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私は彼に抱かれた。
私は貪るように彼の体を求め、快楽に溺れた。凍えきった体を熱湯に浸すような、痛みとも安堵ともとれない激しい快感の中で、私は絶頂を迎え、意識を失った。
目を覚ました時、私は自分の身体の隅々まで血が通っているのを感じた。虚無感が消えることはなかったが、随分と遠いことのように思える。傷ついた剥き晒しの肌を覆うように安堵の海が広がり、私はその波に揺られていた。
水面に漂いながらぼんやりと顔を上げると、こちらもぼんやりとした顔のケンジが微笑んでくれた。
「ありがとう」
「何に?」
「ケンジがここにいてくれること」
「ここはオレの家だよ?」
ケンジはそれから付け加えて言った。
「それにアヤナの家だ」
ケンジの大きな手が私の頬を撫でる。また涙が溢れ出た。
「ありがとう」
「…………何が?」
「何だろうね」
私は涙を拭った。
「この世界はわからないことが多すぎて嫌になるわ」
「うん。オレもよくわからないことばかりだよ」
ケンジは真顔で頷いた。
「オレって馬鹿だから……」
「私達は似たもの同士ってわけね」
「……そんなこと言われたのは初めてだ」
ケンジは驚いた顔で呟き、
「そうだこれ………買ってきたんだ」
思い出したように立ち上がると、玄関に放り出してあった荷物を持ってきた。私がいきなり飛びついたので、そこで落としてしまったらしい。
「ほら、これ……合ってるかどうか、わからないけど……」
ケンジが袋から取り出したのは、純白の美しいワンピースだった。短い袖と数個のボタンがついた、シンプルなロングのワンピース。天然の素材で縫製されているらしく、独特の暖かみがある。サイズを見てみると、丁度私に合うものだった。
それから驚いたことに、ケンジは袋から下着まで取り出した。
「それと、これ……一応買ってきたんだ。ワンピースが少し高かったから、安いもの買っちゃったんだけど……」
「ケンジが買ってきたの?」
訊ねると、ケンジは一瞬顔を引き攣らせた。
「うん……でも、大丈夫……だったよ」
「何が?」
「……うん」
ケンジは少し嫌そうな顔をした。女性の服、それも下着を買うことは、女慣れした男にとっても恥ずかしいことだ。ましてやそのような経験などあろうはずもない彼にとって、この買物はどれほど辛いものだっただろう。
「この服……私の為に買ってきてくれたの?」
「だって、アヤナの服、オレが破いちゃっただろう? だから、オレが買ってこなくちゃ。オレは何も恥ずかしくなんかないよ。……うん、何も恐くない」
ケンジは勢い良く頷いた。
「ありがとう……」
私はそれ以上、何も言えなかった。
「着てみるね」
パッケージを外し、下着から順に身につけてみる。驚いたことに、ケンジが用意した服はどれもあつらえたように私の体に合った。
「……凄い。ぴったりだ」
私は思わず呟いた。
「でも……どうして私のサイズがわかったの?」
「なんとなく」
ケンジは何事もなさそうに答えた。
「……なんとなく?」
「オレ……なんていうか、あんまりハカリとか使わなくてもわかるんだ」
「本当に?」
「本当だよ」
私が疑っていると思ったのか、それとも私の興味を引いたことが嬉しいのか、ケンジはいつもよりはっきりとした声で話し始めた。
「現場の木材とかでも他の奴がメジャーで計るよりも早くて正確なんだ。親方がうるさいから、一応、メジャーでも計るけどさ。えっと……例えば、アヤナは171から172㎝ぐらいの身長だよ。朝と夜で少し変わるんだ」
ケンジは私が大学の健康診断で計った通りの数値を言った。
「この部屋のここから、向こうまでは4m30㎝、天井までは3m15㎝だよ。ドアの高さは2m……この建物は古いけど、すごく上手な人が作ってるんだ。どの部屋もぴったり長さがあってるからね」
手を振りながら話していたケンジは、そこで我に返って私を見た。
「……ごめん。迷惑……だった?」
「そんなことない。凄いわ」
私は正直に感想を述べた。自閉症の子供は桁外れの感覚を持つという話を聞いたことがあるが、ケンジの能力はまさにそれだ。絶対音感という言葉があるが、彼のそれは絶対空感とでも言うべきだろうか。極めて高精度な空間把握能力。普通の人間には理解できない感覚だろうが、実際に目の辺りにすれば認めざるを得ない。
「本当に凄い能力だわ」
私が繰り返すと、ケンジは恥ずかしそうに頭を掻いた。
「そんなこと……言われたのは初めてだ」
「それは周りの人間が無理解な人達だったのよ」
「……そうかな?」
「そうよ」
「……そうなのかなあ」
ケンジは最後の言葉を本当に嬉しそうに呟いた。
「貴方は本当に素晴らしい人よ」
「そう?」
「間違いないわ」
「アヤナが言うと……何か本当っぽいね」
ケンジは微笑んだ。一片の曇りもない笑顔。
胸の奥が微かに痛む。
その痛みを誤魔化すように、私は腕を伸ばして彼を抱き寄せた。彼は子供のように私の胸に顔を埋めた。
……と、私のお腹が鳴った。
忘れていたが、ほとんど丸一日何も食べていない。流石に体が持たなくなったようだ。少し恥ずかしい。
「お腹……減ったね」
何故か私より狼狽しながらケンジが立ち上がった。
「大家さんから、食べ物を貰ったんだ」
ケンジは玄関に放り出されていたもう一つの袋を持ってきた。
「ほら。美味しそうだろ? でも、どうやって食べようか」
ケンジは貰ったものを袋から取り出して見せた。
「あ……魚だ」
私は呟いた。




