五十 白いの、月下に舞う
追儺はいつの間にか、御殿の屋根の上にいた。
口の中でなにごとかをささめきながら竜笛へ馬手をかざせば、指先の過ぎ行く傍から、竜笛であったものは、一張の塗籠竹弓へと化してゆく。己が白髪を引き抜いて七尺三寸の弦となし、また引き抜いては矢を拵えて、紅の目で眼下を見やる。
下では、手下の南蛮鬼に切り合いを任せて見物を決め込む風間甚蔵を追い、雅寿丸が御殿の脇を進んでいるところであった。
今に始まったことではなかったが、この雅寿丸という鎌鼬、周りに些かも頓着しないものだから、四方から一斉にかかってこられると防ぎきれずに手傷を負う。手を拱いているのは良心が咎めるので、雅寿丸が不利な場面には矢をつがえ、眼下の小物を射た。
「助勢ありがとうな」
意外にも気づいていた雅寿丸の笑顔に、追儺は弓弭から弦を外しつつ、物しげに応じた。
「ぬしが話しかけるから、見つかってしまったじゃないか。面倒臭い」
こういうときばかり実に手際のよい南蛮鬼らは、梯子をかけて次々と御殿の屋根へ登り、狩衣姿のぐるりを取り囲んだ。手に手に赤錆びた異国の山刀を持った、血染め頭巾の一群である。
「俺は聞いた、こいつ荒事は苦手らしいぞ」
「おいらも聞いた。見るからに弱そうだもんな、やっちまおうぜ」
手柄を立てる皮算用でもしたのか、元々品のない顔に下卑た笑みまで浮かべるものだから始末に負えぬ。追儺は久々に、禿げ狸の慶吾より汚らしいものを見た気がした。
確かに追儺、ただの二枚目ではなく、つっ転ばしとまで呼ばれるほどの優男振りである。見くびられるのに慣れてはいたが、納得したわけではない。
「胸の悪くなる臭いがすると思ったら、ぬしら耳に膿でも詰まっているのかい。まろは野蛮なことが好きではないと言ったのだけれど。苦手などとは、ひと言も言っていないよ」
白い顔へあからさまに浮かんだ青筋は、男の機嫌を如実に語る。色を損じたまま、そして優雅な佇まいのまま、追儺は弓を繰り出した。弓弭が寸分の狂いもなく小鬼の眉間へめり込み、声を上げる暇も与えず絶命させる。
同胞が箸にも棒にもかからぬまま倒されたのを目の当たりにし、血染め頭巾らはけたたましく歯を鳴らした。流れから察するに憤っているのであろうが、あまりにも狂気じみた騒ぎようであるため、喜んでいるように見えなくもない。
小鬼の一匹が、鶏の断末魔めいた声を発しながら、追儺へ鋭く迫った。腐った血の色の頭巾を目深にかぶり、ただでさえ低い背をさらに丸め、錆びついた山刀を突き出す。単身で切り込んできた小鬼は勝ち誇った表情で口の端に唾を溜めたまま、目を血走らせて言う。
「油断したな。この間合いなら、矢を射ることも弓で打つこともできまい」
血染め頭巾と、月の光さえもが贔屓したかのように闇夜でなお白く輝く雅男との距離は、一間と少し。小鬼のいうことは、なるほど一理あるかと思いきや――
「見苦しい」
と眉をひそめてただひと言。馬手に持った二本の矢をただ前に突き出せば、それぞれの矢尻は小鬼の右目と胸へ突き立った。
「先に言っておくべきだったよ。まろはなにより、汚いものが嫌い」わずかに上向いて中天を見やる。「まろの目はぬしらのごとき薄汚いものを見るためにあるのではない。ただ、月のみを愛でるためにあるのだよ」
「そんなに嫌なら、目ェつぶってお相手してくれてもいいんだぜ」
青人の一人が、おくびもろともそう囃す。
白月追儺の、ただ嫌悪にのみ彩られていた面へ、妖艶とも見える笑みが差した。
「ふうん。瞑目した白月狐とやり合いたいなど、正気の沙汰とは思えないな」
御殿の屋根に行灯があるわけでもあるまいに、淡く赤に輝いていた双眸が閉ざされると、それが気まぐれな風に吹き消されたかに思える。白い髪に白い肌、白い狩衣に薄墨の指貫、黒漆の浅沓。彩りといえば、襟と身頃の脇からわずか、薄色が覗くのみである。
ひどく不吉ななにかを感じるより早く、小鬼らは息の根を止められた。
眠っているかのような顔つきの白月狐は、弓幹で打ち据え、末弭本弭で交互に突き、たちどころに小鬼三匹を屋根瓦へ沈めたのである。
目を閉ざしたことで元々聡い耳がより研ぎ澄まされ、追儺は目で見るより多くを知り得るのである。背後であろうと頭上であろうと区別はない。止めようのない鼓動は、南蛮鬼どもの位置を寸分の狂いもなく伝えてくれる。どうあっても殺しきれるものではない呼吸は、追儺にかかれば、いつ仕掛けるのかを大音声で触れ回っているに等しい。
「こいつは後回しだ」
首領格と思しき血染め頭巾が黄色い乱杭歯を剥き出しつつ顔を歪めて言うと、ほかの小鬼どももそれに従った。格の違いを見せつけられ、逃ぐを余儀なくされた南蛮鬼らであったが、ついに追儺のこめかみから青筋を絶えさせなかったのは、いっそ天晴れといえよう。




