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レポート  作者: 篠森京夜
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「私の知り合いに男がいるのね。まあ私達と同じくらいの年の人間だと思ってよ。背は中くらい、顔はまあまあ……結構可愛い顔をしてるわ」

「……それは問題と関係があるの?」

「まあまあ、最後まで聞きなさいよ。ここまではただの前振り! 話の枕よ」

 チィムニは思わせ振りに人差し指を立てた。

「この前、私はその男と街中でばったり会ったの。時は二週間前、土砂降りの日の夕方よ」

 チィムニの話をまとめるとこうだった。繁華街をぶらぶらと歩いていたチィムニは、偶然その男と会ったらしい。男は自転車に乗って傘をさしていたが、奇妙なことに身体の半分以上がずぶ濡れだったそうだ。

「勿論、私は変に思ったわ。そいつ結構ぼんやりしてるんだけど、流石にそこまではバカじゃないと思ったしね。で、私は聞いたわけよ。どうしてそんなにずぶ濡れなのってね。そしてら、そいつ何て言ったと思う? 傘のない人がいたから自分の傘に入れてあげたんだって。でも、変だと思うでしょ? 普通、傘に人を入れたくらいでそこまでは濡れないわよね」

「大きい人だったんじゃないの?」

「まあ、それに近いわ。違うのは身体が大きかったんじゃなくて、車椅子に乗った人だったってことかな?」

 その男が傘を差しながら自転車に乗っていると、車椅子に乗った人が覆いも何もない橋の上を、何も雨避けになるものを持たずに移動しているのを見かけたらしい。それでその男は自分の持っていた傘を車椅子の人に差し出したというのだ。

「最初は自分も半分、傘に入ってたらしいんだけどね。ほら、やってみるとわかるけど、自転車押しながら傘を差すのって難しいし、お互いにうまく入れないよね。車椅子とは高さも違うしさ。それで最後にはその人に傘を渡して、しかもずっと横について歩いてたらしいわ。その人とは橋を渡りきったところの商店街で……アーケードあるじゃない、あそこで別れたらしいから、距離的にはそんなにないんだけどね。でも、ずぶ濡れになっちゃったってわけ」

 チィムニは首を傾げながら言った。

「それにしても……どうしてそんなことしたのかしらね?」

「自己満足じゃない? 人助けして目立ちたかったのよ」

 私はいつの間にか彼女の話に聞き入ってしまったことが腹立たしくて、そう答えた。それに実際にそうとしか思えなかった。

 しかしおかしなことに、チィムニは私の答えを聞いて笑い出した。

「やっぱり貴女に話して良かったわ、この話!」

「……どうして?」

「だって、同じこと言ったんだもの、そいつ。私がどうしてそんなことしたのって聞いたら、自己満足だって。こんなことは偽善に過ぎないってね」

「じゃあそれでいいじゃない」

 私は少し腹を立てた。ただ、少し疑問も湧いた。

「でも妙な話なのよ。自分じゃ自己満足だとか何とか言ってるくせに、やたらとその人のことを気にしているの。あの後、どうしてるだろ? とか、体が濡れてたけど大丈夫かな? とかさ。あのまま傘をあげれば良かったかな、なんてぶつぶつ言ってるのよ? それでも用事があって急いでたから仕方ないよな、なんて言ってるのが可愛いとこなんだけどね」

「馬鹿らしい」

 私は吐き捨てるように呟いた。

「それはただ単にその男が矛盾の多い分裂した精神構造を持っているだけじゃないの? そんな些細なことでそこまで考えるなんて時間と労力の無駄よ」

「そうね、そうかもしれない。そいつはとても不自由な人間よ。車椅子の人は肉体的に制限がかかっていたけど、そいつは精神的に多くの制限がかかっているの。何処か貴女と似てるわ」

「何処が?」

「何処だろうね」

 チィムニは一瞬、寂しそうな目をした。時折彼女はこのような顔をする。いつもの底抜けに明るい表情の奥から、もう一つの顔が覗くことがある。

「ねえ、アヤナ。考えるってことはやっぱり必要よ。それは厄介なことで何の得にもならないかもしれないけど、人間には考えるってことが必要なのよ。今度のことでも考えるべきことはあるわ。例えば……どうして、その男は自己満足と思いながらも他人を助けたのか。これは些細なことだけど奥の深い問題よ」

「何が言いたいの?」

 訊ねると、チィムニはいつもの調子を取り戻した。

「だから、人生には哲学が必要だってことよ! 人間は自然を離れ、退化して多くのものを失ったわ。だからこそ哲学が必要なの。自分の頭で考えるってことが必要なのよ」


 チィムニとの話はそこで終わった。私は予備校に行き、チィムニは帰宅した。

 この日の会話は彼女と私の間で為された幾つもの会話の一つに過ぎない。彼女の話は多くの人には理解できないものだったし、その一部は私にも理解できないものだった。

 その後の進路調査で、私は生物学科を志望した。チィムニに言われたからではない。医者は他人と接する機会が多く面倒だと思ったのだ。

 私は比較的新しい私立大学に合格した。そして当時はまだ無名の助教授だったカジワラと出会い、人工生命の話を聞かされることになる。似たような研究がアメリカで既に行われており、カジワラはこれに影響を受けて新たなプランを思いついたのだ。私は彼の研究を助けるという形で、プランの具体的な形を決めていくことになる。

 それは私が生まれて始めて行った、一から何かを組み立てる作業であり、初めて見つけた目的だった。多くの人の助力とアイディア、そして幸運の結果、プランは成功し……私は一人の研究者としての人生を歩むことになった。

 このことが私に与えた影響は大きい。私の自己は成長し、アサギから吸収した知識と技術を応用して、通常の対人関係にも積極性を出すことができるようになった。

 そこに至るきっかけを与えたのは、チィムニの問いかけであったのかもしれない。

 チィムニはギリギリの単位数で高校を卒業した後、美術の専門学校に進学した。やがて専門学校を中退して単身海外に渡り、気鋭の新人アーティストとして華々しいデビューを飾った。

 やはり、彼女はこの国に収まる大きさの人間ではなかったのだろう。おそらく彼女は天才と呼ばれる者の一人に違いない。普通の人間には見えないものを見透かし、聞こえないものを聞いた。彼女が私に問いかけたことは、彼女自身が抱いていた疑問であったのかもしれない。そして彼女は、私の中にも自分と同じ疑問があることを見抜いた。

 私自身も気づいていない疑問がいずれ表面化し、私を捕らえるのを予測して、あの質問を投げかけた……そんな気さえする。

 もっとも、彼女が何処まで自覚的だったのかはわからない。ただ多くのもの感じ取り、行動に移してしまえることが、彼女の天性であったように思う。

 そう。

 彼女は今……。


 夢はいつしか覚めるもの。

 私は再び二十五歳の世界へと投げ出された。

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