26話
格好をつけた台詞を吐き捨てたが、正直、俺の心臓はうるさいくらいに早鐘を打っていた。
ロロアを抱えて走り続けたせいで、肺は焼けるように熱い。脇腹に受けた一撃の鈍い痛みがじわじわと広がっているが、まだ足は動く。
勝てる気がするか? ……冗談だろ。勝算なんて、どこをどう探しても見当たらなかった。
けれど、引くわけにはいかない。
背後の瓦礫の隙間には、深手を負って動けないロロアがいる。一歩でも後ろに下がれば、その瞬間に彼女が踏み潰される。
「ガァァァァッ!!」
化け物が路地を震わせる咆哮を上げ、巨体を揺らして突っ込んできた。
動き自体はそこまで機敏じゃない。だが、その一撃は建物の壁すら容易く粉砕する、理不尽な破壊力の塊。
「……っ、おおおおお!」
俺は一歩踏み出し、横薙ぎに振るわれた剛腕を、姿勢を低くして潜り抜けた。頭上を通り過ぎた風圧が、肌を刺す。回避した勢いのまま、手に握っていた木片を化け物の脇腹へと叩きつける。
――ガツッ!
嫌な振動が腕に響いた。
化け物の硬質な皮膚表面を浅く削っただけで虚しく弾かれる。それどころか、その衝撃で俺の手のひらの皮がズルリと剥け、鋭い痛みが走った。
「くそっ……、硬すぎるだろ……っ!」
化け物は痛がる様子さえ見せず、鬱陶しい羽虫を払うように裏拳を繰り出してくる。それを咄嗟に木片で受け流すが、まともに威力を殺しきれず、石畳の上を数メートル後退する。
「はぁ、はぁ……っ、ごほっ!」
肺に衝撃が溜まっていく。
化け物は、俺が引けないことを知っているかのように、じりじりと距離を詰めてくる。逃げ場のない袋小路。持久戦になれば、先に力尽きるのは間違いなく、武器すら持たない素人の俺の方だ。
手のひらから滲んだ血が木片を濡らし、嫌な滑り気を帯びていく。握力は次第に奪われ、指先が痺れ始めていた。
「……まだまだ……。まだ終わらねぇぞ……!」
化け物の動きを注視する。大振りの攻撃。単調な踏み込み。避けられないわけじゃない。だが、ここはあまりにも狭い。避けるたびに背後のロロアとの距離が物理的に縮まっていく。
――ずるり。
化け物が不気味に笑い、再び腕を振り上げた。
俺は奥歯を噛み締め、真っ向からその化け物を睨みつける。
「来いよ……。俺が立ってるうちは、指一本触れさせねえ……!」
木片を拾い直し、二撃目を迎えるべく、声を絞り出した。
手に持った木片を何度も叩きつけるが、石を打っているような手応えしかない。
化け物の動き自体は単調だ。だが、その単調さが逆に恐ろしい。何度避けても、何度掠り傷を負わせても、奴は無感情に腕を振り回し続けてくる。
「はぁ、はぁ……っ、クソッ、効いてんのかよ、これ!」
攻撃をいなし、ステップを踏むたびに、石畳に自分の汗が滴る。
意識の半分は背後のロロアに裂いていた。彼女に指一本触れさせないよう、常にその正面に立ち塞がって立ち回る。けれど、繰り返される攻防の中で、俺の足元は知らず知らずのうちに横へとズレていた。
化け物の大振りの一撃を、身を翻して避けた。その瞬間、化け物の視線が俺から外れた。
――しまった。
奴が向き直ったのは、壁にもたれ、ぐったりと動かないロロアの方だった。
化け物は獲物を変えた。俺を無視し、無防備な彼女へとその巨体を踏み出していく。
「待て……! こっちを見ろッ!」
俺はなりふり構わず、化け物の背後に向かって突っ込んだ。ロロアの目の前で、化け物がその巨大な腕を高く振り上げる。
(間に合え……っ、間に合ってくれ!!)
間合いはギリギリだ。今、俺がその懐に飛び込めば、ロロアへの一撃を逸らせる。俺はすべての力を足に込め飛び込んだ。
だが。
振り上げられたはずの腕が、いつまで経っても振り下ろされない。
化け物は、不自然なほど静かにその動きを止めていた。
そして――ゆっくりと。
奴は首だけを真後ろに捻り、俺の方を向き直した。
濁った瞳の奥に、確かな知性の光が宿っていた。
化け物の口角が、耳元まで裂けるようにニヤリと吊り上がる。
「……っ!?」
ロロアを狙うフリをして、俺が飛び込んでくるのを待っていたんだ。
化け物は空中で静止させていた腕を、全速力で俺に向かって振り下ろした。
「ぐ……あああああッ!」
空中で無理やり体を捻り、直撃だけは避ける。けれど、あまりに強引な回避に体勢はバラバラに崩れ、石畳の上を無様に転がった。
受け身すら取れない。肺から空気が漏れ、一瞬だけ意識が白く飛ぶ。
這い上がろうと地面に手を突いた、その時だった。
――ドスン、という重苦しい感触が、俺の胴体を包み込んだ。
逃げる隙も、抗う暇もなかった。
化け物の巨大な五指が、俺の体を無造作に、けれど逃しようのない万力のような力で掴み上げた。
自分を掴む腕の力が、さらに強まった。
嫌な音が体の内側で響き、肺から搾り取られた空気が、口から血の混じった泡と一緒に漏れ出す。
「が……はっ、あ…………」
何かないか。必死に指先を動かすが、掴めるのは化け物の冷たい皮膚だけだ。
俺はただの人間だ。この世界の連中みたいな魔法なんて、これっぽっちも使えない。
自由な足を振り上げ、化け物の腕に何度も蹴りを入れる。血まみれの拳で、奴の指を、手首を、狂ったように叩きつける。
けれど、木材で叩きつけてもびくともしなかった鋼鉄のような皮膚が、素手の攻撃で砕けるはずがなかった。
(……クソ。ここまで、か……)
意識の端が白く霞み、万事休すかと思った、その時だった。
「……こば……や…し」
瓦礫の陰から、消え入りそうな声が届いた。
ロロアだ。彼女は血を吐きながらも、その銀の瞳で俺を必死に射抜いていた。
震える唇から、弱々しく、けれど明確な一言が放たれる。
「……ゆ…め…」
夢……?
酸素の足りない脳が、その言葉を反芻する。
ロロアは言っていた。夢を形にするには、重さや感覚、それを強く思い起こさなきゃいけないと。
(……そんなもん、知るわけねえだろ。本物の武器なんて、一度も触ったことねえんだから……!)
俺はただの高校生だ。人を殺すための道具の重さも、鉄を握りしめる感触も、俺の現実には存在しない。
だが、映画のスクリーンで、何度も、何度も、見てきたあれなら。
映像の中で、誰かの命をあっけなく終わらせていた、あの冷酷な鉄の塊。
手首を跳ね上げるような凄まじい反動や、鼓膜を震わせる乾いた音の記憶。
本物は知らない。触ったこともない。けれど、作り出すしかないこの状況を打開するために
俺は、化け物の指を押し返していた右手に、ありったけの意識を叩き込んだ。
掌を圧迫する、ザラついたグリップの硬さ。
手首にのしかかる、ずっしりとした金属の重量。
指先にかかる、冷たくて、重い引き金の抵抗感。
映像の中の「嘘の感触」を、死への恐怖で無理やり「本物」として自分の掌に捏造する。
掌が焼けるように熱い。神経が一本ずつ焼き切れるような感覚が走る。
次の瞬間、化け物の指の間から、眩い銀色の粒子が噴き出した。
それは、俺の乏しい記憶を掻き集めて、この世界の理で強引に鋳造した代物。
歪な影を纏った、銀色の拳銃が、俺の右手に握られていた。
「――死ねよ、化け物」
掴まれたまま、俺は至近距離からその銃口を化け物の眉間に押し付けた。
安全装置なんて知らない。機構なんてどうでもいい。ただ、壊れろ。消えろ。
俺は、化け物の笑った顔を真っ向から睨みつけ、力任せに人差し指を引き絞った。
カチ、と引き金を引くと夢が現実を撃ち抜く、乾いた音が路地裏に響いた。
引き金を引いた瞬間、俺の右腕に走ったのは、想像を絶する暴力的なエネルギーの逆流だった。
鼓膜を直接叩き割るような爆音。
銃口から噴き出したのは銀色の閃光と、不完全な夢が現実の理に耐えきれず崩壊する断末魔の叫びだった。
「……ッ、が、あぁぁぁぁぁ!!」
弾丸は確かに、至近距離から化け物の眉間を抉り、その頭部を内側から爆ぜさせた。
実際に触れたこともない構造、適当なイメージで捏造した鉄の強度は、火薬の爆発を受け止める器にはなれなかったのだ。
銀色の拳銃は一発の射撃と同時に粉々に砕け散り、その鋭利な破片が、俺の右腕の肉を深く抉り、突き刺さり、 衝撃を真っ向から受けた指の骨が、圧力に耐えかねて無残に折れ、あらぬ方向へと曲がっている。
熱い。痛いなんて言葉じゃ足りない。腕全体が沸騰した油をぶっかけられたような、凄まじい灼熱に支配される。
「はぁ、はぁ……っ、う、ああああ……っ!!」
化け物の拘束が解け、俺の体は石畳の上に投げ出された。
崩れ落ちた化け物の巨体が地響きを立てる。即死だ。頭の半分を失った奴は、もう二度と動かないだろう。
だが、俺も限界だった。
右腕は血まみれで、突き刺さった鉄の破片が脈打つたびに神経を削り取っていく。折れた指が地面に触れるだけで、意識が白く飛んでしまいそうだ。
「やった……ぞ……、クソ……野郎……」
膝をつき、激しく震えながら、俺は必死にロロアを視界に探した。
右腕はもう、自分の意思では一ミリも動かない。ぐにゃりと力なく垂れ下がった指先から、ポタポタと絶え間なく血が滴り落ちていく。
映画の主人公は、撃った後に軽口でも叩いていただろうか。
そんな余裕、あるわけがない。
俺はただ、焼けるような腕を抱えて、ロロアのほうに戻っていった




