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私達は帰路についた。
広場からアパートまではかなりの距離があると思っていたが、実際にはケンジが遠回りをしていただけだったらしい。来たときとは別の道を通って三回ほど交差点を曲がると、私達はアパートに続く坂道に出ることができた。こんなに近かったの、と呟くと、ケンジの私の手を握り締める力がほんの少しだけ強くなった。
私はその指先から、抗議と照れ隠しの意志を感じ取り、不粋なことを言うのをやめた。
私達の結びつきはかつてないほどに強くなっている。そばにいて手を握っているだけで、こんなにも多くのことがわかる。彼の鼓動や筋肉の動き、唇から漏れる呼吸の音、風にそよぐ髪の動き、彼が何を感じ、何を伝えようとしているのか……。
薄い粘膜を擦り合わせ、汗みどろになって得られる安心感。これまで多くの者と交わり得てきた誰かと直に繋がっている感覚は、その場限りのものだった。だけど今、私達は確かに繋がっている。それはどんな快感よりも深く、穏やかなものだった。
誰かと心を通わせることは、昔の私にとって恐怖以外の何物でもなかったはずだ。心の中のものを曝け出すことは、一番弱いところを傷つけられること。そう思っていた。私は誰も信用せず、誰も愛さなかった。そして何より自分自身が嫌いだった。
あの頃から私はどのくらい変わったのだろう? 過去と現在とでそれほど大きな違いがあるとも思えないが、理解したことはある。それは自分が取るに足りない存在だということ……この身体も知識も隠し通してきた感情も、何も特別なものではないということ。
私もごく一般の、ありふれた人間の女だということだ。
かつて祖母との別れを経て手に入れた、私は化け物だという概念は既にない。私が人間であるならば、これまで疑問に思っていたすべてのことを割り切ることができる。くだらないと思っていた人間の営みを行うことができる。人間の生活や文化にどれだけの価値があるかはわからない。それは後の世の人間か、絶対的な第三者の評価によってしか定めることはできないだろう。
しかし、意味はある。人間が人間と共に生きていくということには意味がある。どんなに馬鹿らしく思えても続けることには意味がある。
何故なら、人間に幸せを与えることができるのは人間だけなのだから。
人間が人間としての幸福を得ることができるのは、人間社会の中だけなのだから。
「くだらない」
私は呟いた。
「何が?」
ケンジが訊ねた。
「ううん。全てには意味があるんだなって言ったのよ」
私はケンジの腕にもたれかかった。
「変なの」
ケンジは軽く私の体を支えた。
私達の前にはなだらかな坂道が続いている。剥き出しの砂利で覆われ、太陽の光を一杯に浴びて輝いている。私達は坂道を歩いていく。
アパートに向かって。
私達の家に向かって。
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夕陽の残照が消え失せ、暗い海のように闇が押し寄せた。私達の部屋には明かりがつき、いつもの生活が営まれた。
私は軽くかけ声をかけて手首を返した。黄色い卵がフライパンの上で翻り、赤いケチャップライスを包む。今日のオムライスは上出来だ。今までに作った中では一番だろう。私は満足した。ただ、昨日も今日もオムライスを食べるというのは、栄養学的にどうなのだろう? 野菜は多く入っているが、もう一品、何か作るべきではないだろうか。そんなことを考えていると、部屋の中にノイズの混じった音楽が流れた。
「ラジオ、直ったのね」
一週間程前、ケンジは壊れたラジオを拾ってきた。理由は特にないようだ。彼は時々唐突な行動を取る。拾ってきた時はしばらくいじくり回していたが、それからは部屋の隅に転がっていた。それが今、テーブルの上で、途切れ途切れに音を出している。
「うん……触ってたら、なんか直った」
自分でも戸惑ったようにケンジが呟いた。キョトンとした顔で私を見ている。
「いいことじゃない」
やがて周波が完全に一致したのか、ラジオは途切れることなく音楽を流し始めた。
「ここまで電波は流れているのね」
食事の途中、久しぶりに聴く音楽に耳を傾けながら私は呟いた。
「そりゃそうだよ。駅についたらコンビニだってあるもの」
ケンジがオムライスを平らげながら答えた。
「そんなにかからないよ。一度、アヤナも行けばいいのに。便利だよ?」
考えてみれば、ここはベッドタウンの一つとして作られた場所なのだ。テレビもつくし、携帯電話だって繋がる。電気もガスも水道も通っている。階下の管理人夫婦だって、週に一度は駅の辺りまで買い出しに行っているのだ。
「アヤナはここを無人島みたいに思ってるんじゃない? ほら、海賊船長がいるような所」
ケンジは自分で直したラジオにも興味を示したようではなく、オムライスを食べることに集中していた。
ここは無人島ではない。以前に暮らしていた街からも決して遠くはない場所なのだ。そして、私がここに来てから一ヶ月しか経っていない。私はまだ、今まで属していた人間社会との繋がりが完全に断たれたわけではないことに気がついた。




