BYE-BYE
手の甲から、内側の手のひらにかけて。15針縫う怪我だった。
医者はひどく心配してくれた。
クロコは私の手に噛み付いたあと、なかなか離れてくれなかった。
鋭い歯を私の皮膚に食い込ませるだけでなく、
私の手を食い千切ろうとその歯を左右にすりあわせるように動かす。
私は必死になってクロコの口を顎を足ではさみ、左手で口をこじ開けた。
その後は覚えていない。
無我夢中で乃木さんの家の扉を叩いて中から出てきた乃木さんに救急車を呼んでもらったらしい。
私はパニックになって電話一つかけることさえできなかった。
乃木さんは私を詮索しなかった。
病院までついてきてくれて、その後
「お大事に」
とそれだけ言うと帰っていった。
私は医者から痛み止めの薬をもらい、一人家路についた。
どうしてクロコは私にかみついたんだろう。
そんな薄暗い気持ちが私の心を取り巻いた。
「ただいま」
部屋のドアを開けると、玄関にクロコがいた。
私とクロコは無言で見詰め合った。
もともとクロコは野生のワニなのだ。
いつまでもここにいることはできない。
そろそろ決断が必要だった。
潮時なのかもしれない。
先に口を開いたのはクロコだった。
「この家を出る」
そう一言だけ呟いた。
私は玄関にしゃがみこんでクロコとなるべく視線の高さを同じにした。
「どうして?」
聞き返す。
「理性が持たないんだ。野生のハンターとしての血が、
体の中で騒いでいる。」
その口調は深刻で重々しかった。
「今回は手だけですんだけど、次はそうとは限らない。
もしかしたら本当に食ってしまうかもしれない。
体が成長するにつれて抑制できなくなってきた。」
その目は、クロコがまだ手の平に収まるぐらい小さかったあの頃の、
あの鋭い目と同じものだった。
あの頃からクロコは野生のワニだった。
そして今も。
人と一緒に生活したって、クロコが野生のワニなのは変わらない。
クロコはいつか野生に戻らなければならなかった。
それが今なんだろう。
私はゆっくり頷いた。
「そうだね。クロコ、楽しかったよ。今まで。」
目が熱くなった。
視界がじわっと歪む。
声は震えていた。
「楽しかったよ。ありがとう」
一人暮らしの私の、一時の同居人、野生のハンタークロコ。
クロコは黒い目を細めて伏せた。
その目にはうっすらといつもはない透明の膜が見えた。
「俺も楽しかったよ」
涙はお互いに隠し合うものだ。
私は大きな茶色い旅行鞄にクロコを詰め込んだ。
クロコ自身の願いで、クロコの口には布がきつく巻いてある。
噛み付かないように自我を押さえるため、とクロコは言った。
家を出る時、隣室の乃木さんとばったり会った。
乃木さんは私の大きな旅行鞄をちらりと見て
「旅行ですか?」
と聞いてきた。
「はい。ちょっと近くの河原まで」
私は事実を言った。
乃木さんはそれ以上は聞いてこなかった。
「気を付けていってきて下さい。」
その優しい言葉に見送られて私はアパートを後にした。
私とクロコは今、河原で別れようとしていた。
私はクロコの口の布をとった。
「なぁ」
クロコは言った。
「この川は俺の故郷と繋がっているんだよな」
私はうん。と短く答えた。
クロコはその答えに満足そうに頷いた。
私とクロコは今、そう、まさに今、
この河原で別れようとしていた。
「忘れないよ。クロコ」
クロコはしばらくの間私を見つめていたが、
ゆっくりと水辺へとはっていった。
「ありがとう、クロコ!」
私は叫んだ。
クロコはその尻尾を一度、大きく振った。
夕暮れの河原に映る夕日の赤が、私達を包んでいた。
私の家の風呂は、一風変わっている。
多分、こんな風呂、どこの家にもないだろう。
私の右手には今もあの時の傷痕が残っている。
私は今夜も風呂のドアを勢いよく足で開ける。
浴槽の中でどんな出会いが待っているだろうか、楽しみにしながら。