【056】バルトロ・ヴィゴーニュの人生(1)
――バルトロ・ヴィゴーニュ。
この男はヴェリアという国の子爵家に生まれ、将来的には家を継ぐことも決まっていたが、それが実現する前に家は没落した。
爵位も返上し、現在は平民である。
貴族だった当時は婚約者もいたが、当然それも破棄された。
バルトロに残されたものは少なかった。いや、ほとんどなかったと言っていい。
家族だけは残った――と言えればよかったかもしれないが、両親は没落及び爵位の返上が決定的になったときに自害した。貴族でなくなるという事実に耐えられなかったのだろう。
朝、ベッドの上で冷たくなっている両親を見つけたのは、バルトロ本人だ。
若きバルトロは着の身着のまま放り出された。涙ひとつ出なかった。子爵家の門をくぐったときの、清々しいまでの朝焼けを今でもよく覚えている。
最初のうちは、商会で事務仕事をしてみたり、食堂で料理人の真似事をしてみたりしたが、どれもしっくり来なかった。
仕事を選べる立場にないというのはわかっている。――だが、どうしてもしっくり来ないのだ。
バルトロは器用なほうなので、何をするにもある程度はこなせてしまう。
しっくり来ない。その感情さえ無視してしまえば、自分一人ぐらい生活していけるだろうことは理解していた。それでも、何かが違うと常に感じていた。
(あー、なんかやる気起きねー)
日中から近くの酒場に入り浸っていたある日。
「お前、暇そうだな」
見知らぬ男に声を掛けられた。
「暇っつうか、職探し中よ。……オッサン、仕事紹介してくんね?」
酒を呷りながら、やる気のなさそうな声でバルトロが訊ねると、男は前の席に腰を下ろしながらじっとバルトロの顔を見つめた。
「――『つまんねえ』」
「あ?」
「『つまんねえ』って顔だ」
確かにそうだが、昼間から飲んだくれているバルトロの様子を見れば、誰だって言い当てられることだろう。
「だからなんだ」
しかし、それを直接投げ掛けられたのは初めてだったので、訊き返す声に警戒の色が滲んだ。
「……得意なことはあるか?」
「得意なこと? ……俺、たいていのことはなんでもできるよ。まあ、あとはやる気の問題だな」
それが出なくて困っている、とバルトロ。
男は鼻で嗤った。
「一つ、紹介してやれる仕事がある。ただ、あんまり綺麗な仕事じゃない。金は稼げるが……始めてから『嫌だ』も通用しない」
「やる」
ほとんど反射的に答えていた。
これだと思ったから。
どう考えても危険だと頭では理解していたが、今までになかった直感が働いた。
仮にこれで自分の人生が終わろうとも、もう守りたいものはない。自分の選択の結果だ。そんな自暴自棄な気持ちもあった。
バルトロの即答ぶりにさすがに驚いたのか、男は少し口を噤んだあと、立ち上がった。
「なら、来い」
そう言った男がバルトロを案内したのは、とある建物だった。彼らはここを拠点にしているのだという。
「ここは……」
男は彼らに『お頭』と呼ばれ、随分と慕われているようだった。
ある一つの部屋に入り、男から説明を受ける。
「俺らは、金と引き換えに依頼主の要望に応えることを生業としている。人捜しや行方不明になった猫の捜索みたいな、いわゆる善行とされるべき依頼でも断りはしないが、中には当然表立って言えないようなものもある。ただし、そんな俺らでも唯一しないこと。――それは人殺しだ。あれは俺らみたいな小規模な組織にはちっと扱うのが難しい。依頼主にもリスクを負わせちまうし、俺らも別に捕まりたいわけじゃねえからな」
逆に言えば、人殺し以外ならたいていのことは引き受けているらしかった。
それでも、バルトロは今さら引き下がるつもりはなかった。それどころか、少し興奮してさえいた。
非日常が目の前に現れたからだろうか。
わからないが、自分に向いているかもしれないと感じたのだ。
そうしてバルトロは、彼らの一員となった。
馴染むのに時間はかからなかった。
仲間はみんな気の良い奴で、酒を飲み交わしたり、冗談を言い合ったりするのが楽しかった。貴族だった頃には考えられなかった生活である。
そんなある日。
「――バルトロ!」
かつて婚約者だった女性が、バルトロを訪ねてきた。その美しさは最後に会ったときのまま、ちっとも損なわれていない。
当然か、と思いつつ、バルトロは彼女になぜここにいるのかを訊いた。
すると、彼女はこう答えた。「あなたを追いかけてきたの。両親からも勘当されたわ。結婚して!」
驚いた。
貴族令嬢として振る舞っていた頃の彼女は、もっと控えめで大人しい性格だったはずだ。自分と会わなかったあいだに、いったい何があったのだろうと。いや、もしかしたら、もともとこのような女性だったのかもしれないなと考えていたら、ほとんど無意識に首を縦に振ってしまった。
それが了承を意味することに気がつき、バルトロは慌てた。今の自分は、彼女を幸せにできるだけの力がない。確かに、二人で食っていくだけならなんとかなるが――。
バルトロは、詳細を濁したうえで「今は『何でも屋』のような仕事をしている」と告げた。だから自分のような男は結婚には向かないだろうと。
おそらく、聡い彼女はそれだけでなんとなく察するものがあったのだろう。
「人殺しさえしていなければなんでもいいわ!」
力強い声でそう言った。
彼女にとっても賭けのようなものだったかもしれない。バルトロが所属している組織には『人殺しは駄目』というルールがあったが、それを彼女は知らないのだ。
この時点で、バルトロがとっくに人を――な場合もあった。貴族社会から脱落した人間というのは、だいたいがまともに生きられない。
実際、バルトロが「それなら」と頷くと、彼女はたいそう安堵したように息を吐き出した。
結局のところ、バルトロは彼女のことを愛していたのだ。ずっと。婚約者だった頃から。
「ああ……結婚しよう、エルサ」
普通の女性より、ずっと苦労の多い人生になるかもしれない。
それでも。
すべてを捨てて追いかけてきてくれたのだ。それが貴族の娘だった女性にとって、どれだけ大変で、どれだけ勇気のいることか。
それに少しでも報いたい。
バルトロはそんな覚悟を胸に、妻と生涯共にあることを決意した。




