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レポート  作者: 篠森京夜
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 翌朝、私はケンジが布団を出る物音で目を覚ました。

「どうしたの?」

「仕事」

 服を着ながらケンジが答えた。

「どれくらいまで?」

「日が暮れるまで。現場だから」

「……そう」

 私は布団に横たわったまま呟いた。

「できるだけ早く帰るよ」

 時間がないのか、素っ気なくケンジは言った。余程朝早くから仕事を始めるのか、それとも仕事場が遠く離れているからなのか、周りはまだ夜と言っていい時間だった。

 夜明け前、世界が最も静まり返る時だ。

 私は体にシーツを巻きつけて布団から出た。

「仕事、頑張ってきてね」

 玄関で靴を履いている後ろ姿に声をかけると、ケンジは吃驚したようにこちらを見て、頷いた。

「うん。……頑張ってくる」

 彼は小さく微笑んで少し首を傾げた。私が近づくと、ケンジは私を抱き締めた。大きな手が体を探る。やがてケンジの手は探し物を見つけたように背中で止まり、唇は私にキスをした。

「……いってくるね」

「いってらっしゃい」

 ケンジは私から離れると、シーツを身に纏った私の姿を見つめて……照れたように笑って扉から出ていった。

 静寂が訪れた。

 暗く狭い部屋の中、私一人が取り残される。

 私はこれから何をするべきなのだろう?

 布団の中に戻り、考える。

 いつもだったらもっと遅くに起きて研究室に行くだろう。そしてサオリや他の研究員と会って、カジワラとも会うだろう。私は研究のことが気になった。ホムンクルスの事故はどうなっただろう? これからの研究はどうなるのだろうか? サオリは私のことを待ってはいないだろうか?

 ……いや、もう私には全て関係のないことだ。

 私はもう一度眠ろうと目を閉じたが、頭の中に火花が飛び散るような嫌な夢に起こされて、その後はよく眠れなかった。

 やがて、空が白みを帯び始めた。太陽は厚くたなびく雲を赤みがかった金色に染めながら、暗闇を群青に塗り変えようとしている。私は右手をかざして傷の存在を確かめた。不思議なことに、傷はすっかり癒えていた。跡形もなくなくなっている……妙な話だ。

 半年ほど前に、同じ場所に怪我をしたことがある。実験中に電極芯で手首を引っ掛けたのだ。確かあの時は随分と長く傷が残ったはず。まるで私の時間が狂って遡り、傷口が開いたかのようだ。

 私の時間は逆流しているのだろうか? ふと浮かんだ考えはあまりに非科学的で、私は間もなく自身で否定した。


 昨日もそうだったが、このアパートにはまるで物音がしなかった。ケンジの話から、彼以外には一階に大家の老人が住んでいるだけだとは知っていたが、今まで住んでいた街の騒がしさに慣れている私には、ここの静けさは却って落ち着かない。

 少し外の様子を探ってみようと思い立ち、私は服を着ていないことに思い当たった。昨日からずっとこのシーツを纏ったままだ。服はケンジが破いてしまった。代わりになるものを探したがケンジも衣服は殆ど持っておらず、しかも私に合うサイズのものはなかったので、結局私はそのままの格好で部屋を出ることにした。扉を開けるとすぐそこに木造の階段が見えた。かつては多くの人間が通ったのだろう、曲線を描くまでに擦り減った階段を、静かに降りる。

 一階は二階と大差ない構造だったが、部屋の扉が開けっ放しになっている二階とは異なり、各部屋の扉には鍵がかけられていた。端の部屋から微かに物音が聞こえる。どうやらテレビのニュース番組のようだ。淡々とした音の残骸と共に、微かな光の変化が、廊下に面した窓の曇り硝子を通して見えた。

 あそこに人が住んでいるのだろうか? 階段から足を踏み出そうとした時、急に端の部屋の扉が開いた。私が慌てて階段に身を隠すと、一組の老人と老女が出てきて、廊下をゆっくりと歩き出した。

 二人共足が悪いのか、お互いを支える形で一歩ずつ、ゆっくりと歩いていく。二人の丸まった背中と銀色の髪は、二人があまりに近づき、接している為に、私にはその境目を見つけることができなかった。

 私は老人達が外に出て行くのを見つめ、それから二階へと戻った。下に人間がいることがわかっただけでも十分だ。今はこれ以上、関わり合いになる必要はない。

 私はシャワーを浴びることにした。夜は暑かったし、身体は私と彼の体液でまみれ、中途半端に乾いている。

 シャワー室は二階の一室を工事関係者が改造したものだそうで、タイル張りの壁に数個のシャワーが取りつけられている。脱衣所も含めて仕切りがないのは使用するのが男ばかりだと設計者が思ったからだろうか。敷き詰められたタイルの淡い色使いも相まって、広々としていて開放的だ。

 シーツを脱ぎ捨て、シャワーの前に立つ。暫く待つと、気温より少し高い温度の湯が頭上から降り注いだ。髪を梳きながら薄く目を開けると、窓から射し込む光を反射して、水滴が煌めいているのが見えた。小さな荒削りのダイヤのように煌めきながら、私の全身を流れていく。

 さっき、下ではニュースをやっていた。

 私がいなくなったことを、誰かが騒いでいるだろうか? ……いや、一日や二日では、それほど騒いだりはしないだろう。家族がいるわけでもなし、そんなことがニュースになるわけがない。世の中にはもっと人の興味を引くことがある。

 例えば、自動車事故とか……。


 不用意だった。

 私はそのことについて無意識のうちに目を背け、考えないようにしていた。だが、私は今……妙な話だが、あれから二日たった今になって、初めて一つの事実を認識した。

 認識してしまったのだ。

 ……あの人が、もうこの世にいないことを。


 私はシャワー室の床にしがみつき、声にならない何かを吐き出した。

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