四十 三匹、深淵に臨む
かかか……かか……かかかか……。
風の立てる音か、はたまた物の怪の発する声か。前足を器用に操って慶吾が障子を開けると、中庭の向こう、漆喰の壁の上、昨夜とまったく同じ場所に、三毛猫の花江がいた。
その様子というのがどうもおかしい。耳を引き、眦を吊り上げ、全身の毛を針金のように逆立てている。のみならず、体の至るところから絶えることなく青白い電光を発しては身に纏いつかせているのである。
かか……かか……かかか……。
「これはよくない。魔道に落ちかかっている」
白狐が顔つきを険しくし、手立てを講じようと身構えた。大鼬は二本足で立ち上がり、禿狸も腰を浮かす。
縁側と壁の上とで、赤と金の目が鋭くぶつかる。追儺も退かぬが、花江も怯まない。手がつけられなくなる前に仕留めるが上策か、と追儺が挑みかかろうとしたとき。
「待て、追儺」剣呑な様子の追儺と禍々しい妖気を纏った花江、両者の間に割って入った雅寿丸が叫ぶ。「ここはおれに任せろ。魔道になど落とさせはしない。そんなことは断じてさせん」
花江の目が妖しく輝き、縁側の三匹を睨めつけた。しゃあと息を吐いたかと思うと、口が耳まで裂け、鋭い爪が瓦を掻き削る耳障りな音が響いた。
「殺してやる、殺し、殺して、殺して殺して殺してやるぞ……殺す殺す」
地獄の悪鬼も尻をまくって逃げ出さんばかりの、凄まじい形相である。腸がのた打ち回ってひり出したかのような声で鳴き、両前足の爪を一寸にも伸ばして花江は飛んだ。蹲った体勢から一挙動で跳躍し、中庭を飛び越えたのである。目で追える速さではなかった。
まるで短筒の弾丸さながらに襲い来る花江を、雅寿丸がかわせるはずもない。板間へと引き倒され、ひっくり返った鼬の長い胴に三毛猫がのしかかるという形になった。
「雅寿丸ッ」
「よしな」たまらず駆け出して助けに入ろうとした狸を、狐が押し留める。「花江は今、ここと魔道の紙一重にいる。いや、ほとんどあちら側か。よけいな手出しをすればすぐにでも魔道に落ちるよ」
「忘れたんか、久兵衛が死んでおったところにもおったじゃろうが。見てみい、あん爪。小栞侯と通じて、留学団に娘を差し出した親兄弟の殺しを請け負っとったんじゃ」
「花江の思わくが何であれ、もはやどうにもならない。雅寿丸は、上手くすれば半殺しで助けられるかもしれないから、そのつもりで構えておいてくれよ」
返す言葉もなく、慶吾はうなだれた。そうしていると、元々みすぼらしい姿がいっそう無様になり、襤褸屑のようである。常ならば汚らしいだの禿狸だのと囃す追儺も、今は口をつぐんで成り行きを見守るほかなかった。
「花江、お花坊、聞いてくれ」首の両側に花江の鋭い爪を食い込ませたまま、それでも朗らかに笑んで雅寿丸は言う。「おれは鎌鼬だ。聞いたことくらいはあるだろう? 三匹つるんで人を転ばし、切りつけ、薬をつけて去ってゆく物の怪さ。元は三つ子の兄弟だったんだ」
さすがに少々苦しくなったか、雅寿丸は言葉を切った。熊の牙をもものともしない分厚い毛皮を裂き、長い爪が己の肉を求めて少しずつ沈んでゆくのが感じられる。
「それだけだと悪者に聞こえるかもしれんが、怪我人に薬を分けたり、男手のない家の手伝いをしたりして、村人たちとは上手くやっていた。だがある日、おれたちが村の守りを手薄にしたとき、どこからか他所の妖怪がやってきて、村人を何人も殺していった」
花江は血の凍るような唸り声を止めたが、代わりに爪へこもる力が多少強くなったように感じた。仰向けで両の前足を頭の両脇に掲げた格好のまま、雅寿丸はさらに続けた。
「お花坊は、親父さんの死に様を見て怒っているんだろう?」
ついに花江の爪の先が毛皮を突き破ったので、さすがの大鼬も「いてて」とうめく。
「村人たちはみな、あんな殺され方をしていた。爪でか牙でか知らんが、人の体がまるで切り身みたいにされていてなあ。真っ二つになって散らされた死体の中には、どの足がどの胴体のものやらわからんものもたくさんあった」
一間ほどの距離を開けてことの成り行きを見守る追儺と慶吾。落ち着かなげにちぎれた短い尾を振り、狸が狐を振り返って見た。意、得たりと狐が頷く。
「たまたま留守にしていて生き残った村人は、おれたちの仕業だと思った。鎌鼬であるおれには、なんの言い訳もできなかった。震え上がっておれを遠巻きにする、わずかな村人たちを見て、その日のうちに村を出ることにした」雅寿丸の目前には、猫の細い牙がちらついた。「一人でだ。二人の弟は、村人の殺しとはべつの理由で亡くなった。殺しがあった日、上の弟が、手習いのころから思いを寄せていた娘のところへ行って、そこで娘の骸を見つけた。おれたち鼬は元々能天気な性分で、滅多なことでは怒ったり恨んだりはしない。だがあいつ――吉勝丸という上の弟はその場で、止める間もなく魔道に落ちた。見境をなくし、おれと下の弟まで殺そうとしたんだ」
今まさに起きようとしていることが、以前雅寿丸の目の前で起きたのである。
「下の弟――楽喜丸は、おれと吉勝丸の間に割り入った。おれがおろおろしている間に、二人は相討ちになって死んだ。寝間に転がっている、おれの刀が見えるか?」
右の前足を少しだけ動かして、雅寿丸は愛刀を示して見せる。聞く耳持たぬかと見えた花江はしかし、無慈悲に細らせた瞳をわずかに、雅寿丸が示す方へと向けた。
「あれがおれの弟たち、吉勝楽喜丸だ。おれたちを村へ遣わした神さんに頼み、鎌鼬……構え太刀の言霊で刀にしてもらって、今も一緒にいる。なぁ、花江。怒りや悲しみの気持ちが湧き上がるのは当たり前のことだよな、それを無くせとは言わん。だが、囚われてはだめだ。己を失ってはその先がないぞ。亡くした人を弔うことも、残された人を守ることも、なにもできなくなる」
首を締めつけていた力が次第に緩むのが、雅寿丸にはわかった。
「今までずっとこの家を守ってきたんだろう? 子分の猫どもまで引き連れて。男手がなくなっちまった今、おまえが守ってやらなくて、誰がおかみとお雪坊を守ってやれる」
離れて見守る二匹にも、花江の殺気が霧散したのが感じられた。
「親父さん殺しの下手人は、おれの追っていた下手人でもある。おれが必ず落とし前をつけさせる。お雪坊もきっと助け出す。だから、おまえまで魔道に落ちて、おかみとお雪坊を悲しませないでくれ。おれの味わったあの遣る瀬無さを、あの二人に味わわせないでくれ。頼む」
金とも緑ともつかぬ色の目で、花江は雅寿丸の黒い目を、ずいぶんと長いこと覗き込んでいた。やがて何をきっかけにしたか、軽やかに身を翻して雅寿丸から離れると、そのまま姿をくらました。
長い体を大儀そうに操って身を起こし、ようやく起き上がることができた雅寿丸は、宙返りをして人の姿となり、大きく息をついた。
「なんとかなったが、もう少しあちら寄りだったらと思うと、冷や汗が出るなあ」
「阿呆め、危なかったのはおんしの方じゃ。首から血が出とるぞ」
言われて首に手をやれば、嫌な手触りがする。手を見れば確かに鮮血で濡れていた。
「うはは! お花坊の爪はものすごい爪だな。おれの毛皮は頑丈で、ちっとやそっとのことではここまでならないはずなんだがなあ」
花江を恨むでもなく、雅寿丸は快活に笑い「たいしたものだ」と褒めるるのであった。
さて、人の姿へと変わった三人は寝間の一つに集まり、額を寄せ合った。
「こうなってはもう、四の五の言っていられない。まろが女に化けて城へゆくよ」
「おう、頼んだ」
目下最大の問題が解決を見て、雅寿丸は力強く頷く。追儺が首尾よく娘の居所さえ聞き出してくれれば、雅寿丸と慶吾ですぐ助けに走り、その日の夜には闇に乗じて討ち入ることができよう。それでは、と聞き出した娘の居所をいかにして伝達するかについて話し合おうとした時である。
「その役目」障子の外から、不意に女の声がする。「あたしにやらせてもらえませんか」




