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雨が降っていた。素足の裏に濡れたアスファルトの感触がある。硝子の破片でも踏みつけたのか、酷く切っているようだが痛みは感じなかった。前髪の先端から雫が落ちる。気温は下がり霧が出てきている。視界が悪い。
ふと足元がぐらついた。小石が落ちる音がする。
霞がかった意識を足元に向け、私は凍りついた。
そこには裂け目が広がっていた。
断裂は限りなく垂直に大地を抉っていた。霧のせいもあるだろうが、以前と同様底まで見通すことはできず、ただ澱んだ闇が顔を覗かせている。
対岸は霧に覆われて全く見えず、白い闇が何処までも広がっている印象を与えた。
引き返さなければ、と私は思った。
このままでは転落してしまう。
だが、私の足は動かなかった。視線を逸らすことさえできない。私は魅入られたように裂け目に潜む闇を見つめ続けた。
……このまま落ちてしまえば楽かもしれない。
そんな考えが当たり前のように浮かび上がった。
死んでしまえばすべてが楽になる。
そう考えた。
最初から無理があったのだ。私はこの世界で生きていくべき人間ではなかった。チィムニは言った、人間は動物から退化したと。おそらくはそうだろう。人間は人間となることで自然界から追放された。過剰に発達した神経伝達回路から生じた文化という名の錯覚は、人間自らを破滅の道に追いやろうとしている。何が進化なものか。猿でも知っている自然のバランスを崩し、単細胞生物並に繁殖を繰り返すだけじゃないか。
私はその人間の中でも極めつけの欠陥種だ。人間の社会に溶け込むこともできず、人間から身を離すこともできない。常に何かを求め、何も得ることはない。
私は人間の欠陥種だ。
死を選べ。
そうすれば人間という種も少しはましになるというものではないだろうか?
欠陥種など不要だ。
大人しく死を選べ。
私はぼんやりと闇を見つめた。死という名の闇を。
闇はさっきよりも穏やかに見えた。
暗黒の上を白い霧が漂っていく。
それはとても美しい光景。
何かを心底美しいと思ったのは初めてかもしれない。
今まで繋がっていなかった回路が繋がり、感覚が研ぎ澄まされたかのようだ。
私は嬉しかった。
これで最後なのだ。これくらいの愉しみが残されていてもいいだろう。
私の心は一片の澱みもなく澄みきり、奇妙なことに朗らかな気分さえ感じていた。こんなに何もかもから解き放たれたような気分になったのは初めてだ。何だか幸せ過ぎて恐い気がする。
妙な話だ。幸せを感じれば、そのことが気に触るなんて。
これで最後なのだ。
もう何も悩むことなどない。
私は自分を受け入れてくれるものを感じた。
壁のように聳え立つ巨大な闇の中に温もりを感じた。
この温もりには覚えがある。ずっと昔、この温もりが私を包んでくれていた。
私はこれまでずっと、この温もりを追い求めていたのかもしれない。
私はこの温もりを知っている。
全てはこの底にあるのだ。
お父さん……もう少し待っていてね。
傍らで長い髪が揺れた。視線を向けなくとも誰がいるのかわかった。
「また貴女なの」
『つれないわね』
女が言った。
「こんな所にまで出てこないで」
『仕方ないわ。私は貴女と一緒に闇を眺めてきたんだから。今までも、これからもね』
「これからはないわ」
『そう?』
女が微笑んだのが感じ取れた。
「何故、貴女は私を止めるの? 私が生きていて何の意味があるの? 私が生きることに何の価値があると言うの?」
『意味なんかないわ』
女が言った。
『貴女の大切な人が言っていたように、人生に意味なんかない。ただ、それでも生きなければならないだけよ』
「どうして?」
『……もう、わかっているはずよ』
不意に女の存在が消えた。私は辺りを見回し、女が何処に消えたのかと探した。
その時、私の目に空が映った。当たり前の光景。世界。……私が生きてきた世界。雲の隙間から一筋の陽光が射し込み、雨に濡れた坂道を輝かせた。
私は気づいた。
この世界は綺麗だと。
もしかすると、繋がった回路がまだ機能しているのかもしれない。
私は生まれて初めて出会うような気持ちで世界を眺めた。それは平凡な光景なのかもしれない。だが、全てが輝いて見えた。
二、三歩先に携帯電話が落ちていた。どうしてこんなところに落ちているのだろう?
そうか、蜘蛛に投げつけようとして手に持ったままここまで来たんだ。
携帯電話。
あれがあれば、研究室に電話をかけることができる。
私はもう一度だけ人間の世界と繋がりたいと望んだ。
許されるかはわからない。それでももう一度、誰かと話がしたかった。
私は震える足を引きずって屈み、携帯電話に手を伸ばした。
闇が動いた。
私が手を伸ばした瞬間、背後で闇が動いた。振り向いた私が見たものは、襲い来る闇の姿だった。闇は蜘蛛のように長い手を伸ばし、私を捕らえた。
足元の大地が崩れ、私は落ちてゆく。
永遠に続く、底無しの闇へと。
私は恐怖した。
このまま世界から切り離され、閉じ込められることを恐怖した。
救いを求めた。
そして、心の底から深く、誰かと繋がることを望んだ。
見えない手が私の体を包み込み、闇の淵から引き上げる。
首筋に触れる暖かな感触。
……私は彼を知っている。
END




