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蓮の檻  作者: echo
1章

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27/33

26話

 格好をつけた台詞を吐き捨てたが、正直、俺の心臓はうるさいくらいに早鐘を打っていた。

 ロロアを抱えて走り続けたせいで、肺は焼けるように熱い。脇腹に受けた一撃の鈍い痛みがじわじわと広がっているが、まだ足は動く。


 勝てる気がするか? ……冗談だろ。勝算なんて、どこをどう探しても見当たらなかった。

 けれど、引くわけにはいかない。

 背後の瓦礫の隙間には、深手を負って動けないロロアがいる。一歩でも後ろに下がれば、その瞬間に彼女が踏み潰される。


「ガァァァァッ!!」


 化け物が路地を震わせる咆哮を上げ、巨体を揺らして突っ込んできた。

 動き自体はそこまで機敏じゃない。だが、その一撃は建物の壁すら容易く粉砕する、理不尽な破壊力の塊。


「……っ、おおおおお!」


 俺は一歩踏み出し、横薙ぎに振るわれた剛腕を、姿勢を低くして潜り抜けた。頭上を通り過ぎた風圧が、肌を刺す。回避した勢いのまま、手に握っていた木片を化け物の脇腹へと叩きつける。


 ――ガツッ!


 嫌な振動が腕に響いた。

 化け物の硬質な皮膚表面を浅く削っただけで虚しく弾かれる。それどころか、その衝撃で俺の手のひらの皮がズルリと剥け、鋭い痛みが走った。


「くそっ……、硬すぎるだろ……っ!」


 化け物は痛がる様子さえ見せず、鬱陶しい羽虫を払うように裏拳を繰り出してくる。それを咄嗟に木片で受け流すが、まともに威力を殺しきれず、石畳の上を数メートル後退する。

 

「はぁ、はぁ……っ、ごほっ!」


 肺に衝撃が溜まっていく。

 化け物は、俺が引けないことを知っているかのように、じりじりと距離を詰めてくる。逃げ場のない袋小路。持久戦になれば、先に力尽きるのは間違いなく、武器すら持たない素人の俺の方だ。


 手のひらから滲んだ血が木片を濡らし、嫌な滑り気を帯びていく。握力は次第に奪われ、指先が痺れ始めていた。


「……まだまだ……。まだ終わらねぇぞ……!」


 化け物の動きを注視する。大振りの攻撃。単調な踏み込み。避けられないわけじゃない。だが、ここはあまりにも狭い。避けるたびに背後のロロアとの距離が物理的に縮まっていく。


 ――ずるり。


 化け物が不気味に笑い、再び腕を振り上げた。

 俺は奥歯を噛み締め、真っ向からその化け物を睨みつける。

 


「来いよ……。俺が立ってるうちは、指一本触れさせねえ……!」


 

 木片を拾い直し、二撃目を迎えるべく、声を絞り出した。



 手に持った木片を何度も叩きつけるが、石を打っているような手応えしかない。

 化け物の動き自体は単調だ。だが、その単調さが逆に恐ろしい。何度避けても、何度掠り傷を負わせても、奴は無感情に腕を振り回し続けてくる。

 

「はぁ、はぁ……っ、クソッ、効いてんのかよ、これ!」

 

 攻撃をいなし、ステップを踏むたびに、石畳に自分の汗が滴る。

 意識の半分は背後のロロアに裂いていた。彼女に指一本触れさせないよう、常にその正面に立ち塞がって立ち回る。けれど、繰り返される攻防の中で、俺の足元は知らず知らずのうちに横へとズレていた。

 

 化け物の大振りの一撃を、身を翻して避けた。その瞬間、化け物の視線が俺から外れた。

 

 ――しまった。

 

 奴が向き直ったのは、壁にもたれ、ぐったりと動かないロロアの方だった。

 化け物は獲物を変えた。俺を無視し、無防備な彼女へとその巨体を踏み出していく。

 

「待て……! こっちを見ろッ!」

 


 俺はなりふり構わず、化け物の背後に向かって突っ込んだ。ロロアの目の前で、化け物がその巨大な腕を高く振り上げる。

 

(間に合え……っ、間に合ってくれ!!)

 

 間合いはギリギリだ。今、俺がその懐に飛び込めば、ロロアへの一撃を逸らせる。俺はすべての力を足に込め飛び込んだ。

 

 だが。

 振り上げられたはずの腕が、いつまで経っても振り下ろされない。

 

 化け物は、不自然なほど静かにその動きを止めていた。

 そして――ゆっくりと。

 奴は首だけを真後ろに捻り、俺の方を向き直した。

 

 濁った瞳の奥に、確かな知性の光が宿っていた。

 化け物の口角が、耳元まで裂けるようにニヤリと吊り上がる。

 

「……っ!?」

 

 ロロアを狙うフリをして、俺が飛び込んでくるのを待っていたんだ。

 化け物は空中で静止させていた腕を、全速力で俺に向かって振り下ろした。

 

「ぐ……あああああッ!」

 

 空中で無理やり体を捻り、直撃だけは避ける。けれど、あまりに強引な回避に体勢はバラバラに崩れ、石畳の上を無様に転がった。

 受け身すら取れない。肺から空気が漏れ、一瞬だけ意識が白く飛ぶ。

 

 這い上がろうと地面に手を突いた、その時だった。

 

 ――ドスン、という重苦しい感触が、俺の胴体を包み込んだ。

 

 逃げる隙も、抗う暇もなかった。

 化け物の巨大な五指が、俺の体を無造作に、けれど逃しようのない万力のような力で掴み上げた。

 自分を掴む腕の力が、さらに強まった。

 嫌な音が体の内側で響き、肺から搾り取られた空気が、口から血の混じった泡と一緒に漏れ出す。


「が……はっ、あ…………」


 何かないか。必死に指先を動かすが、掴めるのは化け物の冷たい皮膚だけだ。

 俺はただの人間だ。この世界の連中みたいな魔法なんて、これっぽっちも使えない。

 自由な足を振り上げ、化け物の腕に何度も蹴りを入れる。血まみれの拳で、奴の指を、手首を、狂ったように叩きつける。

 けれど、木材で叩きつけてもびくともしなかった鋼鉄のような皮膚が、素手の攻撃で砕けるはずがなかった。


(……クソ。ここまで、か……)


 意識の端が白く霞み、万事休すかと思った、その時だった。


「……こば……や…し」


 瓦礫の陰から、消え入りそうな声が届いた。

 ロロアだ。彼女は血を吐きながらも、その銀の瞳で俺を必死に射抜いていた。

 震える唇から、弱々しく、けれど明確な一言が放たれる。


「……ゆ…め…」


 夢……?

 酸素の足りない脳が、その言葉を反芻する。

ロロアは言っていた。夢を形にするには、重さや感覚、それを強く思い起こさなきゃいけないと。


(……そんなもん、知るわけねえだろ。本物の武器なんて、一度も触ったことねえんだから……!)


 俺はただの高校生だ。人を殺すための道具の重さも、鉄を握りしめる感触も、俺の現実には存在しない。

 だが、映画のスクリーンで、何度も、何度も、見てきたあれなら。

 

 映像の中で、誰かの命をあっけなく終わらせていた、あの冷酷な鉄の塊。

 手首を跳ね上げるような凄まじい反動や、鼓膜を震わせる乾いた音の記憶。

 本物は知らない。触ったこともない。けれど、作り出すしかないこの状況を打開するために


 俺は、化け物の指を押し返していた右手に、ありったけの意識を叩き込んだ。

 

 掌を圧迫する、ザラついたグリップの硬さ。

 手首にのしかかる、ずっしりとした金属の重量。

 指先にかかる、冷たくて、重い引き金の抵抗感。

 

 映像の中の「嘘の感触」を、死への恐怖で無理やり「本物」として自分の掌に捏造する。

 掌が焼けるように熱い。神経が一本ずつ焼き切れるような感覚が走る。

 

 次の瞬間、化け物の指の間から、眩い銀色の粒子が噴き出した。

 

 それは、俺の乏しい記憶を掻き集めて、この世界の理で強引に鋳造した代物。

 歪な影を纏った、銀色の拳銃が、俺の右手に握られていた。


「――死ねよ、化け物」


 掴まれたまま、俺は至近距離からその銃口を化け物の眉間に押し付けた。

 安全装置なんて知らない。機構なんてどうでもいい。ただ、壊れろ。消えろ。

 俺は、化け物の笑った顔を真っ向から睨みつけ、力任せに人差し指を引き絞った。


 カチ、と引き金を引くと夢が現実を撃ち抜く、乾いた音が路地裏に響いた。


 引き金を引いた瞬間、俺の右腕に走ったのは、想像を絶する暴力的なエネルギーの逆流だった。

 鼓膜を直接叩き割るような爆音。

 銃口から噴き出したのは銀色の閃光と、不完全な夢が現実の理に耐えきれず崩壊する断末魔の叫びだった。


「……ッ、が、あぁぁぁぁぁ!!」


 弾丸は確かに、至近距離から化け物の眉間を抉り、その頭部を内側から爆ぜさせた。


 実際に触れたこともない構造、適当なイメージで捏造した鉄の強度は、火薬の爆発を受け止める器にはなれなかったのだ。

 銀色の拳銃は一発の射撃と同時に粉々に砕け散り、その鋭利な破片が、俺の右腕の肉を深く抉り、突き刺さり、 衝撃を真っ向から受けた指の骨が、圧力に耐えかねて無残に折れ、あらぬ方向へと曲がっている。

 熱い。痛いなんて言葉じゃ足りない。腕全体が沸騰した油をぶっかけられたような、凄まじい灼熱に支配される。


「はぁ、はぁ……っ、う、ああああ……っ!!」


 化け物の拘束が解け、俺の体は石畳の上に投げ出された。

 崩れ落ちた化け物の巨体が地響きを立てる。即死だ。頭の半分を失った奴は、もう二度と動かないだろう。


 だが、俺も限界だった。

 右腕は血まみれで、突き刺さった鉄の破片が脈打つたびに神経を削り取っていく。折れた指が地面に触れるだけで、意識が白く飛んでしまいそうだ。


「やった……ぞ……、クソ……野郎……」


 膝をつき、激しく震えながら、俺は必死にロロアを視界に探した。

 右腕はもう、自分の意思では一ミリも動かない。ぐにゃりと力なく垂れ下がった指先から、ポタポタと絶え間なく血が滴り落ちていく。


 映画の主人公は、撃った後に軽口でも叩いていただろうか。

 そんな余裕、あるわけがない。

 俺はただ、焼けるような腕を抱えて、ロロアのほうに戻っていった

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