その9 癒しの歌姫はみんなに愛されています
「もうどうでもいいんだ、ここにいればなにもかも忘れられる、ここは憂いのない空間なんです。イーディさえいてくれればそれでいい」
テオドールは儚げに微笑んだ。
「イーディスって、歌姫の?」
「ああ、ルナリーナ亡き後、俺を癒してくれるのは彼女だけ、彼女の愛に救われているんだ」
(どう言うこと? 歌姫イーディスはフレッド様の愛人ではなかったの?)
グレイスは困惑した。
(イーディスは何人もの殿方を手玉に取る悪女なの?)
シャーロットの事といい、お嬢様育ちでお人好しのグレイスの、思考の処理能力を超えていた。
「グレイス嬢、なぜこんなところに?」
いつの間にか、グレイスを見つけたフレッドが傍に来ていた。
「フレッド様」
二人の会話に気を取られていて、フレッドのことをすっかり忘れていたグレイスは慌てた。
「ぐ、偶然です、偶然この店に入ったら……」
「違うな、僕を追って来たんでしょ、母に頼まれたのですか?」
フレッドは申し訳なさそうに眉を下げた。
「……」
「あなたは?」
同席していたゲイリーにフレッドは目を向けた。常連のテオドールとはすでに顔見知りだった。
「俺はグレイスの婚約者、ゲイリー・キャプランです」
「これはキャプラン侯爵令息でしたか、失礼しました、ご活躍は耳にしていますよ。僕はフレッド・キートンです」
〝グレイスの婚約者〟を主張したつもりだったのに、スルーされたようなのでもう一度、
「ハッキリさせておきたいのですが、婚約破棄はしていませんから、グレイスは俺の婚約者です」
ゲイリーは威嚇するようにフレッドを睨みつけたが、彼はただ穏やかな笑みを返した。
「それはよかった、それなら母も引き下がるでしょう。僕は最初から彼女と婚約するつもりはありませんでしたから安心してください」
「あ、ああ」
肩透かしを食らったゲイリーはバツ悪そうに苦笑した。
「ところで、今、シャーロットと名前が出ていましたが、スタイン伯爵令嬢のことですか?」
「彼女とお知り合いですか」
「お会いしたことはありませんが、グレイス嬢を母に紹介したのがスタイン伯爵令嬢だと聞いています」
(ここでも繋がっているの? 私のことを、男を誑かす毒婦だと売り込んだのがシャーロット様だとしたら、さっきの二人の会話がさらに現実味を帯びるわ)
そう思うと、怒りが込み上げてきた。なんで自分が陥れられなければならないのかわからない、彼女に恨まれることをした覚えはない。
「大丈夫か?」
グレイスの肩が奮えているのに気付いて、ゲイリーは優しく抱き寄せた。
二人の様子を見たフレッドは、
「早く彼女を連れて帰ってあげてください、ここはあなたたちのように幸せなカップルがいるところではないのですよ、ここは心に憂いを持った人間が癒されにくる場所なんですから」
「そうだよ、イーディスの歌が心の曇りを晴らしてくれる、嫌なことや悲しいことを忘れさせてくれるんです」
「ここに集まる者はみんなイーディスの歌を求めて来ているのです、彼女はみんなの宝なのです」
フレッドもテオドールの言葉に同意した。
「え……あなたの愛する人でしょ」
「ええ、ここに集まるみんなが彼女を愛し、必要としているのですよ」
フレッドをテオドールは視線を合わせて頷き合った。
「時間じゃないかフレッド」
「そうだね」
フレッドはグレイスに手を差し出した。
「グレイス嬢、もう二度とお会いすることはないと思いまずが、どうかお幸せに」
グレイスが別れの握手に応じると、フレッドは優しい笑みを向けてからステージへ向かった。
フレッドがピアノの椅子に腰かけると、赤い硝子のランプがステージ上で一斉に灯された。
それを合図にフレッドのピアノ伴奏がはじまった。
「ここ一年ほどはフレッドがピアノを担当しているんです。なかなかの腕前です、彼はピアニストになりたかったんですよ」
グレイスは娯楽室にあったグランドピアノを思い出した。
「貴族って不自由ですよね、自分の思い通りにはならない、本当にやりたいことも出来ない。彼は一人息子で伯爵家を継がなければならないと決められていたから、もう弾けないと諦めていたんですけど……」
鍵盤に指を滑らせるフレッドは幸せそうだった。
「ほら、あんなに生き生きしている」
「あれが本来のフレッド様なのね」
やがて神秘的な赤い光に包まれながら歌姫イーディスが登場した。
燃えるような真っ赤な髪に見えるのは赤いランプのせいなのかもしれない、誰もを魅了して虜にする妖艶な美しさを持つ女性だった。
観客から拍手と歓声が上がる。
しかし、彼女が中央に立つと、一転、水を打つ静けさが生まれた。
歌姫イーディスのショーがはじまった。
彼女が立つステージは不思議な空間だった。
イーディスの歌が場内に響き渡ると、みんな恍惚の表情で釘付けになった。
まるでローレライ、美しい歌声で惑わし破滅させる伝説の妖精、うっとりした目で観客たちは見つめる。
ここでは観客の身分や性別年齢も関係ない、イーディスの歌声はすべての人を魅了した。グレイスの目もたちまちステージに奪われた。
そして彼女の煌めく琥珀色の瞳は店内すべての観客と視線が合っているような不思議な感覚になる、夢見心地で意識が持っていかれる、そんな錯覚に惑わされそうになる。
アッという間に一曲目が終わり、イーディスは喝采に包まれた。
満足そうに笑みを浮かべる歌姫は女神のように輝いていた。
感動したグレイスは、早く次の曲をと心が逸る。
「ダメですよ、あなたたちは」
しかし、テオドールの冷たい声が現実へ引き戻した。
「えっ?」
「早く彼を連れて出るんです」
そう言われて隣にいるゲイリーを見上げると、彼はトランス状態でまだステージのイーディスに魅入られていた。
グレイスはギュッと彼の手を握った。
反応がない。
急に、この不思議な空間に取り込まれて逃れられなくなってしまう恐怖に襲われた。テオドールの言う通り、早くここから出なければと焦った。
グレイスは思いきりゲイリーの手の甲をつねった。
「痛っ」
ようやくゲイリーはステージから目を離してグレイスに目を向けた。
「グレイス……」
ゲイリーは不思議そうにグレイスを見てから、再びステージに視線を戻そうとしたが、グレイスは彼の頬を両手で挟んでこちらを向かせた。
「出ましょ」
「えっ? あ、ああ」
まだ夢見心地だが、グレイスの鋭い視線がゲイリーを捕らえている。
「それがいい、ここはあなたたちの居場所じゃない」
テオドールは儚げな笑みを浮かべた。
フレッドのピアノが二曲目の前奏をはじめた。
それを耳に残しながら、ゲイリーとグレイスは店を後にした。




