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彼がこの世にいないことは、絶対的な恐怖だった。存在しないことは恐怖だった。話しかけても、もう答えが返ってこないことは恐怖だった。
今までだって、私は彼の居場所を知っていたわけじゃない。だが、彼がこの星の何処かにいることは信じることができた。私が生き、彼も生きる。そうしていれば、いつか会えるかもしれないと思っていた。
事実私達は、本当に再会したのだ。
……だが、今は違う。
彼の存在はこの星にはない。あるのはただの残骸のみだ。
私に話しかけてくれたあの声はない。私を見つめてくれたあの瞳も今は存在しない。
確かに存在したはずのすべてのものはその輪郭を失い、闇の中に消え失せた。
彼はいない。いないのだ。
必死に彼の温もりを思い出そうとした。しかし、私の記憶は何かに蝕まれ、削り取られていく。
それは闇。闇は全てを蝕み、呑み込んでいく。後に残るのは空洞だ。私は自分の体の中にはっきりと闇の存在を確認することができた。
闇は、健児の形をしていた。
記憶の中に確かに存在したものが、今、世界に存在しないこと。
床にうずくまり、頭を押さえる。
乱れ散った髪が降り注ぐ水で流れ、全身に張りつく。
私は必死で目を瞑り、耳を閉ざした。
喉の奥を嫌な感覚が這い上がる。灰色の味をした不快な感覚。
吐き出してしまいたい。
でも、吐き出せない。
喉の奥が痛い。泣き叫べば楽になるのかもしれない。
でも、何を叫べばいいのだろう。
私には見当もつかなかった。
数時間後、私は部屋に倒れていた。絶対的な虚無感は薄まったが、私の中には何の気力も残されてはいなかった。こうして戻ってこられただけでも奇跡的だ。
私はシャワー室の床に倒れ、降り注ぐ水飛沫をずっと眺めていた。
いつか体が水に溶けて流れていくんじゃないかと思った。そうすれば私の体は下水管を通って川へと流れ、海に辿り着くだろう。魚にでも食べられれば、少しは有効に使われたことになる。私も少しは誰かの為に生きたと言えるだろう。今まで傷つけた多くの人に、ほんの僅かでもお詫びができる。そんなことを考えた。
実際、あのままじっとしていれば、本当に命に関わることになったに違いない。
だが、何かがそれを押し留めた。私はシャワーを止め、部屋に戻った。生き延びてしまったのだ。
あのまま流されてしまえば、どんなにか楽だったろうに。
手を伸ばし、布団を手繰り寄せて潜り込む。
蜘蛛の夢を見た。夢はいつもの何倍もの早さで繰り返され、私は真っ白な光の中、幾度となく地上に叩きつけられて目を覚ました。だが、身体は動かない。
私は再び眠りの中に引きずり込まれ、その度に夢を見た。
何時間が過ぎたのだろう。
辺りはすっかり暗くなっていた。夜空には星一つなく、伸ばした自分の手が本当に存在するのかもわからない。私は闇の中に取り込まれてしまったのかもしれない。
だとしたら、どうして意識はなくならないのだろう。何故、考えることは止まらないのだろう。
物心がついた頃から私と共にあり、この頭の中に存在し続けるものはどうしてなくならないのだろうか? この無意味な計算を続ける膨大なプログラムはいつまで機能し続けるのだろうか。こんなものがあるから悩まなければならないのだ。
考えるから迷うのだ。考えるから傷つくのだ。考えるから何もできないのだ。
私はいつの頃からかそう思うようになっていた。
だが、思考が消えてなくなることはなかった。これまでずっと。
これからもそうなのだろうか。この絶対的な闇の中で、思考だけは消えることなく在り続けるのだろうか。
私は闇の中に永遠に自分の意識だけが残り、漂っていくことを恐怖した。
…………誰か。
不意に闇の中にぼんやりと光る正方形のものが浮かび上がった。
心もとないほどに幽かだけれど、柔らかで暖かな光。それはやがて大きな光の裂け目となり、一気に押し広げられた。
「アヤナ……どうしたの?」
光の中に浮かび上がったケンジの影が驚いたように話しかけてきた。
知らず涙が溢れ出た。
涙が流れて止まらなかった。私は声にならない声を上げてケンジにしがみついた。彼の体温を確かめ、匂いを嗅いだ。抱き締め、彼の体を確認した。
「ど、どうしたの?」
さっきよりも戸惑った声でケンジが訊ねた。しがみつく私の身体を抱えながら中に入り、部屋の電気を点ける。
「抱いてよ。お願い。お願いだから抱いてよ」
私は子供のように彼にしがみつきながら呟いた。
「じゃないと、バラバラになってしまう」
「……うん」
ケンジは不思議そうな顔で私を見つめていたが、床に投げ出された布団の上に私を横たえると、そのまま覆い被さってきた。




