57は、ひとりではない
§ 高校二年・六月 §
クラスで一番の美人に呼び止められた。
それだけなら、青春小説の導入として申し分なかったと思う。
「ねえ、佐伯くん。あなた、57が素数ではないと思っているでしょう?」
ただし、話題が致命的におかしかった。
「……思っているというか、素数じゃないよな?」
六月の放課後。
誰もいなくなりかけた教室で、御影冬華は俺の机の前に立っていた。
腰まで届く黒髪に、感情の読めない切れ長の目。
休み時間にはいつも一人で本を読んでおり、話しかけても必要最低限の返事しかしない。美人でミステリアスという、近寄りがたい人物になるための条件を一通り備えた女子生徒である。
当然、俺も彼女とまともに話したことはない。
なのに、なぜか57についての思想を見抜かれていた。
「今日の数学の授業で、先生が言っていたでしょう。『57は3で割り切れるから素数ではない』と」
「言ってたな」
「そのとき、あなたはうなずいていた」
「そりゃ、57は3かける19だから」
「やっぱり」
御影は俺を憐れむように目を細めた。
「数学教育の被害者なのね」
「待ってくれ。いきなり人を被害者にするな」
彼女は俺の抗議を無視し、一枚の紙を机に置いた。
大きな太字で、こう書かれている。
――警告。あなたがこれまで教わってきた数学は間違っています。
「なにこれ」
「57が素数であることを証明した論文よ」
「一行目から論文を名乗るには勇気がありすぎる」
読んでみる。
内容は、おおむね四つの主張に分かれていた。
一つ。天才数学者グロタンディークは、57を素数の例として挙げた。
二つ。57は九九の表に登場しない。
三つ。53、59、61という素数に囲まれている。
四つ。57を構成する3と19は、どちらも素数である。
ゆえに57は、世界で最も美しく高貴な素数である。
「論文を名乗る怪文書だ、これ」
「反論できる?」
「できるよ。全部に」
「そう」
御影の口元が、わずかに持ち上がった。
笑ったところを初めて見た。
「では、ディベートをしましょう」
「なぜ?」
「57の名誉を守るためよ」
「57本人は、自分が合成数であることを受け入れていると思うぞ」
「数字の声が聞こえるの?」
「そっちが先に名誉とか言いだしたんだろ」
御影は黒板の前へ移動すると、チョークで大きく線を引いた。
左側に「素数」、右側に「合成数」と書く。
「私が素数派。佐伯くんが合成数派。相手を納得させた方が勝ち。負けた方は、飲み物を一本おごる」
「最初から結論が出ている題材でディベートになるのか?」
「怖いの?」
「その安い挑発に乗ってやる」
べつに、クラス一の美少女ともう少し話をしてみたかったわけではない。
文系として、詭弁を放置できなかっただけである。
「まず、グロタンディークの証言について」
御影は黒板の左側に「権威」と書いた。
「二十世紀を代表する天才数学者が、57を素数の例に挙げた。数学史に名を残す天才と、一介の高校生。どちらの発言を信じるべきかは明白よ」
「権威が事実を決めるわけじゃない。どれだけ偉い人間でも間違えることはある」
「凡人には、間違いに見えているだけかもしれない」
「文学には、『信頼できない語り手』というものがある」
俺は黒板の右側に「発言者≠真実」と書いた。
「物語の語り手が、つねに正しいことを話すとは限らない。勘違いもするし、嘘もつく。ましてこれは、講義中の雑談か、本当にあったかも怪しい逸話だろ。証明にはならない」
「天才の言葉より、自分の計算を信じると?」
「数学のいいところは、誰が言ったかを気にしなくていいところだ。総理大臣が言おうが、三歳児が言おうが、3かける19は57になる」
「では、その掛け算が正しいという証拠は?」
「十九を三回足してみろ。57になる」
「私たちが同じ57を見ている保証は?」
「急に認識論へ逃げるな」
御影は悔しがるどころか、楽しそうに二つ目の論点を書いた。
「57は、九九の表に存在しない」
「それは九九が九かける九までしかないからだ」
「57は、我々の日常的な掛け算の世界において、誰とも組にならない孤高の数字なのよ」
「3かける19で組になってるだろ」
「十九の段なんて、小学校では習わない」
「学校で習わないものは存在しないのか? じゃあ、教科書に載っていない漢字は全部この世から消滅するぞ」
「少なくとも、小学生の世界には存在しないわ」
「だとしたら、それは57の性質じゃない。九九の表の都合だ」
俺は右側に「表の範囲外」と書き加えた。
「地図に載っていないからって、その町が存在しないことにはならない。地図の方が狭いんだ」
「……文学的な言い方をするのね」
「一応、文系だからな」
「でも、素数らしいとは思うでしょう?」
「それは認める」
「認めるの?」
「57は、見た目だけならかなり素数っぽい。奇数だし、一の位は7。近くに53や59もいる。初対面で見破るのは難しい」
「でしょう?」
御影の目が輝いた。
「つまり、素数オーラは存在する」
「存在するのは、人間の思い込みだ」
「同じことよ」
「違うよ」
三つ目は、素数サンドイッチ理論だった。
「53、59、61。これほど強力な素数に囲まれているのに、57だけが合成数というのは不自然よ。周囲の素数の波動を受け、高次元では素数になっていると考えるべきだわ」
「図書室で推理小説に挟まれた国語辞典は、推理小説になるのか?」
「辞典の中に殺人事件が記述されている可能性はある」
「それでも辞典だ」
「分類とは、人間が便宜上作ったものにすぎないわ」
「とうとう数学の分類そのものを否定し始めたな」
俺は黒板に、53から61までの数字を書いた。
53、54、55、56、57、58、59、60、61。
「そもそも、恣意的に素数だけ抜き出して57を囲むな。両隣は56と58で、どっちも合成数だ」
「両隣が凡庸だからこそ、その中央に立つ57の孤高さが際立つのよ」
「都合よく解釈するなあ」
「人間は、都合よく解釈する生き物でしょう?」
その言葉だけ、妙に静かだった。
俺は御影を見る。
彼女はすでに、いつもの無表情へ戻っていた。
「最後よ。3と19は、どちらも素数」
黒板に、3×19=57と書かれる。
「57は純粋な素数同士から生まれた数字よ。素数の遺伝子しか持っていないものが、不純な合成数になるはずがない。むしろ単なる素数を超えた、純血のスーパー素数と呼ぶべきだわ」
「その言い方だと、ほとんどの合成数がスーパー素数になるぞ」
「素因数分解できるものは、すべて素数の血を引いているもの」
「合成数の国を丸ごと侵略する気か」
「既存の素数概念から解放してあげるのよ」
「余計なお世話だろうなあ」
俺はチョークを受け取り、57の下に線を引いた。
「たしかに57は、3と19という二つの素数からできている。でも、だからこそ素数じゃない。1と自分自身以外の約数を持つ数を合成数と呼ぶ。その定義を守るなら、議論の余地はない」
「定義を変えれば?」
「57を素数と呼ぶことはできる。でも、それは言葉の意味を入れ替えただけだ」
「言葉の意味は、時代とともに変化するわ」
「自然に変わることと、自分の主張を通すために変えることは別だ」
「文学は、もっと自由なものだと思っていた」
「自由だよ。だからこそ、何をどう変えたかは読者に伝えなきゃいけない。共通の意味を捨てたら、議論じゃなくて独り言になる」
御影が黙った。
窓から差し込む夕日が、彼女の横顔を赤く染めている。
少し言いすぎただろうか。
そう思ったとき、御影がぽつりと言った。
「素数は、綺麗だと思わない?」
「まあ、気持ちはわかる」
「1と自分自身以外では割り切れない。誰にも分解されず、何にも依存しない。どれだけ調べても、最後まで自分のまま」
「孤独とも言えるけどな」
「孤高よ」
「似たようなものだろ」
「違うわ」
強い否定だった。
彼女は黒板の57を見つめている。
クラスで一番の美人。
誰とも群れず、誰にも媚びず、いつも一人で本を読んでいる、ミステリアスな女子生徒。
けれど、本当に一人でいたい人間が、こんな怪文書を作ってまで、話したこともない男子を呼び止めるだろうか。
「俺は、57が合成数でよかったと思うけどな」
「なぜ?」
「素数っぽい顔をしているのに、じつは3と19で割り切れるから」
「見かけによらず、単純だと?」
「見かけによらず、誰かと関係を持てる」
御影がこちらを向いた。
「割り切れるって、悪いことみたいに言われがちだけどさ。考えてみれば、それだけ自分以外の数と繋がりを持っているってことだろ」
「こじつけね」
「君の素数サンドイッチ理論よりは筋が通ってる」
「数学的ではないわ」
「文系だからな」
「3と19は、57を分解してしまう」
「分解したって、57が消えるわけじゃない。3と19からできているとわかっても、57は57だ」
俺は黒板に書かれた式を指した。
「誰かと関わったからって、自分じゃなくなるわけじゃないだろ」
長い沈黙があった。
下校時刻を告げるチャイムが鳴る。
御影は黒板を見た。
素数派には、権威、九九、波動、純血。
合成数派には、発言者と真実の区別、表の限界、定義、そして3×19。
数学的な勝敗は、最初から決まっている。
「私の負けね」
御影はそう言って、鞄を手に取った。
「ずいぶん素直に認めるんだな」
「57が素数ではないことくらい、最初から知っているもの」
「おい」
「3の倍数の判定法も知っているわ。5+7は12。各桁の和が3の倍数だから、57も3の倍数」
「じゃあ、なんだったんだ、この時間は」
「ディベートよ」
「負けるとわかっている側を選んだのか?」
「その方が難しくて、面白いでしょう?」
彼女は例の怪文書を丁寧に折り畳み、鞄へ入れた。
「それに、佐伯くんがどこまで付き合ってくれるか、知りたかったから」
「俺を?」
「あなた、現代文の授業で言っていたでしょう。『明らかに間違った意見にも、その人がそれを語る理由はある』って」
「発言した覚えはあるけど」
「だから、3×19で話を終わらせないかもしれないと思ったの」
御影は先に教室を出ていく。
慌てて鞄を持ち、その背中を追った。
「待てよ。飲み物をおごる約束だろ」
「忘れていないわ」
「それと、一つ聞いていいか?」
「なに?」
「どうして57だったんだ?」
御影は足を止めた。
そして、ほんの少しだけ気まずそうに視線をそらす。
「グロタンディークの逸話を読んだとき、面白いと思ったの。それで、誰かと話してみたくなった」
「友達に話せばいいだろ」
「いないもの」
あまりにも平然と言うので、返事が遅れた。
「じゃあ、俺が最初?」
「ええ。記念すべき一人目ね」
御影は昇降口の自動販売機に百円玉を入れた。
「佐伯くん。コーヒーでいい?」
「できれば炭酸」
「意外ね。文学少年はブラックコーヒーを飲むものだと思っていた」
「偏見だ。それに、文学少年でもない」
「いつも一人で本を読んでいるでしょう?」
「それは君もだろ」
「私は、ミステリアスな美少女だから」
「自分で言うのか」
「クラスのみんながそう呼んでいるのを知っているだけよ」
無表情のまま、御影は炭酸飲料のボタンを押した。
落ちてきた缶を俺へ渡す。
「次の議題を考えてあるの」
「まだやるのか?」
「0.999……は、本当に1と等しいのか」
「等しいよ」
「私は等しくない側を担当するわ」
「また負ける側じゃないか」
「今度は負けない」
御影が、わずかに笑う。
「明日の放課後、時間はある?」
57は素数ではない。
1と自分自身のほかに、3と19という約数を持っている。
その事実は、どんな権威や直感や美的調和を持ち出しても変わらない。
「あるよ」
そしてたぶん、合成数であることは、57にとってそれほど悪いことでもない。
少なくとも俺は、この日初めてそれを知った。
誰かと割り切れるというのは、案外、悪くない。




