【第28話】 幾星の夜を越えた氷晶の面影
遠くに、ひとつの灯し火が見えた。
それは凍てつく夜の海に浮かぶ灯台のように、寂しげに、けれど頑なに瞬き続けている。
そこは、波の音がかすかに響く、静謐な記憶の汀だった。
私は、引き延ばされた時間の底に沈むようにして、暗闇の中に膝を抱えて座っていた。
もう五年。
あるいは、もっと長い歳月が流れたのだろうか。
「いつか必ず戻るから」
という、あの人が残した最後の言葉だけを命綱にして、私はこの場所から一歩も動けずにいた。
友人たちは皆、口を揃えて言う。
「もう前を向きなさい」
「そんな不確かな約束に、あなたの若さを捧げるのは間違っている」と。
分かっている。
正論の刃はいつだって正しく、だからこそ私の心を容赦なく切り裂く。
けれど、あの人を待つことを止めてしまったら、あの人と過ごした眩しい日々のすべてが最初から存在しなかった嘘になってしまう気がして、私はどうしても「諦める」という選択肢を選ぶことができなかった。
私は必死に、あの人が最後に贈ってくれたカシミアのストールを強く握り締め、指先を白く強張らせていた。
「……忘れたくない。忘れられるわけがない」
足元で小さく揺れる、青白い灯し火をじっと見つめる。
その光は、かつて二人で並んで見上げた冬の夜空の輝きに酷似していた。
つのる寒さの中、ひとつのポケットの中で重ね合わせた手の温もり。
今となっては胸を焦がす痛烈な毒でしかないのに、私はその記憶の残像から、どうしても目を逸らすことができない。
「無理に手折ろうとせずとも、その蕾は美しく咲いたまま、そこに在るのですよ」
不意に、すぐ隣から、さざ波のように穏やかで、深く染み渡るような声が聞こえた。
驚いて顔を上げると、そこにはいつの間にか、銀色の長い髪を夜風に遊ばせた青年が座っていた。
彼の背後には、幾千の夜を凍てつかせた星の破片を織り込んだかのような、鋭えるほどに美しい氷晶の重なりがあった。
冷たく澄んだ光を放つその硬質な輪郭は、雑音の絶えた静寂の中で、ただ一枚の完成された肖像画のように静止していた。
「これは愚かな執着です。進むことも退くこともできず、ただ幽霊のように過去を彷徨っているだけの、みっともない未練なんです」
私が自嘲気味に、堰を切ったように言葉を吐き捨てると、彼は慈愛に満ちた眼差しを私に向け、背中の翼をかすかに震わせた。
「執着、未練……。人々はそれを後ろ向きな言葉で片付けたがりますが、私にはそうは思えません。届かない場所にいる相手を想い続ける痛みが消えないのは、きみの愛が、今もなお純粋に生き続けている証拠なのです」
彼はそう言って、大いなる翼を優雅に広げ、私と、足元で今にも消えそうに明滅していた小さな灯し火を、ふわりと包み込んだ。
翼の内側は、驚くほど温かかった。
冬の凍てつく寒さに晒されていた私の身体が、芯から解きほぐされていくような、どこか懐かしく、そして切ない花の香りが鼻腔をくすぐる。
「戻らない背中を追いかける自分を、恥じることもない。私と一緒にただ、深く呼吸をしましょう。そしてあなたの孤独の半分を私が背負いましょう」
温かな翼の檻の中で、私はようやく、ストールを握り締めていた指先の力を抜くことができた。
消そうと願うほどに私を苦しめていたあの人の面影が、青年の柔らかい羽毛に触れ、安らぎを得たかのように穏やかな瞬きへと変わっていくのを感じた。
「……待っていても、いいの? 戻らないかもしれない人を、まだ愛したままで、明日を迎えてもいいの?」
「ええ、構いませんとも。その消えない灯火こそが、誰にも汚されることのない、きみだけの純潔な物語なのですから。忘れられない自分を、どうか許してあげてください」
青年の翼から溢れる静かな光が、私の頬を濡らした涙を優しく照らし、銀色の粒子となって周囲に舞い散る。
私は、膝の上でそっと両手を広げた。
あの人を待つという重荷を、手放したわけではない。
ただ、それを自分を傷つける刃として抱き締めるのを止め、大切な宝物として、心の最も深い場所にそっと置くことにしたのだ。
それだけで、胸を圧迫していた苦しさが嘘のように消え、呼吸が驚くほど楽になった。
青年の銀色の髪が、そして白い翼の羽根が数枚、名残り惜しそうに散り、明滅する灯し火と混じり合って、目の前に小さな銀河のような美しい光景を描き出していく。
その光の渦に包まれながら、私の意識は深い眠りへと誘われていった。
……。
枕元で震えだしたスマートフォンの冷たい振動が、浅い微睡みの底から、私を静かに押し上げた。
私は重い身体を起こし、冷え切った朝の空気を肌に感じながら、白く濁った冬の光が差し込む寝室を見回す。
いつもの見慣れた、一人暮しの部屋。
あの人の写真が飾られた棚。
けれど、胸の奥の感覚は、昨日までとは明らかに違っていた。
あの人を待ち続けるという「想い」は、相変わらずそこに、鎮座している。
今日という一日を始める思考の隙間で、やはり胸はきゅっと痛むし、二度と戻らないかもしれない温もりが愛おしくてたまらなくなる。
けれど、今朝の私は、その痛みを「早く消し去るべき悪」だとは思わなかった。
「いいよ。まだ、あの人を好きでいて」
呪いのように私を縛り続けていたはずの言葉が、今はもう、耳の奥で優しく響くだけだった。
世間の「普通」に合わせようと無理をして、自分の本当の気持ちを否定し続けていた私の心を、根底から救ってくれた。
化粧水を肌に馴染ませ、丁寧にメイクを施していく。
手放せない過去があるからこそ、あの人を愛し抜いた自分がいるからこそ、私は今、ここに美しく立っていられるのだ。
クローゼットから、お気に入りのコートを取り出す。
あの人が置いていったストールは、今日は巻かない。
代わりに、綺麗に畳んで引き出しの奥へと仕舞った。
捨てるためではない。
私の一部として、大切に保管するためだ。
消えない光を胸に抱いたまま、昨日と変わらない、けれどほんの少しだけ色彩を取り戻した冬の街へと歩みを進める。
駅へと向かう道すがら、冷たい木枯らしが頬を撫だる。
周囲を見渡せば、足早に駅へと向かう、無表情な通勤客たちが溢れている。
けれど、その一人一人の内側にも、きっと私と同じように、人知れず明滅する灯し火や、誰にも言えない執着があるのだろう。
そう考えると、この世界の孤独すらも、どこか愛おしく思えてくるから不思議だ。
「孤独の半分を背負う」と言ってくれた彼の約束が、満員電車の雑踏の中で、私の折れそうな心を静かに支えてくれている。
私は今日も、あの人を待ちながら、消えない愛とともに生きていく。
第28話(完)




