49
「……え?」
私の肩を強く抱いて、ケンジはもう一度言った。
「アヤナは……時々、オレと一緒にいるときに別の人の名前を呼ぶね。オレと同じ名前だけど、別の人だ」
太陽が強く照りつけているはずなのに、急激に体温が下がっていく。
「な、何のこと……?」
「嘘をついてもダメだよ。アヤナは頭いいけど、嘘をつくのはヘタだね。すぐに表情が変わる」
「そ、そんなこと、ないわ」
更に体が冷たくなるのを感じた。結びついた肉体は完全に切り離され、拠り所を失った身体は前のめりに倒れて水底に両手をつく。
そんな私をもう一度抱き締めて、ケンジは囁いた。
「わかるんだよ。なんとなく……ね」
「ケンジ、私は」
「わかるんだ、なんとなく。言葉にするのは苦手だからうまくできないけど、アヤナが感じてることとか……すっごく苦しんでるってこととか……どうして僕のところに来たのかとか、どうして僕なんかと暮らしてくれてるかってこともさ」
「……わかるのね」
「うん」
「わかってたんだ」
「うん」
ケンジは微笑んだ。
「今までアヤナみたいに僕のこと、気にしてくれた人はいなかったしね。どうしてかなって思うじゃない?」
ケンジは小さく肩をすくめた。それはいつもの子供っぽい仕草ではなく、とても大人びた……多くの辛い悲しみを背負ってきた者のそれに見えた。
私は理解した。何故、私がこれほどまでにケンジに惹かれるのかを。彼といるときだけは他の人間から受けるような違和感を覚えない理由を。それは彼が自分と同じ、傷ついた人間だから。私と同じく人間の社会に馴染むことができない者だからなのだと。
「貴方との生活は本当に楽しかった。こんなに楽しくて嬉しかったのは生まれて初めてだって思うくらいに。私は貴方を必要に思ってる。でも私は」
「アヤナはどうしてここに来たの?」
私の言葉を遮り、ケンジが訊ねる。
「……とても大切な人がいたの。その人は私の心の中で、とても大きな場所を占めてたわ」
「失ったんだね」
ケンジは静かな声で呟いた。
「そう」
片手で水をすくう。
「彼はとても多くの人に愛されていた。沢山の人に、多くのものを与えられる人だった。彼がいた証はその人達のものよ。私が持っているのはほんのわずかな思い出だけ。でも、それさえも段々と消えていくわ」
手のひらの水は光を受けて、輝きながら消えていった。
「彼の姿や彼の声、手の温もり……それらは確かに私の中に在って、私が苦しいときには支えてくれたの。でも今は、それが本当に在ったものなのかわからない。あの時、私と彼が同じ場所に存在したという事実にすら確信が持てないわ」
「オレも昔、大切な人がいなくなったよ。だから、アヤナの気持ちがわかるよ。……まあ、アヤナと僕とはさ、別の人間だからカンペキってわけにはいかないけどさ」
ケンジは私の手を握った。
「オレさ……アヤナと違って馬鹿だし、何もよくわからないけどさ。こう思うよ。オレは確かに自分がここにいるって。それでオレはアヤナの手を握ってる。オレは確かにアヤナがここにいると思う。手も握れるし、話もできる。頭が悪いから時々、アヤナの言ってることとかわからないけど、それでもアヤナと話したり、一緒に寝たりすることはできる。だから、オレはアヤナが確かにいると思う。ってことは、アヤナはやっぱりここにいるんだよ」
ケンジは真剣な表情で語りかけてきた。
「昔……大好きだった人がいなくなっちゃったんだ。その時、オレもすごく哀しかった。どうしていいのかわからなくなって、なんか、自分が本当にいるのかわからなくなったんだ。オレ、馬鹿だから、自分がいるのかどうかもわからなくなっちゃったんだって思ったよ。……それからずっとそんな感じがしてたんだ。自分がどこにいるのかわからない感じがしてた。みんなはオレが本当に馬鹿になったって言ったし、本当にわからなくなったんだ」
ケンジは今にも泣き出しそうな瞳で私を見つめた。
「でも、アヤナと会えて、今まで暮らして……すっごく楽しかった。あの人がいた頃と同じくらいに楽しかった。アヤナといるときは本当に自分がいるってわかるんだ。あの人がいたときと同じくらいにわかるんだ。だから」
ケンジは言った。
「だから、アヤナは自分がいないなんて言わないでよ。アヤナがいないってことは、オレもいないってことになっちゃうよ。だから、そんな哀しいこと言わないでよ。アヤナは今、ここにいるよ。オレにはわかるんだ」
ケンジは私の手を自分の頬に寄せ、そのままじっと動かなかった。
ただ……彼の目から流れる暖かな涙だけは、私の手を伝って流れ続けた。
その時、私の胸を満たした感情が何だったのかは表現しがたい。
私は彼を抱き締めていた。それは相手の存在を腕の中に抱き留める為のもの。私は自分自身の快楽を求めなかった。例え、ケンジの体が燃えさかる炎の塊でも、凍てつく氷の刃でも構わなかっただろう。私がその時目的としたのは、ケンジを抱き締めること。炎よりも激しく、氷よりも硬く、それでいて酷く脆い彼の存在を抱き締めることだった。
「大丈夫。大丈夫よ、ケンジ。私はここにいる。私はここにいるわ。ケンジ、貴方が望むなら、望んでくれるなら、私はずっと貴方の側にいるわ」
「本当に?」
腕の中でケンジが呟いた。
「本当よ」
私はしっかりとケンジを抱き締めた。
奇妙な話だ。本当に誰かを必要としているのは私の方なのに。
ケンジがいないと生きていけないのは私の方なのに。
私は今までにない強さでケンジを抱き締めた。
ケンジは私の胸に唇を寄せた。軽い痛みを伴って彼が私の胸を吸う。
痛み。それは私がここに存在する証拠。私が誰かと繋がっている確かな証拠だ。
太陽は天頂を少し過ぎた所にあった。夏の空の遥かな高みから、太陽は私達の世界を見下ろしている。構うことはない。私はここにいる。嘲笑うなら嘲笑うがいい。私はここにいる。今も地上に縛りつけられ、這いつくばり、つまらない感情に囚われ、苦しんでいる。空へと舞い上がる翼もなく、全てから自由になれず、流されることもできない。だが、私はここにいる。
私は生きている。




