 」


ロロアは少しだけ遠くを見るような目をして、懐かしむように語った。


「元気よ。今は屋敷でメイドとして働いてくれているわ。最初は、言い合いになっちゃったんだけどね。」



アゼルの妹、リナ。

肉親であった兄が化け物へと成り果て、その兄の手で両親が殺されるという凄惨な光景を目の当たりにした彼女に、もう帰るべき家はない。

当然、身寄りのなくなったリナは孤児院へ連れていかれる予定だった。だが、それを引き止めたのはロロアだった。


「もともとは食客として、好きに暮らしてもらおうと思っていたのだけれど。あの子がどうしてもって聞かなくて。今は見習いメイドとして雇っているわ」


引き取られたばかりの頃のリナは、底の見えない喪失感から部屋の隅で一日中うずくまり、声をかけてもただ震えて泣いてばかりいたという。

それも当然のことだ。トラウマという言葉で片付けられるようなものではない。自分の世界を構成していたすべてが、たった一夜で、最も信頼していた兄の手によって破壊されたのだから。


だが、ロロアはそんなリナから逃げなかった。

彼女はリナの部屋を訪れ、二人きりで、誰にも聞かせられない話を始めたのだ。

亜神としての慈悲深い言葉ではなく、自分自身の隠したい過去も、逃げ出したくなるような醜い弱さも、すべてをさらけ出して向き合った。

互いに心の底にあるものをぶつけ合い、絶望を分かち合った末に、最後は二人で抱き合って泣き崩れたこと。

それはロロアの屋敷のメイドから「小林さんだけにこっそり教えますけど、絶対にロロア様には内緒ですよ。知られたら私、クビになっちゃいますから」と念を押されて聞いた話だ。

俺がその事実を知っていることは、今もロロアには秘密にしている。


「あの子に救われているのは、私の方かもしれないわね。」


自嘲気味に、けれどどこか愛おしそうに微笑むロロア。

過去の鎖を引きずりながらも、彼女は確実に、新しい一歩を踏み出し、誰かの支えになろうとしている。


「さあ、見えてきたわよ、裕真。あれが、私たちがこれから向かう場所よ」


ロロアが指さす先。馬車の揺れが一段と穏やかになった頃、窓の外には視界の全てを埋め尽くすほどの、白亜の巨大な城壁が姿を現した。


王都、グラン・レガリア。


かつての悲劇、消えなかった化け物の死体、そしてアゼルの残した謎。

それらすべてが待ち受ける巨大な門が、重厚な音を立ててゆっくりと開かれていく。


俺たちの新しい日常と、残酷な真実が交錯する場所へと、馬車は静かに吸い込まれていった。

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