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レポート  作者: 篠森京夜
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「ここに来る前に仕事をしていたの」

 私は食事の手を止めて呟いた。

「……どんな仕事?」

「大学で色んなことを調べたりする仕事よ」

「ああ、アヤナってそんな感じだよね」

 驚いたようでもなくケンジは言った。

「アヤナ、頭がいいから絶対に科学者だって思ってた。ロボットとか、車とか作るの?」

「そういう方面じゃないんだけどね」

「ふ~ん」

 その時点で、私の話は彼の知識の範囲を越えたらしい。ケンジはそれ以上詳しいことは聞かなかった。

「それでね。私はその仕事が好きだったの。自分の実力を発揮できる仕事だったわ」

 言ってから、私は自分がどれほど研究を続けることで精神を安定させ、喜びを得ていたかを思い出した。

「だったら……続けなきゃ」

 ケンジは何気なくそう言った。

「好きなんだったら、戻って続けなくちゃ。それとも、何か戻れない理由でもあるの?」

「理由はないわ。私が勝手にいなくなっただけ。もう、皆は私のこと許してくれないかもしれない」

「それはわからないよ。会って話さなきゃ。そうしないと許してくれることだって許してくれないし、もしかしたら許してくれるかもしれないよ?」

「……そうは思わないわ」

「どうして?」

「きっと私が弱いからよ」

 私は自嘲気味に呟いた。

「そんなことないよ。そう思ってるのはアヤナだけだよ」

 ケンジの口調はいつになく強く、真摯な瞳がまっすぐに私を射る。

 その時、ラジオから流れる曲が変わり、ケンジの注意が逸れた。南方の民謡に似た旋律を奏でる美しい曲。ケンジは目を閉じて耳を傾け、そのまま聞き入っていた。

「ケンジ?」

 声をかけると、ケンジは忘れていたかのように私を見た。

「……ごめん。昔、聞いた曲に似てたんだ」

 ほとんど囁くような声で、ケンジは言った。

 そして彼は、急にこんなことを言い始めた。

「ねえ。ずっと前、オレがアヤナに聞いたことがあっただろ? ほら、自分が何のために生きているのかわからない……って」

「そう言えば、そんなことがあったわね」

「オレ……それからずっと考えてたんだ。自分が何の為に生まれてきて、何の為に生きているのかってね。で、オレは思うんだ」

「どう思うの?」

「多分、生きてることに理由とかはないってね」

 ケンジは何事もないようにそう言った。

「世界にはさ、色んな人がいるよ。お金をいっぱい持ちたい人とか、難しい学校に行きたい人とかさ。他の人を自分の好きなようにしたい人ってのもいっぱいいるね。威張って、怒ってさあ、色々と命令して自分の好きなようにしたいって人がね。……親方とかもそんな人なんだよ。その割には変なとこで相手のことを気にして、いまいちうまくいってないみたいだけどね。それから、好きな人を探している人、仕事を探している人、今が楽しければそれでいいやって人もいるよね。みんな色々なものを欲しがってる……だから、それを一つの理由で言うのは無理だと思うんだ。……まあ、みんなは何かを探すために生きてるんだって言うことはできるかもしれないけどね。でも、そんな理由に意味があるって言えないと思うな」

「それは……人が生きるのは無意味だってこと?」

「違うよ」

 ケンジは両手を振って否定した。

「意味がないって言ったのは、それがまったく大切なことじゃないって言ってるんじゃないんだ。お金をいっぱい持ちたいっていうのはその人にとっては大切なことだし、お金があると色んなことができるから、それはオレにもわかるんだ。ただ、オレはそんなにお金なんか持ちたくないけどね。オレが言ってるのはさ、お金を持ちたいとか、みんなに命令したいってことは……なんて言うか人間の世界の中でしか通用しないんじゃないかなってことだよ」

 ケンジは更に続けた。

「お金とかってさ、動物にとっては何の意味もないじゃない。偉いか偉くないかってことも関係ないよね。群れのボスとかはいるけど、人間が欲しがる偉さってそういうのとは別みたいだし。それはみんな、人間の社会の中でしか通用しないことなんだよ。……多分、人間の世界には目に見えないけど、そういう空間があるんだよ。人と人が一緒にいると……なんて言うか、ゲームのルールみたいなものができるんだ。人間はそれを使って一緒に暮らしてるんだ。そのルールは大きな海みたいに、人間の世界全部に広がってるんだよ」

「ケンジが言っているのは、コミュニケーションの海……みたいなことなの?」

「その言葉はよくわからないけど、多分、そんな感じだよ。人間はその海に生きてるんだ。それで……人間は何の為に生きるのかってことだけどさ、オレはやっぱり幸せになる為に生きてるんだと思うな。でも、その幸せっていうのは、その海の範囲の中でしか見つけられないと思うんだ」

「……どう言うこと?」

「例えば……」

 ケンジはしばらく考えた後、話し始めた。

「例えば……オレがオムライスを食べたくなるとするじゃない。多分、牛とかの動物にこのことを話しても……勿論、話せるとしたらだよ? 多分、牛はその気持ちをわかってくれないと思うんだ。きっと、そこらへんの草を食えばいいじゃないって思うだろうね。世の中にはさ、信じられないけどオムライスが嫌いな人もいるから、その人もオレの気持ちはわかってくれないよね。でも、オレはお店に行って作ってもらったり、アヤナに作ってもらったりすると、とっても嬉しいんだ。他の人にはわかってもらえないかもしれないけど、オレはとっても嬉しいんだ。商店街とかコンビニに行って、欲しいものがある時って嬉しいよね。誰かは知らないけど皆の為に物を作って、用意してくれている人がいるって嬉しいよ。この世界に誰かオレとは別の人がいて……その人がいるからこそ、オレは好きなものが食べられるんだなって思うと、すごくその人に感謝したい気分になるんだ。オレはその人に幸せにしてもらっているんだなってね。……だから、オレも仕事を頑張るよ。自分のしたことが、誰かの幸せになるように、オレが家とかビルを造って、それが誰かの幸せになるんだったらすごくいいと思うよ。たとえ誰かが、オレのしてることには何の意味もないって思ってもね」

「そうね。その通りだわ」

 私は呆然と呟いた。論理の展開は無茶苦茶だし、使っている言葉の意味も正確ではないけれど、だけどケンジの出した答えは、私の心に深く響いた。

「素晴らしい……とても素晴らしい答えだと思うわ」


 ケンジは私の目を真っ直ぐに覗き込んで言った。

「だから、オレ……アヤナがここから出て行っても構わないよ」

 と。

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