28話
焦げた空。裂けた大地。
何かが崩れ、何かが叫び、何かが終わっていた。
その中心に、自分が立っていた。けれど、何をしていたのかは思い出せない。名前も、目的も、感情さえも――すべてが霧の中だった。
耳の奥で誰かの声が響いた気がした。
誘われるように視線を向けると、声の先に、黒い衣を纏った誰かが立っている。
その人物は俺の方を見ようともせず、ただどこか遠くを、果てのない地平を見つめていた。顔は隠れていて表情を窺うことはできない。だが、その影のような隙間から覗く印象的な銀色の瞳だけが、ひどく冷たく、それでいて何かを訴えかけるように、俺の意識に深く突き刺さった。
その呼びかけが、祈りなのか、あるいは呪いなのかもわからない。けれど、その視線は確かに俺を揺さぶり、意識を現実へと引き戻していった。
「……っ」
深い闇の底から、生存本能に無理やり引きずり出されるようにして意識が浮上した。
重い瞼をこじ開け、最初に見えたのは——天井だった。映画や小説の主人公がよく言うような「見覚えのない天井だ」なんて感慨は湧かない。今の俺には、そんな軽口を叩く余裕など微塵もなかった。
肺に流れ込んでくる空気は清潔で、どこか薬品の匂いが混じっている。自分の体を確認すると、血に汚れ、ボロボロだったはずの服は脱がされ、病院で見かけるような白い、ゆったりとした白衣のようなものに変えられていた。
「……あ……」
気を失う直前の、あの腕を焼き尽くすような痛みが記憶の裏側にこびりついている。俺は反射的に、一番酷かったはずの右腕に視線を投げた。
鉄の破片が突き刺さり、骨が砕け、肉が爆ぜていたはずの右腕。だが、そこには包帯もなく、滑らかな肌が戻っていた。いくつかの生々しい傷跡こそ残っているが、信じられないことに機能としてはほぼ完治している。
「……マジか……。動く、な」
ゆっくりと指を曲げてみる。僅かな違和感はあるが、俺の意思に従って動く。死線を越えた実感が、回復した腕を見ることでようやく湧いてきた。
いつまでもベッドに留まっているわけにはいかない。俺はふらつく足取りで床に降り、部屋の扉を開けた。廊下に出ると、すぐに一人のメイドさんと行き会った。
「あら……小林様。ご無事で何よりです」
「……あ、お世話になりました。あの、街の状況とか……どうなったのか聞いてもいいですか?」
「まずは、ルフィリア様にお顔をお見せください。皆様、貴方様のことを大変心配しておられました。特にルフィリア様は……かなり心配されていたご様子でしたので」
メイドさんに案内され、磨き上げられた廊下を歩く。案内されたのは重厚な扉、ルフィリアの執務室だ。扉をノックし、中へと促される。
部屋に入り、デスクに向かっていたルフィリアと目が合った。彼女はその瞬間、驚きと、そして深い安堵の表情を浮かべて、椅子から立ち上がった。
「小林さん……! 起きたのですね」
「……ルフィリアさん。色々すみません。迷惑かけちゃって」
「いいえ、謝らないでください。貴方がこうして無事でよかったです」
ルフィリアは俺を椅子に促すと、落ち着いた口調で現状を語り始めた。
街の状況についてだが、騎士団の団長とルパによって、化け物たちは一掃されたという。現在は大きな混乱もなく、平和を取り戻している。
「天使は神の世界のなんでも屋で、力がめちゃくちゃ強いって言ってましたけど。本当だったんですね。あんな化け物たちを一掃しちゃうなんて、」
俺が感心したように呟くと、ルフィリアはふっと微笑み、頷いた。
「ええ。ルパは、徒手戦闘であればおそらく右に出る者はいないほど強いのですよ。騎士団の団長でも勝てないくらいに。避難誘導の際、私を手助けしてくださったのも彼女です。」
あの『ごうかく』と丸っこい字で書いてくれた「先生」が、そんなに頼もしい実力者だったとは。驚きつつも、どこか腑に落ちる感覚があった。
「あの……それで、この腕のことなんですけど。どうやって治したんですか? あんなに酷かったのに、傷跡くらいしか残ってなくて」
俺の問いに、ルフィリアは机の表面を指先でなぞるようにして、少しだけ表情を曇らせた。
「貴方が気を失ってすぐに、避難していた亜神たちに力を借り、癒やしていただいたのです。……実は本来、亜神が力を用いた治癒を行うことは、あまり好ましいこととはされていないのですが……今回は、致し方ありませんでした。ロロアも貴方も、その段階でほぼ完治させてあります」
「良くないこと……? どういう意味ですか?」
「かつては治癒も亜神の責務でした。ですが……不思議なことに、その治癒を受けた方々は、あまり長生きをされなかったという記録があるのです。ゆえに、今では忌避されるべき行いとされています……」
ルフィリアのその不穏な言葉に、右腕が微かに冷たくなった気がした。あの夢に出てきた銀色の瞳の人物の残像が、一瞬だけ脳裏をよぎる。
「……ですが、たとえ傷が癒えたとしても、失われた血やすり減った精神までもが瞬時に戻るわけではありません。貴方の体には、やはりそれ相応の休養期間が必要でした」
ルフィリアは慈しむような、けれどどこか重みのある視線を俺に向けた。
「……ちなみに俺、どれくらい寝てたんですか?」
「……小林さん。貴方が気を失ってから、すでに三日が経っています」
「……え、三日……!?」
絶句した。数時間か、せいぜい一晩だと思っていた。三日もの間、俺はこの屋敷で、死んだように眠り続けていたのか。
「あの……ロロアは。ロロアはどうなったんですか? 俺と同じように寝込んでるんじゃ……」
「ロロアなら、昨日目を覚まされました。今はご自身の屋敷に戻り、すでに職務に復帰されています」
「……あ、そうなんだ。よかった、あいつも無事だったんだな」
ほっと胸を撫で下ろした俺に、ルフィリアは柔らかな、どこか誇らしげな微笑みを向けた。
「ええ。ですが、メイドの報告によれば、以前とはどこか印象が変わられたようで。」
印象が変わった。
あの地獄のような状況を乗り越えて、彼女は前を向いたんだ。そう思うと、すぐに目で見確かめたくなった。
「……そうですか。それじゃ、俺、ちょっとロロアに会ってきます」
勢いよく椅子から立ち上がろうとした、その時。
「コホン」
ルフィリアが短く、鋭い咳払いをした。その冷ややかな響きに、俺の動きが止まる。
「小林さん。どこへ行くつもりですか?」
「え、いや、ロロアのところに……」
「……いいですか。まずは食事を摂りなさい」
ルフィリアは立ち上がったまま、有無を言わせぬ威圧感を持って俺を見据えた。
「三日間も何も口にしていなかったのですよ。今の貴方は、気力だけで立っているようなものです。……まずはしっかりと栄養を摂り、体力を戻すこと。彼女に会いに行くのは、それからでも遅くはありません」
その眼差しには主としての厳格さと、俺を案じる温かさが同居していた。その迫力に押され、俺は大人しく座り直すしかなかった。
「……分かりました。じゃあ、お言葉に甘えて……先に飯をいただくことにします」
そういうとルフィリアは満足そうに頷いた。
食堂で用意された食事を摂り、ようやく人心地ついた俺は、借りていた上着を羽織って外へ出た。
ロロアの屋敷へと向かう道中、街の様子を眺める。あの日、街を埋め尽くしていた化け物たちの影は、ルパたちが一掃したという言葉通り、どこにも見当たらなかった。けれど、破壊の爪痕は生々しく残っている。崩れた家々や、ひび割れた石畳。片付けは始まっているようだが、元の姿に戻るには、まだ相当な時間がかかりそうだった。
ようやく辿り着いたロロアの屋敷で、門を叩き、出てきたメイドさんに事情を話す。
「ロロア様でしたら、つい先ほど屋敷を出られました。街の状況を確認しに行くと仰っておりましたが……」
「そうですか……行き違いになっちゃったか」
残念だが仕方ない。俺はメイドさんに「ありがとうございました」と一礼して、再び街へと足を踏み出した。
ルフィリアが言っていた「変わった」という彼女の姿。それを一刻も早く見たくて、人混みや瓦礫の山を避けながら彼女の姿を探した。だが、歩いても歩いても、特徴的な彼女の姿は見当たらない。復興作業に当たる人々や、不安げに肩を寄せ合う住人たちの間を何度も往復したが、一向にロロアを見つけ出すことはできなかった。
復興に汗を流す人々や、配給を待つ列。活気を取り戻しつつある市場。どこを見渡しても、あの特徴的なピンク色の髪は見当たらない。
「もしかしたら、あそこかな?」
ふと、脳裏をよぎった場所があった。
この街に来て間もない頃、彼女が「とっておきの場所」だと言って連れて行ってくれた、街の外れにある小さな丘だ。
俺は逸る気持ちを抑えながら、緩やかな坂道を一歩ずつ登っていった。丘の上に出ると、吹き抜ける風が頬を撫でる。そこからは、あの日と同じように街全体が一望でき、遠くには茜色に染まり始めた空が広がっていた。
そして、その中心。
かつて無邪気に笑い、俺の作ったポラロイドカメラに目を輝かせていたあの場所に、一人の女性が立っていた。
「……ロロア」
呼びかけると、彼女はゆっくりとこちらを振り返った。
風に舞うピンク色の髪。夕陽を反射して琥珀色に輝く瞳。ルフィリアが言っていた通りだった。そこにいたのは、ただ守られるだけの存在でも、絶望に打ちひしがれた少女でもなかった。
彼女の立ち姿からは、かつての危うさが消えていた。自分の足でしっかりと大地を踏み締め、変わり果てた街の景色を、逃げることなくその瞳に焼き付けている。その表情は驚くほど穏やかで、それでいて、何があっても折れないような芯の強さを感じさせた。
「小林……。やっと起きたんだね」
ロロアはくすっと笑った。その声は鈴を転がすように軽やかで、けれど以前よりもずっと深く、俺の胸に届いた。
「三日も寝てたんだよ。るーちゃんが、すっごく心配してたんだから」
「……みたいだな。悪い、心配かけて」
俺が隣に並ぶと、ロロアは再び街の方へと視線を戻した。
崩れた屋根や、修復中の壁。悲劇の爪痕はまだそこかしこに残っている。けれど、彼女が見つめているのは、その瓦礫の先にある「これから」であるように見えた。
「あの日、あたし……全部終わっちゃえばいいって思った。でも、小林が言ってくれたでしょ。生きろって。……あの時はただ、必死だったけど。今、こうして街を見てるとね、生きててよかったなって思うの」
ロロアはそっと胸元に手を当てた。そこには、俺がかつて渡したあのポラロイド写真が、今も大切に仕舞われているのかもしれない。
「……そっか。そう言ってもらえると、俺も助けた甲斐があるよ」
俺が少し照れ隠しにそう言うと、ロロアは夕陽に目を細めながら、ふと思いついたようにこちらを振り返った。
「ねぇ、小林。もう一箇所だけ、付き合ってほしい場所があるんだけど……いいかな?」
「ああ、もちろん。どこへ行くんだ?」
「……うん。こっち」
先ほどまでの明るい調子とは少し違う、静かで穏やかな足取り。彼女に導かれて丘の裏手へと回ると、そこには街の喧騒から切り離されたように、ひっそりと広がる墓地があった。乾いた砂塵の匂いと、風化しかけた石碑の群れ。夕闇が静かに降り始めている。ロロアは迷いのない足取りでその奥へと進み、一つの小さな墓石の前で足を止めた。
「ここ、ルルアのお墓なんだ」
ロロアは墓石の前に膝をつき、積もった砂をそっと手で払った。
「やっぱり、あたしは、自分が嫌い」
ぽつりと、ロロアが呟いた。その声は冷たく、乾いていた。
「あの日抱いた、あの吐き気がするほど醜い感情が……今もあたしを縛ってる」
ロロアは自嘲気味に口角を歪め、俺の反応を待つように視線を向けた。蔑まれるのを、あるいは拒絶されるのを待っているような、投げやりで痛々しい目。だが、俺は彼女の目を真っ直ぐに見返して、短く言い放った。
「俺が知ってるロロアはさ。無邪気に笑って、自由に歩き回って、誰よりもまっすぐなやつだよ」
「……え?」
「それに、あの地獄みたいな夜……。逃げ出したいはずなのに、子供の盾になって、傷だらけになっても立ち上がり続けた。あんな無茶ができる、めちゃくちゃ強いやつだ。……だろ?」
ロロアが、ハッとしたように目を見開いた。
「……まあ、急に落ち込んじゃうのが玉に瑕だけどな」
わざとらしく茶化すと、ロロアは一瞬きょとんとした後、頬を真っ赤にした。
「……っ、うるさいなぁ! それは……小林のせいじゃん」
「だから、そんなの、知らん」
俺はもう一度、今度は確信を込めて告げた。
「ロロアがどれだけ自分を最低だと思おうが、過去に何を思おうが、いくら後悔したって、いくら自分を呪ったって、過ぎた時間は一秒も戻らないし、過去は変わらないんだよ」
ロロアは弾かれたように肩を震わせた。自分の過去を知りながら、あの日抱いた醜い感情さえも突き抜けて、俺が「今の彼女」を否定せずに見据えていることが、どうしようもなく彼女を揺さぶっているように見えた。俺は一歩踏み出し、震える彼女の背中に視線を落としながら言葉を継いだ。
「ただ、今もしやることがあるとするなら一つある」
「……な、に……?」
ロロアが掠れた声で、縋るように俺を見上げてくる。その瞳は、今にも決壊しそうなほどに揺れていた。俺はわざとぶっきらぼうに、けれどはっきりと言った。
「悪いことしたと思ってんなら、誠心誠意謝る。それくらいだろ」
一瞬、時間が止まったかのような沈黙が流れた。
ロロアは目を見開き、それから弾かれたように墓石に向き直った。あの日、朝が来なかったせいで伝えられなかった言葉。
「……っ」
彼女は崩れ落ちるように墓石に縋りついた。指先が、刻まれた『ルルア』の名を、剥がれ落ちた罪をなぞるように強く、強く擦る。
「ごめん。」
そしてまた続ける
「ごめん。ごめんね、ルルア……っ!!」
その瞬間、あの日からずっと、どれほど自分を呪っても枯れ果てていた彼女の瞳から、大粒の雫が溢れ出した。一度溢れた熱い塊は、もう止まることを知らない。
「あの時……あんな、ひどいこと言って……」
ロロアの声が、激しい嗚咽に途切れる。
「……本当に、ごめん……っ。……あたし、大好きだったのに……」
墓石を抱きしめる指が白く強張る。喉の奥に固まっていた本当の願いが、震える吐息と共に、一滴ずつ漏れ出した。
「本当は……お散歩に、行きたかった……。」
溢れ出す言葉は、結局のところ彼女の自己満足に過ぎないのかもしれない。今さら何を言っても、冷たい石碑が温かく返事をしてくれることはないのだから。
けれど、それでも。こうして泣き喚くことでしか、彼女は自分を許す方法を知らなかった。
「一緒に……やりたい…こと…いっぱいあったのに!」
言葉にならない叫びが、乾いた空気を震わせる。
それは、幾年もの間、彼女にとって永遠のように内側で凍りついていた「愛」が、激しい濁流となって溢れ出した瞬間だった。
ロロアは墓石に額を押し当て、なりふり構わず、声が枯れるまで続けた。
「本当に、ごめん……っ。」
乾いた大地に、彼女の涙が吸い込まれていく。
夕焼けに照らされる中、彼女の流す涙は、贖罪だとしても、新しい未来への祈りのように響き渡っていた。




