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アサギという男は精神的にはかなり貧弱で、才能も実力もない人間だったが、こと異性関係においては奇妙なほどの勘の良さを発揮した。彼にとって異性関係はゲームのようなものだ。ゲーム中での架空の経験値とパラメータ。それは異なる状況下では何の役にも立たないという点でゲームそのものだった。
私と出会った頃、彼はゲームをやり尽くした者が抱く特有の感情、あまりに卓抜し過ぎてしまった自らの技術に対する虚しさを覚えていたようだ。そこに、私という今までにない新たな攻略対象が現れた。
私と彼との関係は、恋愛と言うよりも、やはり知的なゲームに近かったように思う。アサギはあらゆる手段を用いて私の精神を探り、陥落させようとする。人間との関係を恐れる私がアサギとの関係を続けたのは、それらが全て『嘘』だとわかっていたからだ。
わかりきっている嘘は真実よりも心を傷つけない。アサギが私をゲームの攻略対象として見ていたように、私は常に一定の距離を保つことのできる相手として彼を認めた。私はアサギを観察しながらその手法を分析し、時折襲ってくるあの不安感を効率的に解消する手段としてアサギを必要とした。
私達が共に過ごした二年半、私の傍らには常にアサギがいたが、私の心の中にアサギが侵入することはただの一度としてなかった。私達はそんな関係だった。
……少なくとも、私にとっては。
アサギは私にとって非常に興味深い対象であり、数多の知識と技術を授かった師であり、また手強い敵でもあった。
彼から盗んだ技術を用いて彼自身の精神を探り、把握し、じわじわと陥落させてゆく。実に二年近くの歳月を費やしたその作業は困難を極め、私の技術を更なる高みへと導いた。後に初めてアサギ以外の人間に対して使用した時は、余りに呆気なく事が運んだので拍子抜けしたものだ。
私の人間観察は次第に当初の目的を離れ、趣味の領域へと移行していった。研究者が抱くように、人間の生態に対する学術的な愛情さえ持ち始めた。
私は大学時代、アルバイト先を含めて百人以上の人間と関係を持った。おおよそのタイプを判断し、話題や立ち振る舞いを相手に合わせれば、関係を持つことはそれほど困難ではない。私は生物学者のフィールドワークのように、日常的に多くのサンプルを集め、分類していった。
もっとも、このような作業は手間と時間がかかる割に得るものは少ない。サンプルの収集を始めてから一年も経たないうちに、私はおおよそ一般の男というものが似通った思考・行動原理を有していることを理解し、量よりも質へと切り替えることにした。
多数の標本を持て余した昆虫学者の心境といったところだろうか。
「今朝の朝食男はなかなか面白かったわね……もう少し観察を続けるべきだったかな」
私はメモ帳に走り書きをしながら呟いた。
いつもなら専用のノートに系統立てて分類するところだが、あいにく今は時間がない。今日は早めに教授の所に顔を出さなければ。
……と。
メモ帳を閉じ、顔を上げた視線の先に男が一人、憮然とした表情で立ち尽くしているのが見えた。この暑い時期にきちんと背広を着込んだ眼鏡の男だ。
「あら、教授。おはようございます」
「おはよう。花村くん」
私は当の教授に挨拶した。
男の名前はカジワラという。私が通う大学では最年少の教授で、まだ三十代初めのはず。歴史の浅い大学だからこその就任ではあるが、その知名度は高い。
一度は科学雑誌に『未来を代表する若き科学者』などと書かれていた。
なかなかに笑える。
「アヤナ。さっきの男は誰だ?」
カジワラは左の頬を摩りながら近づき、私の耳に口を近づけると口調を変えた。
「昨日知り合ったの。泊めただけよ」
「嘘だ」
「ええ、嘘よ」
私はカジワラの耳に囁き返した。
「本当は朝御飯をご馳走になったの」
「朝食を? ……食べたのか?」
変な質問。
「ええ。美味しかったわ」
「まったく」
カジワラは顔を離すと、小さな声で何事か呟いた。よく見てみれば、摩っている左の頬が赤黒く腫れ上がっている。
「近所の人達が噂してるぞ」
「何をですか?」
「毎朝十一時になると君の部屋から男が追い出されるってね」
「まあ」
「もう少し周りのことにも気を使いたまえ。君は大学の名前に傷をつけるつもりか?」
「すみません、低血圧なもので早くに起きられないんです。これからはもう少し早くに追い出すようにします」
「そういう問題じゃない」
カジワラは右のこめかみを痙攣させながら大きく息を吸い込み、長々と吐き出した。
「まったく、毎日朝になるのが憂鬱だよ。今日も君の部屋から見知らぬ男が出てくるんじゃないかと思うと……」
「毎日来るからですよ。私だって毎日男を連れ込んでるわけじゃないんですから」
カジワラは凄まじい目つきで私を睨みつけた。
口を開くか否かのタイミングで、こちらから打って出る。
「教授のお怒りももっともです。私も非常に反省しております」
「…………」
カジワラが言葉に詰まる。彼の弱点は神経質な割に何事も理性的に解決したがるところだ。だから自分が感情的になっても、相手の言葉は一応聞いてしまう。
「ですから、私共の関係も終わりに致しましょう」
「花村君?」
「私は大学を辞めさせていただきます。御貸しいただいたマンションも引き払って…」
「……それで、どうするつもりだ?」
勢いのない口調でカジワラが訊ねる。彼も私の次の台詞は予想がついているのだ。
「田舎に帰って、石鹸のセールスレディでも致します」
カジワラはもううんざりだと言わんばかりに手を振った。
「わかった。この話はこれで終わりだ」
『石鹸のセールスレディ』は私が反省をしたふりをする時に必ず使う言葉だ。特に意味はない。そして、私達はこの応答を数えきれないほど繰り返している。
「まったく、君は優秀な生徒だよ」
「お誉めいただきありがとうございます教授」
私は素直に微笑んだ。
「ところで、あの男は本当に朝食を作ったのか?」
「ええ、とっても上手だったわ」
「そんなタイプには見えなかったがな」
薄々感づきながらも、私はカジワラの頬が腫れている理由を訊ねた。
「さっき、あの男にビシッと一言文句を言ってやったんだよ。俺のアヤナに手を出すなってね。かっこいいだろ? そしたらアイツ、問答無用で殴りやがった」
また何事かぶつぶつと呟いているカジワラを横目に見ながら、実際は相当しつこく文句を言ったのではないかと私は想像した。
「ああいう筋肉だけで生きてる奴は軽蔑するね。まるで知性の欠片もない」
「どうでしょうね」
素っ気無く答えると、カジワラは急にニヤついて訊ねてきた。
「でも、ああいうタイプはベッドの中では凄いんだろうね?」
「…………」
「ゼミまでまだ時間がある。一緒に食事をしようか」
車道に停めてあった車を指し、乗って行くかと訊ねる。
私は拒否したところで無駄だとわかっていたので乗ることにした。そう言えばカジワラに研究の経過を報告しなければならないのだが、彼は運転席で延々と自分の知っている店の話を独り言のように続けている。
「世界一の昼食も頼むべきだったかしら」
私は車外に目をやりながら呟いた。