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メンフィス、テネシー…1

「信じられない」

 郊外のモーテルから西に十五マイル、「そう」と「そこ」の次にエルの口から出てきた言葉は、四語の構文を取った。ビリーは二語で返した。

「黙れ」

 尖った額をエルに向けたまま、ビリーの口はフレンチフライの咀嚼に戻った。骨ばった頬と鋭い鼻の下の黒い髭が上下に動く。エルの淡く青い瞳は、重なったパンケイクに染みていくメイプルシロップを見つめていた。あるいは何も見ていなかった。窓の向こうの交差点を赤いトロリーが音を立てて通り過ぎ、八月の午前の太陽を映して少女の髪を柔らかな金色に照らした。


「信じられない」

 強調された発音でもう一度言い、エルは首を振った。頭の中のイメージを追い払うような振り方だった。ビリーはエルを見ずに右腕を伸ばしてパーティション脇のケチャップ・ボトルを掴み、トマト色の中身をフレンチフライに振りかけた。エルは眉をひそめ、もう一度首を振った。

「ほんと、信じられない」

 ほんと、の一語が加わって五語になった。ビリーの発話は二文に分かれた命令法だった。

「口を閉じろ。そして二度と開くな」

 エルは半ば命令に従い、半ば背いて、ようやく切り分けたパンケイクを開いた口に運んだ。ピンク色の小鼻がひくひくと動いたが、表情は険しいままだった。メイプルシロップはほどよく染み込んでいた。


 店内の基調となる音は一九五〇年代後半のロック・ン・ロールだった。頭上で回るシーリング・ファン、焼ける卵とベイクン、鉄板に擦れるスパチュラ、ぶつかるカトラリー、ツーリストたちの笑い声、せわしなく動く店員のスニーカー、そうした音が二人の沈黙を取り巻いていた。沈黙の向こうにはミラーウォールがあり、ウォールにはマリーゴールド色で縁取られた『アーケイド』の文字が、イタリック体で元気に配されていた。


 白い皿がカチャリと置かれ、バナナ・サンドウィッチが届いた。キツネ色に焼かれたブレッドの斜めに切られた断面からはピーナッツ・バターがとろりと溢れ、柔らかに熱されたバナナの甘い香りが辺りに漂った。

 ありがとう、とエルは小声で伝え、Tシャツの店員はふくよかな身体を揺らしてにこやかに去っていった。テーブルの二人を旅行中の親子だと思っているのだろう。ニューヨークかしら、お嬢さんにはそんな雰囲気があるわ、そんなこともなんとなく思っているのかもしれない。ビリーはエルの皿をちらりと見てから、自分のグリルド・チキン・ラップにかぶりついた。


 紙ナプキンで口を拭ったあと、エルはひとつため息をつき、椅子の向きを整えて座り直し、少し背筋(せすじ)を伸ばした。両手首の付け根をテーブルに置いて指を組み、上体をわずかに前に倒してビリーを正面から見つめ、訊いた。

「説明してくれる? どうしてあなたは――」

 少女は軽く咳払いをして、事実だけを問うような口調に切り替えた。

「――どうして、あんなことになったのか」

 背中を丸め、両肘をついてテーブルに身をもたせていたビリーは、エルをじろりと見上げ、それから目をそらして、口を開いて頬を掻いた。チリチリと髭の音がする、三十三歳の男の頬だった。

「どうしたの?」

 エルに促され、ビリーは薄い唇を尖らせながら呟いた。

「だってよ」

「だって、なに?」

 語尾が上ずった。ビリーは頬を掻く指を止め、ぼそぼそと言葉を発した。説明するようなことはなにもねぇが、と言いたそうな口調だった。

「――ったろ?」

「え?」

「四軒目だったろ、もう」

 エルは右上の宙を見て考え、それから答えた。

「うん。たぶん」

「あのふざけた――なんだ、あそこでよ」ビリーは面倒臭そうに言葉を引きずった。

「ホンキー・トンク・ストリート?」

「ああ。それな。で、ゆうべはクソ蒸し暑かったし、腹も減ってたし、俺もいい加減うんざりしてたってわけだ。わかるだろ?」

「それは――」エルは言葉を選んだ。「――理解するわ。だからって――」

「で、早くなんか喰いてぇし、クソ蒸し暑ぃし、クソうんざりしていたところに、あのクソオカマ野郎が出てきやがったってわけだ」

 オカマ、という単語に少女の首の筋肉がぴくりと動いたが、すぐに表情と姿勢を戻して、訊いた。

「それで?」

「で、腹も減ってたし、アイツの、なんだ、ものの言い方が気に喰わなかったんだよな。なんだよクソ、ダメですぅ、はいぃ、ダメですぅ、決まりなんでぇぇ、ってのはよ。ものには言い方ってもんがあんだろがよクソ。頭悪ぃんじゃねぇのかアイツ。クソふざけたカウボーイ・ハットなんざ被りやがってよ、あのクソオカマ野郎――お前も見たろ?」

 エルは顔をしかめて目を閉じ、なにかを思い出して首を振った。

「あんまり思い出したくない――それで?」

「そんで、腹ん中がむかむかして、ぐつぐつしたもんが頭ん中にこう、カーッと集まってきて、バチンと弾けて、停電みてぇに真っ暗んなって、そんで――」

「それで、気がついたらオカ――」咳払いをして言い直した。「――店員さんが床に倒れていて、鼻血を出して泡を吹いて痙攣していた、っていうのね? それで――」

 ビリーは首を振り、声を強め、手振りを交えながら言った。

「そうじゃねぇよ。なにをやっているかはわかってんだよ。ボディ、頭突き、膝蹴り、フック、引きずり倒して腹に蹴り、全部覚えているぜ。アイツがぶっ飛んで棚のブーツがばらばらばらって落っこってきたのだって覚えてるさ。わかってんだよ。そう、わかってんだよな。わかっちゃいるんだが、その意味がわからねぇってのか? うまく言えねぇが」

「うまく言わなくていいわよ」

 エルはため息をついた。

「警察を呼ばれたら、どうするつもりだったの? 大変だったんだから、あたし、ほんと――」

「そしたら、お巡りもぶん殴ってたんじゃねぇか」

 エルは額に手を当て、首を振った。

「刑務所に入れられちゃうわよ」

「二度目や三度目の話じゃねぇよ」

 エルは額の手を放し、興味深そうに首を傾げ、少し早口で訊いた。

「何回、入ったの? アルカトラズ?」

 ビリーは首を(ひね)って天井を見上げ、眉間に皺を寄せながら指を立てて数え、両手を広げて首を振った。

「五回目からは覚えてねぇ」

 それから付け加えた。

「あと、アルカトラズじゃねぇよ。もうねぇよ」

「ないの?」

「ねぇよ」

「でも――」言葉に詰まりながら、エルは言った。「――撃たれちゃうわ」

 ビリーは髪をかき上げて後頭部を掻き、床を見ながらぼそぼそ言った。

「まぁ、あんときゃ確かに丸腰だったがよ」

「そういう問題じゃないわよ」エルは眉をひそめ、怪訝そうに訊いた。「――銃を持っていたら、撃ってたの?」

「銃ってのは、撃つためのもんだろが」

 エルは言葉を失い、しばらくして目を伏せ、首を振った。

「信じられない」


 左奥のブースの三人連れの老婦人が席を立った。がちゃがちゃと食器の残るテーブルの壁際には、真鍮製のシグネチュア・プレイトとともに、(がく)に入った一枚の写真が飾られていた。ダイヤモンド・ヘッドを遠景に、ハイビスカス・レッドのハワイアン・シャツにカナリー・イエローのフラワー・レイをかけ、(つや)やかに日焼けした頬にかすかな微笑みをたたえた、一九六一年のエルヴィス・A・プレスリーの肖像だった。マスタード・ボトルの陰では石積みの塀に腰をかけ、白いスラックスの腿の上にソプラノ・ウクレレを構えているのだろう。フレイミングの外ではエメラルド色のドレスをまとったジョーン・ブラックマンが同じようにレイをかけ、愛しそうに彼を見つめているのかもしれなかったが、エルは微笑んでいなかったし、ビリーはエルを見つめていなかったし、ふたりともジョーン・ブラックマンの永遠の美しさについてなにかを思っているわけではなかった。尖らせていた口をやがて動かして、ビリーはぼそぼそと呟いた。

「――りしてたからじゃねぇかよ」

「え?」

「お前が、がっかりしてたからじゃねぇかよ」

 エルはぱっと眉を上げ、あたふたと口を開いた。

「え、それは、でも、あたしは――」

 真珠色の頬を少し染め、目を細かく左右に動かし、口ごもった。

「――あたしは、通り、からでも音楽は、聴けたし――」

「でも、入りたかったろ? 近くで観たかったろ?」

「それは、まあ、だけど、でも――」

 エルの淡く青い瞳がさらにきょろきょろと動き、それから視線を白い皿の上に落として、頷いた。

「――うん」

 ビリーは前のめりになり、しゅっと手首を動かしてエルを指した。

「だろ? なんかバンバン(おと)がしてよ、ほうほうぴいぴい騒いでんのが聞こえてきてよ、ベースの上に乗っかったり、背中でギターを弾いたりしてんのがぐちゃぐちゃしたウインドウのあっち側に見えていてよ、楽しそうだなと思ったろ? ナッシュヴィルだって、音楽を楽しみてぇから来たかったんだよな? お前、ギターまで買ってたよな? せっかくガイドブックを眺めて来てよ、お前はギターまで背負(しょ)ってよ、さぁこれから楽しもうってところで三軒も断られて、がっかりしてたんだろ? だから俺は、入れてくれって言ったんじゃねぇか」

 エルは眉を寄せ、目を右にずらしながら、言った。

「うん、でも、お店にはお店の決まりがあるし――」

「決まり? あんなもん、意味わかんねぇだろ? なんで音楽聴くのに、年齢訊かれなきゃなんねえんだよ? お前もう、――いくつだっけか?」

「十三歳。先月が誕生日。七月四日」

「――もう、十三歳だろ? クソを垂れるわけじゃねぇし、しょんべんを漏らすわけじゃねぇ。酒も飲まねぇし、薬もやらねぇ。酔っ払ってゲロを吐くわけじゃねぇし、ケンカを吹っかけるわけでもねぇ。なにがいけねぇんだよ?」

「うん、でも、それは――」

「どうせお前、あれだろ、おとなしくにこにこ音楽聴いて、ぱちぱち手ぇ叩いて、それで終わりだろ? 平和じゃねぇか。実に平和なもんだろがよ。なにがいけねぇんだよ。なんだよ二十一歳だの六時以降はダメだの、意味わかんねぇよ」

「それは、うん、でも――」

「だから俺は平和に、入れてくれ、って言ったんじゃねぇか。それをあのクソオカマ野郎――」

「でも、だからって、暴力は――」

「あ? 言ってもわかんねぇヤツは、ぶん殴るしかねぇんだよ。わかんだろ? 当たりめえじゃねぇかそんなもん。ふざけやがってクソがよ」

 ビリーは声を押し殺して、もう一度呟いた。

「――ふざけやがって、クソどもがよ」

「でも、あたしは――」

 エルは小声で言った。迷いのある声だった。

「あたしは、暴力は好きじゃない」

 ビリーの声が高くなった。

「あ? それでやれてんのか、おめぇ。クソふざけたヤツら、おめぇの周りにもいんだろ? そんなヤツらににこにこして、なんになんだよ。ナメてくるだけだろうがよ。腐ってんだよそういうヤツらはよ。人間の根っこから腐りきってやがんだ。ぶん殴るしかねぇんだよ」

 それでやれてんのか、という言葉にエルの身体が固くなったが、ビリーは構わずに、少し声を落として続けた。誰かを思い出しているかのような険しく遠く、少し悲しそうな目をしていた。

「まぁそういうヤツらはたいてい、ぶん殴ったってなんもわかりゃしねぇがな」

 人間の根っこ、という言葉を頭の中に巡らせているかのような困惑した表情で、エルは訊ねた。

「わからないとわかっていて、それでも殴るの?」

 訊かれてようやくエルがそこにいたのを思い出したように、ビリーはエルを睨み上げた。

「あ? 知るかよそんなもん。こっちだってムカつくもんはムカつくんだしよ。とりあえず殴っときゃビビって黙んだから、いくらかマシにはなるだろが」

 首を振り、舌打ちをして、ビリーは吐き棄てた。

「馬鹿が多すぎんだよ、馬鹿がよ。俺のせいじゃねぇ」

 否定はできない、というように苦しそうに眉をひそめて首を捻じりながら、エルはなにかを言おうとした。

「でも――」

「クソ、なにが、暴力は好きじゃない、だ。おめぇの好みなんか、俺の知ったことかよ。だいたい、なんで俺がナッシュヴィルだのメンフィスだのにいなきゃなんねぇんだよ?」

 噛みしめるように強調して言い直した。

「クソくだらねぇ、クソメンフィスなんかによ」

 クソメンフィス、という言葉に通りがかったふくよかなTシャツの店員がびくっと反応したが、二人は気づかなかった。エルは口を開いた。

「それは――」

 ビリーは手で宙を払ってエルの言葉を遮った。

「『ディール』だってんだろ? おめぇの言葉で言やぁよ。なにがディールだクソ。フリスコに行きゃカネになるって話は、どうなったんだよ? だらだらだらだら、遠回りばっかさせやがってよ。デタラメ言ってんじゃねぇのか?」

「違うよ。デタラメじゃ――」

 エルは言い返そうとしたがビリーは聞いておらず、手をさまざまに動かしながら早口で喋り続けた。

「俺がほしいのはカネなんだよ。わかるか? カネだ。多けりゃ多いほどいい。楽に手に入んなら楽なだけいい。おめぇをフリスコに届けりゃカネになる。よくわからねぇところはあるが、楽だし悪くねぇ話だ。だから飲んだ。だが、これはディールだし、ディールでしかねぇ。俺はおめぇと年金生活者みてぇなアメリカ横断ロード・トリップを楽しみてぇわけじゃねぇんだよ」

 どん、とテーブルに手首を落とし、エルを睨み、低い声で脅すように言った。

「俺はさっさとゴールデン・ゲイト・ブリッジを拝みてぇんだよ」

「――あたしといるの、いや?」

 エルの顔つきがふっと子どものような素直なものになったが、ビリーは気づかず、言葉の意味もよくわからないまま、せわしない口の動きに戻った。

「あ? 当たりめぇだろクソ。なにが楽しくておめぇみてぇなクソ金持ちのクソガキのクソお()りとクソ運転手なんざやんなきゃなんねぇんだよ。なんだミュージアム、ミュージアムって、クソつまんねぇとこばっか行きたがりやがってよ。スミソニアンだかなんだか知らねぇが、あんなもんなんになんだよ、くだらねぇ。フィリーでもバーグでも言ったが――」

 エルを真っ直ぐに睨み、言った。

「ニューヨークに帰れ。グレイハウンドに乗ってな」

 エルはビリーの視線を正面から受けたあと、まくしたてられたことを整理するように口を開けて大きく息を吸い、ふっと肩を下ろして息を吐き、事実だけを述べるような口調で言った。

「――それじゃあ、『ディール』はおしまいね。あたしたちの旅はここでおしまい。残念だけど」

「ああ。おしまいだ。残念ではねぇが」

 ビリーは投げやりに手を振り、エルを指差して、厳しい顔で続けた。

「だが、アメリカの三分の一までは連れてきたぜ。フリスコの話は仕方ねぇが、おめぇもマフィアのオヤジに言いつけるだのなんだのの話はやめろよ」

 エルはため息をついた。

「それが公平ね。あなたは、どうするの?」後半は歌うような、鼻にかかった軽い声だった。

「知るか。カネはねぇ。銃はある。やることは決まってくるだろうよ」

 エルは真剣な顔でビリーを見つめ、訊ねた。

「それでいいの?」

 ビリーはエルから目をそらして腕を組み、上体を後ろに倒しながら吐き棄てた。

「知るかクソ。なるようにしかなんねぇよ」


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