12.姉と弟
シャルルが帰宅したのは、夜も更けた、月が天頂を過ぎた頃だった。
すでに寝支度を整え、読書をしていた私のもとに、執事のセバスチャンが音もなく現れ、お父様の帰宅を短く告げた。本を閉じると、「ご苦労様」とだけ返し、シャルルを出迎えにいくことはしなかった。
まさかこんなに帰りが遅いとは。よく、男には男の世界があると言うけれど、そういうことかしら。
この時間では、厨房もとっくに火を落とし、料理人も自室に戻っている。シャルルのためにスープを出せと命令するのは酷な話。彼らにとって、今は僅かな自由時間だ。
それに今、私が「心配していたのよ」と言わんばかりの顔を見せれば、シャルルは安堵してしまうだろう。反省の前に許しを与えてしまう。それはシャルル
のためにならない。シャルルの顔を見ることを諦め、私は床についた。
翌朝、食堂へ向かうと、そこにはお母様が一人で優雅に紅茶を嗜んでいた。
「お父様は……王宮に行かれたのですか?」
「昨夜シャルルを連れ戻したあと、折り返しで登城なさったわ。敗戦の後処理……賠償金の交渉や国境の引き直しで、向こう一月はまともに帰れないでしょうね」
お母様は溜息をついた。窓の向こうに視線を流すが、庭ではなく、そのずっと先を見つめているようだ。ゆっくりと視線をこちらに戻し、
「あなたは外遊を望んでいたけれど、この情勢ではお父様の反対も無理はないわ。ヴィリエ公爵家が国難の最中に娘を海外へ出すとなれば、あらぬ憶測を呼ぶもの」
私は静かに頷いた。昨晩は自由という言葉に興奮してしまったが、冷静になって、それがいかに軽率かが身に染みている。
先日まで時期王妃に最も近い場所にいて、現在、第二王子と第三王子から求婚されている娘を国外に出す━━ヴィリエ公爵家の翻意を疑われる行為だ。
国に忠誠を捧げてお父様が国難に立ち向かっている今、その足元をすくうような我儘を通すわけにはいかない。
「わかりましたわ、お母様。それでは、領地にあるスパで休養させていただくことにいたします。……クロエも誘ってみようかしら。彼女も、今回の騒動で心身ともに疲れ切っているでしょうから」
「それは素敵な考えね。クロエも、あなたと一緒なら心穏やかに過ごせるでしょう」
「……シャルルはどうしていますか?」
「昨夜戻ってから、少し話をしたわ。その後はずっと部屋よ。お父様はね、『例え我が息子であっても手加減はするな。謀反人と同等に扱え』と牢番に命じたそうよ。暴力こそなかったけど、かなりの言葉を浴びたようね。顔を見て、わたくしも驚いたわ」
お母様の許しを得て、私は食堂を後にした。そのまま向かうのは、シャルルの部屋だ。
「失礼するわね」
ノックもそこそこに足を踏み入れると、部屋の中にはどんよりとした空気が停滞していた。
ベッドの端に腰掛けていたシャルルは、私の姿を見るなり、びくりと肩を震わせた。
一晩、王宮の牢にいただけで、彼は見違えるほどやつれていた。整えられていたはずの金髪は乱れ、頬はこけ、目は赤く充血している。
「……姉、上……」
掠れた声。衛兵たちが、ヴィリエ公爵家の御曹司を、自分たちの意思でここまで痛めつけるなど、普通は考えられない。これは間違いなく、お父様が公爵の権限を使い、あえて息子を最底辺の罪人と同じように扱わせた━━牢に入った罪人として、一晩中罵倒され続けた結果なのだろう。
「朝食は、ちゃんと食べたの?」
「はい」
「昨夜は随分遅かったのね。本当はスープを温めて待っていたのだけど。待ちきれなくて寝てしまったわ」
シャルルはノロノロとベッドから降りると、力なく床に膝をつき、頭を下げた。
「……申し訳ありませんでした。僕は、とんでもないことを……。リリアンに……あの女に言われるがまま、姉上のことを、あらぬ噂を……本当に、申し訳ないと思って……」
消え入るようなか細い謝罪だった。
確かに反省しているのだろう。恐怖と寒さと空腹に耐えた一晩が、彼の目を覚まさせたのは事実だ。しかし、私には、そのまま許しを与えてことはできない。
「……顔を上げなさい、シャルル」
冷ややかな声に、シャルルが顔を上げた。その瞳には、どこか「謝れば、優しい姉はいつものように笑ってくれる」という甘えが透けて見えた。だからこそ、私は突き放さねばならない。
「正直に言うとね、あなたの行動には失望したわ……。姉として、弟とあなたには無限大の愛情を捧げてきたつもりだから。そして、あなたもそうだと思ってきたから」
シャルルは大きく目を見開いた。
「シャルル。人は誰しも間違いを犯すわ。その度に謝罪するのは、貴族以前に、人間として当然の振る舞いよ。
でもね、過ちを認め、謝罪したらそこでおしまいではないの。そこから許しを得るまで、ひたすら誠意を尽くし続ける。それが本当の謝罪というものよ」
シャルルが息を呑むのがわかった。図星を突かれたように身を固め、言葉を失っていた。
「信頼というものは、一度失ったら二度と元通りにはならないの。あなたは、実の姉なら頭を下げさえすれば、何でも許すと考えているのではないかしら? ……だとしたら、あまりに愚かだわ」
三歩、弟に近づいた。私の影が、背を屈めて小さくなったシャルルを覆う。
「考えてみなさい。これまでヴィリエ公爵家が何世代もかけて築き上げてきた名誉。わたくしが未来の王妃として、血の滲むような努力で確立してきた立場。
それらを、あなたはあのような浮ついた恋心……いえ、ただの情欲に溺れて台無しにしようとした。
それだけじゃないわ。あなたが無責任に流した悪意ある噂のせいで、わたくしは『血も涙もない悪女』として処刑され、命を失っていたかもしれないのよ」
「そ、それは……そこまでは……」
「いいえ、あり得た話よ。リリアンが王太子を完全に操り、あなたがわたくしの不名誉を裏付ければ、それを覆すことができないもの。そうなれば、お父様だってわたくしを切り捨てざるを得なかった。
それに、不祥事を利用して、ヴィリエ公爵家を潰そうとする他家がいないとでも? お父様もお母様も、そしてあなた自身も、連座で処罰される可能性だってあったの。
あなたは、自分の行動が家族全員の首を絞めていたことに、気づいてさえいなかったのね」
シャルルの顔から、一気に血の気が引いていく。
彼はようやく、自分が演じていた『悲劇の恋の協力者』『悪女の悪事の告発者』という役回りが、現実には一族を滅ぼす裏切り者であったことを理解したようだった。
「申し訳、ありません……姉上……っ。僕は、僕はなんて酷いことを……。姉上は、僕にとって、大切な……たった一人の……ごめんなさい……」
シャルルはその場に崩れ落ちるように床に額を擦り付けた。屈辱に耐えかねたわけではない。自分自身の浅はかさに対する、本物の絶望からくる謝罪。
その震える背中を見つめながら、私は幼い頃の記憶を呼び起こしていた。
シャルルは昔から負けん気が強く、意地っ張りだった。
年上の私に剣術で負ければ泣いて悔しがり、勉強で差をつけられれば夜通し机に向かうような、真っ直ぐな少年。
そこで、シャルルを見る目が止まっていたのがいけなかった。その奥にある高慢さに目を瞑り、いつの間にか自分の持つ特権を振りかざすようになっても、いつも最後には彼を抱きしめて許してしまった。だって性根は可愛いシャルルなのだから。
父の跡を継ぎ、国の重鎮となる男として接してきたつもりだったけど。
けれどその実、それ以上に可愛さが勝ち、どこか卑屈で高慢な心を捨てきれない、大人になりきれない子供のままにしてしまった。だからこそ、ぽっと出の男爵令嬢に「あなたは理解されていない、可哀想な人だわ」などと囁かれ、あっさりと身も心も委ねてしまったのだ。
「あなたのことは、まだ許せないわ」
声は、シャルルが望む優しい響きはない。精一杯の厳しさを込めた。シャルルの肩が大きく跳ねた。
「本当に反省し、許しを得たいのであれば、言葉ではなくこれからの行動で示しなさい。わたくしに対してだけでなく、拳で危機を回避してくださったお父様、心を痛められたお母様……そして、あなたを信じて待つと決めてくれたクロエに対しても。あなたの不誠実は、言葉だけで許されるものではないわ」
跪く弟を見下ろす。とうに私の背を追い抜いたはずのシャルルの小さな背中に、容赦なく言葉を浴びせた。
「あなたはこれから、ヴィリエ公爵家の次期当主として、死ぬ物狂いで働きなさい。失った信頼の欠片を、一つずつ拾い集めていくの。それができないというのなら、ヴィリエの名を捨て、どこへなりとも消えなさい。我が家に、一族を危うくするような『子供』は必要ないわ」
シャルルは声もなく、ただ嗚咽を漏らしながら頷いた。私はシャルルに手を貸すこともなく、背を向けて部屋を出た。
扉を閉めた瞬間、重い溜息がこぼれる。
……これで、少しは自覚を持ってくれるかしら。
今、心にあるのは、怒りよりも、深い悲しみと期待だ。
愛する弟だからこそ、ここで徹底的に突き放さなければならない。彼が真に自立し、クロエを幸せにできる男になるまで、私は優しい姉であってはならないのだ。
自室に戻り、領地のスパへの招待状を書くためにペンを執った。
宛先はクロエ・ド・リュミエール。
弟が犯した罪の代償を、私もまた、姉として背負い続けていく覚悟で。一つ一つ言葉を選び、クロエの決断への感謝と、敬意をこめた。
窓の外には、雲一つない青空が広がっていた。
しかし、その美しさが今は酷く空々しく感じられる。その輝きに静かに目を閉じた。
こちらはとっくに予約投稿していたと思っていたのですが、実際は放置されていた回になります。
その間、この次の回を執筆しており、全く、微塵も、気づきませんでした。
遅ればせながら、よろしくお願いします。




