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第45話 南朝の征夷大将軍

☆ 南朝の征夷大将軍 ☆


 影は薄いですが、南朝にも征夷大将軍はいます。建武政権および南朝の征夷大将軍を就任順に並べると、護良親王、成良親王、興良親王、宗良親王、尹良親王の5人。ただし、最後の尹良親王は実在が曖昧ですが。('22/12/13)


 当初、宗良親王は征東将軍に任じられた後、1352年に関東に下った足利尊氏との対決に際して、征夷大将軍に任じられたとされる。こうして見ると何れも短期間。南朝の征夷大将軍は、鎌倉将軍や足利将軍のような常任職ではなく、本来の役割である戦地での臨時職だったんでしょうね。('22/12/15)


 そう考えると、護良親王の征夷大将軍解任も理解できる。鎌倉幕府と戦った親王に、過去に遡って征夷大将軍としての栄誉を与え、信貴山からの凱旋に花を添えるのが目的だったのでは。だから、戦が終わって凱旋したんだから、臨時職である征夷大将軍は終了ね!ということだったのかな。('22/12/15)



☆ 最初の征夷大将軍 護良親王 ☆


 護良親王がベスト20に入ってる! #日本を変えたスゴい征夷大将軍('22/07/04)


 個人的には護良親王の生きた世界も見てみたかった。どさくさに紛れて鎌倉を脱出すれば、朝廷が持明院と後醍醐帝ではなく、後醍醐帝と護良親王の二朝、いや三朝になっていたかも。('19/12/17)


 直義の元を脱出して北条時行と組み鎌倉占領。親王が生きてれば北畠親房が後ろ楯となり顕家合流ですね。こうなるとぐしゃぐしゃ。誰と誰がくっつくかも分からない。元々ぐしゃぐしゃな時代ですけどねぇ。('19/12/17)


 後醍醐天皇は護良親王の存在を恐れていたと思うんですよね。北畠親房や四条隆資もそれを望んでいただろうし。早い段階から排除を決めていたのではないかと……。('19/12/17)


 建武政権に翻弄された護良親王。もし帝に成れたとすれば、どういうケースだろうか……? やっぱ後醍醐帝が居る限り無理かな(泣)('20/09/03)


 見てみたいですね。親王が生きていて、一旦、南北朝になって、南朝が盛り返すどさくさの中で即位、みたいな感じで……面白い物語になるような気がします。('20/09/04)



☆ しかし、護良親王は天皇に成れない ☆


 後小松天皇は跡継ぎ問題に悩み、一休に皇位を譲りたいと言った俗説があるが、それはあり得ない。一旦、門跡(僧籍)に入った皇子は、例え還俗しても皇位には就けないという不文律がある。何でも有りの南北朝時代でさえ、ギリギリこのルールは守られてました。だから護良親王もOUTですね('22/02/04)



☆ 最後の征夷大将軍 尹良親王 ☆


 尹良ゆきよし親王は、征夷大将軍で新葉和歌集の撰者でもある宗良親王と井伊道政の娘重子との間に出来た子。それにしても、宗良53歳のときの子が跡継ぎとは何か不自然。兄たちが全て亡くなったからと思われるが、実は嫡孫なのかもしれない。('22/12/13)


 正儀が南朝帰参前の天授5年に長慶天皇から親王宣下を受け、正儀が南朝帰参後の元中3年に(後亀山天皇から??)征夷大将軍に任じられた模様。南北合一後は吉野に隠れ、駿河や信濃など各地を転戦し、最後は浪合で自害したという(享年60?)。('22/12/13)


 歴史学者たちは実在を否定的に見ているが、伊那谷から三河や遠江の国境では「ゆきよし様(尹良様?)」を祀る風習が多く残っており、完全に否定するのも難しそう。('22/12/13)

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