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蓮の檻   作者: echo
1章

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27話

 右腕はもう、自分の意思では一ミリも動かない。ぐにゃりと力なく垂れ下がった指先から、ポタポタと絶え間なく血が滴り落ちていく。


 映画の主人公は、撃った後に軽口でも叩いていただろうか。

 そんな余裕、あるわけがない。


「……っ、おい、ロロア。……大丈夫、か」


 ようやく辿り着き、絞り出すような声で彼女に問いかける。

 ロロアは壁に背を預けたまま、焦点の定まらない瞳で俺を見上げていた。その顔は青白く、呼吸も浅い。だが、俺の姿を認めると、その唇が僅かに動いた。


「……何、その腕。……小林の方が、よっぽど……きつそう、じゃん……」


 掠れた声。けれど、いつもの毒気が少しだけ混じっていることに、俺は不覚にも安堵した。


「……ああ。……お互い様、だろ」


 俺は、無事な方の左腕を彼女の背中に回した。

 触れたロロアの体は驚くほど細く、そして冷え切っている。彼女もまた、限界をとっくに超えていたのだ。


「……立てるか。……こんな場所にいたら、また次が来るぞ」


「……わかってる、よ……。……ん」


 ロロアが俺の肩に細い腕を回す。俺は彼女の体を引きずるようにして、ゆっくりと立ち上がった。

 立ち上がった瞬間、全身の傷口が悲鳴を上げ、視界がぐらりと揺れる。右腕に刺さった鉄の破片が肉の中で軋み、折れた指がズキズキと熱を帯びて脈打った。


 それでも、俺たちは一歩を踏み出す。

 背後には、頭を爆ぜさせた化け物の巨体が、物言わぬ肉塊となって転がっている。


静まり返った路地裏に、引きずるような二人の足音と、重なり合う苦しげな呼吸音だけが響く。

 一歩踏み出すたびに、右腕に刺さった破片が肉を抉り、熱い血が追加で流れ落ちるのが分かった。意識が遠のきそうになるのを、肩に感じるロロアの体温だけで繋ぎ止める。


「……ねぇ、小林」


 ふいに、肩に預けられた重みが少しだけ増した。


「……どうして、あたしを見つけられたの?」


 それは、彼女なりの純粋な疑問だったのだろう。あの混乱の中、一人で逃げ惑っていた自分を、この世界の住人でもない俺が見つけ出せた理由。


「……探してたら、兄妹に声をかけられたんだ」


 俺は途切れ途切れに言葉を繋ぐ。脳裏に、あの怯えていた子供たちの顔が浮かんだ。


「ピンク色の髪のお姉ちゃんが自分たちを逃がしてくれて、あっちで戦ってるって……そう教えてくれたんだ。それで、言われた方を探したら、お前を見つけられたんだよ」


 俺の話を聞いて、ロロアは一瞬だけ、肺の奥で息を止めたような気配を見せた。

 無事に生き延びていたこと。そして、その子供たちの言葉が、俺を彼女の元へ導いたこと。


「……そっ、か。あの子たち、無事だったんだ」


 ロロアの声は、震えてはいなかった。ただ、ずっと喉の奥に詰まっていた塊が取れたような、ひどく静かで、落ち着いた響きだった。


「……よかった。本当に」


 彼女はそれ以上、何も言わなかった。ただ、俺の肩を掴む小さな手に、ほんの少しだけ力がこもったのが分かった。


「……ああ。本当によかったな」


 俺もそれだけを返し、ただ前だけを見て歩き続ける。

 右腕はもう感覚がなく、冷たくなっている。けれど、反対側の肩にかかる彼女の重みだけが、俺がまだ生きていることを教えてくれていた。

 ボロボロになった二人の歪な影が、石畳の上に長く、細く伸びていた。


 石畳の広い通りの先に、見覚えのあるルフィリアの屋敷がその姿を現していた。

 距離にして、あと三百メートルほど。

 あそこまで辿り着けば、ひとまずは休める。お互いの安堵が、肩越しに伝わってくるようだった。


「……見えてきたぞロロア。」


 だが、その希望は一瞬で打ち砕かれた。

 屋敷へと続く正面の道、瓦礫が山積みになった通りの真ん中で、あの巨体がゆらりと立ち上がった。


「……っ!?」


 それだけではない。右側の半壊した商店から、左側のひっくり返った馬車の陰から、そして今まで歩いてきた背後の道をも塞ぐように、次々と奴らが姿を現した。


 合計、四体。

 

 一体を倒すのに右腕を犠牲にし、命を削る思いをしたあの化け物が、俺たちを完全に包囲している。

 屋敷の窓から漏れる明かりは、確かにそこに見えている。門扉まで遮るものは何もないはずなのに、四体の化け物が作る肉の壁が、その距離を絶望的なまでに遠ざけていた。


「小林……これ、どうすれば……」


 ロロアを支える左腕に、彼女の震えが伝わる。

 俺の右腕は、血に濡れたまま力なく垂れ下がっている。刺さった鉄の破片が肉の中で軋むたびに意識が飛びそうになるが、それを必死に繋ぎ止める。

 武器はない。指は折れ、体力も底をついた。

 

 化け物たちは、逃げ場がないことを確信しているのだろう。焦る様子もなく、一歩、また一歩と、巨大な足音を響かせながら円を縮めてくる。


「……っ、ふざけんなよ……」


 すぐそこに帰る場所がある。手を伸ばせば届きそうな場所に。

 それなのに、死の気配が四方から、じりじりと俺たちを飲み込もうとしていた。


 正面の化け物が、太い腕をゆっくりと持ち上げる。

 逃げ道はない。戦う手段も、もう残っていない。

 絶望が、冷たい汗となって背中を伝っていった。


 正面の化け物が、俺たちの絶望をあざ笑うかのように、一歩踏み出した。

 四方から迫る巨体の影。逃げ道は完全に断たれ、石畳に響く重苦しい足音が死のカウントダウンのように耳を打つ。


「……また、あれ……やるしかないのか」


 ロロアを支える左腕を離し、俺は力なく垂れ下がった右腕に目を落とした。

 指はあらぬ方向に曲がり、腕に突き刺さった鉄の破片が脈打つたびに、視界がチカチカと明滅する。

 

 あんなものは二度と御免だ。一度引けば、次は腕そのものが消し飛ぶかもしれない。

 だが、ここで何もしなければ、俺もロロアも、あの岩のような拳で地面の染みに変えられる。


「……っ、あああああッ!!」


 俺は自分を鼓舞するように声を上げ、再び拳銃を作り出す。

 さっきよりも、もっと鮮明に。もっと確実に。

 熱気が右の掌に集まり、銀色の粒子が血に濡れた拳を覆っていく。

 

 現れたのは、先ほどと同じ拳銃。

 1ミリも動かないと思っていた右腕だがアドレナリンによるものなのか不思議と構えることができた。そうして無理やり持ち上げた右手で、正面の化け物に銃口を向けた。



 必死に自分を鼓舞し、人差し指に力を込める。

 ――だが。

 指が、動かない。


「……あ……っ、く……?」


 衝撃で砕けた関節と、神経を分断するような激痛。

 どれだけ命令を送っても、あらぬ方向に折れ曲がった人差し指は、冷たい引き金に触れることはできず、ぴくりとも動かなかった。

 



「動け……! 動けよ、クソッ!!」


 汗と涙が混じり、視界が歪む。

 銃口の先にいる化け物は、俺が攻撃手段がないという事を見透かしたように、醜い顔を歪めて静かに歩みを速めた。


 じりじりと、四方の影が伸びてくる。

 指一本動かせない右腕。沈黙を続ける鉄塊。

 化け物の一体が、目前でその巨大な拳を天高く振り上げた。石畳に落ちる影が、俺とロロアを完全に飲み込む。


(……ここまでか……っ!)


 覚悟を決めて目を瞑り、ロロアの体を引き寄せた――その時だった。


「ルパ!」


 夜の静寂を切り裂くように、凛とした、それでいて聴き慣れた声が響き渡った。


 直後、視界の端を一条の影が掠める。

 それは凄まじい速度で石畳を蹴り、宙を舞った。猫のようなしなやかさと、猛獣のような鋭さを併せ持ったその人影――猫耳のメイド、ルパだ。


「ガ……ッ!?」


 目の前で拳を振り上げていた化け物の喉元に、ルパの鋭い一撃が突き刺さる。

 それだけではない。彼女は着地する間も惜しむように、踊るような軌道で残りの三体へと肉薄した。

 

 瞬きをする暇さえなかった。

 肉を断つ音。骨を砕く音。

 俺とロロアを絶望の淵に追いやった四体の巨体が、ルパが通り過ぎるたびに、まるで糸の切れた人形のように次々と崩れ落ちていく。


 一瞬前までの死の気配が、嘘のように霧散した。


「……あ……」


 呆然と立ち尽くす俺たちの前に、小走りで寄ってくる人影があった。

 

 月明かりを浴びて輝く、透き通るような銀髪。

 見覚えのある、気品に満ちたその姿。


「大丈夫ですか!」


 声の主は、ルフィリアだった。

 彼女は俺の血まみれの右腕と、ボロボロになったロロアの姿を一瞥すると、いつもより焦っていることが伝わったが、その声にはどこか安堵を含んだいた。


ルパが最後の一体を仕留め、巨体が地響きを立てて倒れる。その静寂の中で、ルフィリアの姿が月明かりに照らされていた。


 ……助かった。

 本当に、助かったんだ。


「……あ、……ぁ…………」


 その姿を確認した瞬間、張り詰めていた一本の糸が、音を立てて千切れた。

 急激に重力が重くなる。折れた指、肉を抉る鉄の破片、枯渇した精神――これまで無理やり蓋をしていた痛みが、土濁流となって俺を飲み込もうとしてくる。


「……よかった……たすかっ、た……」


 膝の力が抜け、視界が急速に黒く塗り潰されていく。

 支えていたはずのロロアの感触も、自分の腕の重ささえも、霧の向こう側へと遠ざかっていく。


 石畳に崩れ落ちる寸前。

 誰かの、温かい腕が俺の体を抱きかかえたような気がした。

 

 確かめる術は、もうない。

 俺はただ、深い闇の底へと、吸い込まれるように意識を手放した。

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