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マンションの立ち並ぶ街角を曲がった途端、急に視界が開けて緑が現れた。
そこは先程よりも大きな広場で、石畳で鋪装された空間の中央には人工の池が設けられている。噴水は動力を断たれ、湛えられた水は時折吹く風に揺れるばかり。しかしそれらは、その場を支配する違和感の前ではほんの些細なものに過ぎなかった。
敷き詰められた石畳は池を越えた辺りで完全に途切れ、その先の地面は雑草の生い茂る砂地に姿を変える。広場の周囲を取り巻く建造物も同様に、石畳が途切れる辺りで消え失せていた。
そう、この広場は池を越えた辺りから、全くの荒野なのだ。
「吃驚した?」
嬉しそうな声でケンジが言った。
「これは……一体、どういうわけ?」
正直、私は戸惑っていた。
「えっとね、ここから先は別の会社がすることになってたんだ。で、その会社が遅れたんだよ。……わかる?」
ケンジの話を要約すると次のようになる。
このニュータウンの開発には幾つもの建設会社が関わっていたらしく、この広場がその分担区域の境界線だったのだそうだ。ケンジの働く下請け会社を含む建設会社らは予定通りに計画に着手したが、一社だけ、なかなか工事を始めなかったらしい。共同開発社と連絡を取らないままに作業を開始する辺り、いかにもこの国の企業らしいが……おそらくその会社は、この計画は頓挫すると見抜いていたのではないかと思う。工事が遅れているふりをしながら様子を伺い、そして実際に開発は中止になった。
「森が動かぬ限り、そなたは王でいられるだろう」
私はマグベスの魔女のように呟いた。
荒野の向こう側には手がつけられていない森がある。この無機的な景色の中、森は存在感に満ちていた。雑草や潅木の先兵を野に放ち、今まさに失われた領域を取り戻そうと進軍を始めたばかりだ。
天頂に差し掛かった太陽は南に広がる荒野の上にあり、名も知れぬ雑草や潅木の葉を美しく輝かせている。木々は黒々と覆い茂り、アスファルトで固められた細い水路が、列を成す敗残兵のように荒野を森へ向かって流れていた。
「ここは暑いね」
池のそばまで歩いてきた私は靴を脱ぎ、水面に揺らめく光の網目に足を滑り込ませた。一瞬、身の引き締まるような冷たさに襲われたが、しばらく我慢すると外気に触れない部分がほのかな暖かさに包まれた。
「ケンジも来ない?」
ワンピースの裾を持ち上げながら池の中を歩く。ケンジは頷くと、慌てて靴を脱ぎ始めた。そんなに急がなくてもいいのに。苦笑し、ふと水面に視線を向ける。そこには、もう一人の私の姿があった。
思ったより髪が伸びた。少し痩せただろうか。肌は不健康に白い。
外見的な変化は少ないが、少し前までインテリ顔をして研究所にいた女には見えない。随分と変わったものだ。そう思うと急に笑みが込み上げてきた。同時に、水面の女も口元に笑みを浮かべた。
その笑みは、悪夢の中で見たあの女の笑みにそっくりだった。
バシャバシャと水音がして、水面が乱れた。
次の瞬間、何か大きなものがぶつかってきて、私は水中に倒れ込んだ。
学生時代は水泳の時間は貧血だと口実をつけてよく休んでいた。水の中は嫌いだ。起き上がって咳き込み、顔にかかった髪を払うと、同じくびしょ濡れになったケンジが申し訳なさそうな顔をしていた。短い髪から雫が垂れ、うなだれた子犬のような瞳にかかる。
「ゴメン……アヤナ……驚かそうと思ったら滑っちゃって……」
ケンジは体を起こして座り込むと、上目遣いに私を見て、怒る? と訊ねた。
「怒ってるわよ」
わざと不機嫌そうな声で呟く。実際には彼の顔を見ているだけで笑い出しそうだった。
「ゴメン、アヤナ……」
「許さないわ」
私はケンジを手招きした。彼がびくびくしながら私に近づく。
「許さないわよ?」
手で水をすくって思いきりケンジにかける。彼は初めきょとんとしていたが、事態を把握すると笑いながら私に水をかけ返し始めた。
濡れた衣服は池の外に放り出され、夏の陽射しを浴びて乾くのを待っている。池の中の私達は、昼下がりの青空の下、一つになっていた。照りつける太陽の熱と、ゆっくりと伝わってくる彼の体温。私は自分の内側に彼を感じ、自分を抱き締める確かな存在として彼を感じた。身体中の接触部分を通して、彼のすべてが私の中に流れ込んでくる。
「ケンジ……」
彼の肌に身を寄せながら、何度もその名を繰り返す。
彼の体温と感触だけが私の全てだ。
「アヤナは時々、違う人の名前を呼ぶね」
私を愛する動きを止めて、ケンジが呟いた。




