異 虹の入江 Ⅱ
「ふふっ……ふふふふ」
ヨハネは自律していた札を全て無に返してしまった。しかし、先程まで無様に悲鳴を上げていた愚者から漏れる声に頭上を見上げ眉を顰めた。
愚者は、もはや抵抗もせずにぶらりと両手を降ろし首をつられたまま笑っていた。
しかし愚者は、その黒い瞳を開けるとそのまま視線を――後ろへ。
そして、背後から、
「フフ……――――使徒も、随分と堕ちたものですわ」
主の御国でもはや聞こうとは思わない声に、耳を疑った。
振り向いた、その先に主の玉体に手を伸ばす黒い霧、違うあれは黒い霧では無くあれは、あれは――。
七つの大罪。
あの、気配は、あの、姿は、あの、穢れは。
この像の楔から解き放たれた、主が疎んだ――――この世の罪咎で、あるのだろう。
頭の奥で、糸が切れたような疼きがして、ヨハネはその表情を変えぬままゆらりと身体を揺らして祭壇に剣の矛先を変えた。
「不空なる者よ、大印を有する者よ、十二の剣を持ちて光明を放て――――急急如律令!」
鏡子は上空に掲げた手でヨハネを射抜かんと静かに己の式神に命を下した。鏡子の口から零れる言葉は絶対の言葉。鏡子の魂の繋がれた者はその言葉に従うものだ。
――――エリーシアの光輪に、歪が入る。
一つ、二つ、三つ、四つ――――ヒビが入るたび光輝は影に杭打たれ屈折していく。その光が歪に侵された時、ついにその首枷は地に落ち炭と化した。
宙に浮くそのままで、エリーシアは真横のリベカを見やる。リベカは眉を下げながら微笑むと、砕かれた首枷に地に足を付けながら咳込んでいた。
エリーシアは命の重さを無くした様に地に降り立つと、真っ直ぐに使徒を見つめそして十二の剣を己を中心に具現化させた。その全て淡い光に包まれている。十二の剣の一つをエリーシアは握りしめた。
紅の守護石が波打ち光る。その最中に一瞬だけ動きを止めたエリーシアは、黒い眼に確かなその意志を宿して言い放った。
「道を開けなさい!さもなくば――斬るわよ!」
「はは、ははは――望むところです!ぼくの雄姿を御覧ください――今度こそ、今度こそ、主よ!」
「いざ、尋常に――勝負!」
エリーシアのその宣言に、ヨハネは必要も無く従った。
一の剣を握るエリーシアだけが距離を詰める。守護石が手繰る糸に身を任せ、ただその瞳を力を入れ見開き使徒の顔面に剣を突き立てんと腕を振るう。
ヨハネは背後にも意識を伸ばしていた。前の愚者と後ろの大罪。その両方を切り捨てなければならない。最優先したいのは後者であるが、どうやらかの大罪は笑みを浮かべているだけらしい。
ならば、愚かにも内に飛び込むこの人を迎え撃つ!
「まずは、一つ、ですねぇ」
ヨハネに刃を受け止められただけで、エリーシアが手に持つそれは容易に折れてしまった。飛び消え行く剣の破片と、バランスを前のめりにした身体はすぐに第二の剣を引き抜きヨハネの下段へ身体の軸を回す。
僅か、ヨハネは上に飛んだだけだ。エリーシアの視線がヨハネの上方に奪われれば剣は資格情報の半分を失ってしまう。踏み込んだ右足の軸は抉る肉を得ず力の流れを前へ前へと誘導されるが儘、二三歩歩みを進めていく。――次は、ヨハネの番。
「はい、二つ目」
微笑み。
入れ替わった位置。振りかぶられた剣――耐え斬れず二本目は砕け散った。
エリーシアはすぐさま第三の剣の柄を握る。後方に飛び退きその威力の反動でヨハネに飛びついた。
「鏡子!!」
「滅せよ、滅せよ――急急如律令!」
アンスは察した。今付与された力をそのまま使わせてもらおう――。
加速した間合い。お互いが持つ魔力の無意識下での衝撃にエリーシアの鋭利な気の剣が一閃を覗かせる。眉間に剣の影を浮かばせたヨハネの顔を二つに分け断つ気で、両の手の剣を振り下ろした。
「……――……へ、え」
切り裂いたのは、
空気。
魔力。
先の髪。
そして、額。
ヨハネは己の額に触れると、生暖かい滑る体液を指に絡ませ人差し指と親指を擦り付けた。赤い己の血を感情を滲ませない目で見ると、その擦り合わせた指越しに地面に剣を突き刺した愚者を見て笑った。
「まだよ。ヨハネ……おまえがおまえで良かった」
エリーシアは既に半壊した傲慢の対である謙譲の像に左手を開いて向けた。
「――――主の御名を護れ!行くわ!」
半壊した像の鋭利な片割れよ。
悪に連なる少女の左手に抱かれて、宙を踊れ踊れ舞う様に。
謙譲の像の本質は、神に仕える王子の名。
偉大なる者だった天使よ。
その剣は今正に、神の身体を貫かん。
「罰当たり者が……っ‼」
「傲慢!斉唱!」
「――ええ。御随意に」
黒に連なる乙女に挟まれた使徒は、二人など視界の外に追いやって眠る遺体に駆け寄る。壊れた天使の剣が使徒よりも数歩早くその剣先を向け押し潰そうとしている。
傲慢を冠する女はその紅い唇を歪めた。頭上に迫り来る巨石を楽し気に眺めながら、自分はその祭壇から一歩ずつ遠ざかる。
そして、魔女が敷いた霧が風に舞い上がった。
「覆え覆え、太陽を月から遠ざけるように!月を太陽に近づけぬ様に!覆え覆え!」
黒い霧は二人の斉唱に影響されるかのようにうねりを一度上げると、細かい粒子と化して猛獣のように宙を巡り始めた。
アルピリはリアラ、アスティン、鏡子に向かって下がれと手で合図をする。
「――眠らないでくれてありがとう、使徒ヨハネ。……お陰で、勝負あったわ」
天使の剣が遺体へ触れる前に、ヨハネの身体が届いてしまう。
ヨハネは己が持つ剣で、何とかその威力を殺そうとしていた。重く、重く、厚く、熱い弔いの黒い手が遺体を攫うのをヨハネは寸前の力で食い止めている。
押す力と押し返す力。
斥力は互いに高まり合うが、一方が高まればその一方も高まり停滞の線は続いていく。
「まだ、まだ終わってはいないッ!!」
「無駄よ!ヘレル!」
ヨハネが震える腕に歯を噛み締めて、ヘレルを見た。視線の先の女は目を細めず笑うと霧により短剣と化したそれを胸に持ち、眠る遺体へと歩みを進める。
「っつ……この、悪魔が!」
「されど、このヘレルも陛下から生まれ落ちた身です」
見開く瞳から垂れる狂気に眠れる王が侵されてしまう。
「ぼくは、使徒。ぼくは、円卓の騎士!円卓を冠する以上、その伝説に劣りはしない!――う、ううおおお!」
顔に似つかぬ雄叫びが、彼の持つ剣に亀裂を走らせた。
エリーシアは勝負あったと再び叫ぶ代わりにその表情に油断の笑みを刻む。
爆風は黒霧を散らせながら砂埃を上げそれぞれの視界を塗りつぶした。聞こえる轟音と近づく意志を持った声にエリーシアの腕を誰かが引いた。
「――――か、はァッ……!」
半身引かれた彼女の喉元に、騎士ヨハネ本来の武器である漆黒の六尺棒があった。
半身届かなかった彼の胸元に、短剣の先が赤く煌いていた。
「ま、じょ……」
ずるりとエリーシアの身体が崩れ、それをアルピリが膝で食い止める。
ずるりと前のめりに倒れるヨハネの身体を背後から見下ろすリベカは、刺した体勢を何を想うのか数秒崩さないでいたが、息を一つようやく吐き出すと剣を霧へ還した。
「……終わったの?」
荒い息遣いが響く長く思えた時間の中、アスティンが近づき言う。アルピリに半ば抱えられるまま瞳をヨハネから離せなかったエリーシアは、生唾を呑み込むと掠れた声で言った。
「――ええ。終わったわ」
「――――まだ、終わって……ませんよ……」
皆が武器に手を掛けたが、エリーシアが手で制す。
なぜならば、ヨハネがエリーシアの足首を掴んだその手に全く力が入っていないのだ。哀れなほど、力が入っていない。
「守る……守る……ぼくは……そのための、円卓に……召し上げられて……」
じわじわと広がる赤い泉に、ヨハネは胸元を止血する様に抑えつけてふらつきながら起き上がった――いや、こんなものを起き上がったと言っていいのか。
もはやエリーシア達には目もくれず。己を刺した魔女にも目もくれず。その使徒であり騎士は、眠れる主の元へと足を動かした。
「……天使よ……七つの……守護天使達……――陛下を……主を……御守り」
ヨハネは膝を付いた。
傷口に一度流し込まれた黒霧によって、ヨハネの視界は徐々に黒く染まっていく。
「――――エリーシア……へい、か……」
倒れ、動きを止めたヨハネにエリーシアは走り寄った。
うつ伏せに歩みを止めたヨハネの腕を己の肩に回し、エリーシアはその男の体躯を引きずる。耳元で微かに聞こえる呼吸の音に、エリーシアは一度喉を鳴らした。
「……もう、いいのよ」
屠られた王が眠る祭壇に寄りかかる様に目を閉じる騎士を見て、エリーシアはそう告げた。
もう引きずられない魂に手を当てて微笑むエリーシアの頬は、無理にあげたように見えるほど痛々しいが、震えただろうと思われた指先は一度も震えていない。
一度、エリーシアは祭壇の向こうの光を見た。その光は、彼女が繰り返し生まれる祭壇を七つの光で満たす為に外との境界を溶かしている。その光は今も変わらず七色に分かれ、眠る彼女の身体を包んでいた。そして――。
「お前も……驚いたでしょう。……だから、わたしを守ってくれたのね」
ヨハネをも、煌く光は包んでいる。
エリーシアはヨハネの頬に付く血をその指先で拭った。
一度指の腹で拭い、再び拭う。その騎士の思いを受け取る様に、その様に変えてしまった彼を憎む様に。
「――大儀であった。……使徒ヨハネよ」
次にエリーシアは、使徒ヨハネに触れず表情無いままに立ち上がり見下ろし告げた。
エリーシアは己の身体には一瞥もくれず、その際を通り虹の入江に消えていく。エリーシアに付き従う彼らもまた、彼女の背を追って入江に消えていく。
しかし、未だ使徒ヨハネの目前に立つ黒衣を纏ったフードの女は暫くヨハネの顔を膝を折り頬杖を付いて見た後、聖堂を振り返った。
二列に並ぶ大罪と祝福の像は、最早均衡を失った。
一つに光が灯れば、一つは死ぬ定め。だからこそ、それらはお互い眠る必要があったのだ。どちらも目覚めてはいけない。
黒衣の女は見える唇に月のように弧を描く。そして、消えた。
女王エリーシアの遺体が眠る聖堂に、一人の守護騎士がまた眠る。
女王の身体に触れさせぬよう、その身体が冷えぬよう。
その騎士は知り得ない。
己の主が、虹の入江に消えたことなど。
ほあ~~~~良かった無事終わりました……。
私が「ヨハネが倒せない」と絵師に愚痴った所、絵師が強いヨハネの落書き(と言えない)を描いていたのですが奪取に失敗しましたので何とかして奪取します。
そ!し!て!本日が、今年最後の更新となります~~書納め?と言うんですかね?
皆さま、良いお年をお迎えください――!そして来年もよろしくお願いします!来年……とそのまた来年には完結出来る様頑張ります。




