語り尽きることのない時間(とき)を※
“御前、失礼いたします。これにてお暇を”
退出の挨拶に訪れたロゼルとノエルを目にし、大人三名は等しく茶を吹きそうになった。
「っ……!?」
「あら! あらあら……まぁあ!」
「ロゼル……その、格好は?」
謁見の間ではない。
案内されたのは、ごく私的な友人を招いて寛ぐための皇室の居間だった。
皇王マルセルはひたすら下手なことを口走らぬよう、興味深そうに口許を押さえて。
皇妃雪花はなぜか、頬を染めて嬉しそうに。
夫妻の反対側のソファーで座していたミシェルは、脱力しつつ問うた。『答えは何となくわかる』と顔に書いてあったが。
ぽん、とロゼルの細い肩を抱いてにこにこと説明し始めたのは、他ならぬノエル皇子。
対するロゼルは複雑そうな面持ちとなった。
「私の、以前のものを。どうせ持っていても着ませんからあげました。どうです? 似合うでしょう」
「髪は? 切ってしまったの?」
――……気にするべきはそこなのか、と思いはしたが相手は皇妃。ロゼルは至極真面目な顔で答えた。
「いえ、元々短かったんです。昨日の朝、ちょっと思いつきで切ってしまいまして」
「まぁあ……ずいぶんと思いきったのね。なるほど、なるほど?」
「ですので」
肩から皇子の手をやんわりと外しつつ、ロゼルは紳士の礼をとった。由緒ある貴族にふさわしい立ち居振舞い。騎士見習いもかくやという凛々しさだった。
「大変ありがたいお話で、身に余る栄誉と存じますが。私は、一の臣として殿下にお仕えしたいのです。
誠心誠意、命の限り。次代のキーラ家の総力をもってレガートに尽くすと誓いましょう。お許しいただけるのならば」
「――許すよ。もちろん」
誰もが息を詰めて見守るなか。
誓いに耳を傾けるなかで、マルセルのみが柔らかい声音で応じた。
とても温かみのある笑みで。
(この方の……こういう空気。不敬だけれど流石だな。ノエルそっくりだ)
「顔をあげて、ロゼル嬢」と、促されて従う。
見回すと誰もが微笑んでいた。
ほんの少し痛ましげに見えるのは、ノエルを慮ってのことだろう。
当のノエルは飄々としているが。
「送り届けて来ます。破れてしまいましたが恋敵の元に。あいつの瞳の色をまとう彼女をそのまま返すのは、どうにも癪だったので」
……なるほど、そういう……――
「「!」」
妙に納得の色を漂わせた男装の令嬢に、皇王夫妻は今度こそ吹き出した。
* * *
四頭立てで嘶く白馬。
レガート皇室の紋が刻まれた車体が颯爽とキーラ家を発ってしばらく。ロゼルはむっつりと腕を組むイデアに睨まれていた。
解せない。首を傾げる。
「怒ってるの、先生?」
「怒ってません。ロゼル様」
「そう? とっても機嫌が悪いみたいだけど」
「機嫌……は、悪いです。本当に、なんて底意地の悪い殿下だ……」
チャ、と眼鏡を取り、天を仰いで目許を押さえる。そのまま俯き、力なく頭を振った。
一歩近寄る。人払いはしてある。当分ここには誰も来ない。
なにしろ邸の私室だ。服装の気楽さも相まって、ロゼルは自然体だった。
シンプルな立て襟の白シャツ。薄手だが保温性の高い毛織りのカーディガン。共布のショール。厚手で直線的なストレートパンツ。
短く、肩口で揺れる焦げ茶の巻き毛がよく似合っている。イデアにとっては――
「わっ!」
「まったく……、どうしてくれるんです?! 今朝のドレス姿を再び見られなかったのは残念です。非常に残念ですが、これはこれで」
「その、発言自体がものすごく残念なんだが……?」
「いいんです。僕は残念な男です。貴女が手に入るなら、底意地の悪い殿下に忠誠を誓うくらい何程のこともない。お安いものです」
「……残念な上に、不敬極まりないね?」
この際、皇王を前に去来した所感は綺麗さっぱり棚に上げる。
問答無用に閉じ込められた腕のなか。ぼそっと呟くと、髪に指を差し入れられた。
「残念で、不敬で失礼な男ですが……どうやら、受け入れてくださるのでしょう?」
――――求婚を。
ぞくり、と背に響く低音でささやきかける家庭教師に、ロゼルは耳が赤くなるのを感じた。
悔しいので返事はしない。
代わりに、目の前の銀縁眼鏡に手を伸ばす。
いとしい少女の攻撃(?)に、イデアはとっさに反応できなかった。
「ロゼ……ル、様?」
「むかつく。それに眼鏡、ずっと邪魔だった」
――怒ってる。不機嫌。まさにそんな表情で睨みあげる。
(さっきの。今まで全部の仕返しだよ、イデア先生)
右手で邪魔物を取り除いたまま、左手でかれの後頭部に手をかける。
みひらかれる水色の瞳に、ざまあみろと思った。
「――……」
声もなくロゼルからの口づけに甘んじるイデアは、おそらく彼女が思う以上のダメージを受けている。
肩を抱く手から力が抜けている。引き寄せられていた力も。
(やりすぎたかな)
そぅ……っと唇を離すと、閉じられていた灰茶色の睫毛がゆるゆると上げられた。かなり陶然としている。
ロゼルはムッとした。
大丈夫? と、声をかけようとしたら、逆に真剣に尋ねられた。
「いまのは……『答え』と、受けとって構いませんか?」
――――あぁうん、答え。答えね。
一秒か十秒。それとも一分弱ほど考えてしまったかもしれない。
それでもロゼルは微笑んだ。
いつもとは少し違う。ほどけるような、素直な笑みだった。
「しょうがないよ。貴方といるときが一番、私が私らしいと思える。……貴方の絵が好きだ。愛してる。熱烈に全部、自分のものにしたい」
「!!!!」
青年が瞬時に固まり、赤くなった。
こんなに見事な赤面を初めて見た。盛んに瞬きを繰り返したあと、「ちょ……すみません、あの。破壊力が」などと宣い、そっぽを向いてしまう。解せん。
でも。
ふ、とロゼルは笑みほころんだ。
今は届かない。まだまだ全然遠い。どんどん遠くなればいい。その分、必ずまた追いかけるから。
――以前、こっそり壁に描いた絵が視界に映る。わざわざ本当に掛けてある風景画の隣に、同じ額縁で囲んで描いたので違和感が全くない。良いだまし絵だと気に入っている。
『まさか、これを描かれるとは……本当にお好きなんですね? あの絵が』
と、遠方から帰国した教師に見せて、開口一番に言わせた。
(そう。好きなんだ)
大事なことは声に出せない。まだ言えない。
あの幼い日、目に焼き付けた翠の森の乙女と白馬。その細密画がそこにある。
たぶん、あの時からずっと。
「ね、先生」
「……はい」
打ちひしがれた声音に構うことなく、ロゼルは眼鏡を差し出した。にっこりと笑いかける。
「私はね、貴方を越えたいんだ。その上で手に入れたい。だから……教えてくれる? まだまだ、たくさんのことを」
「…………ッ!」
そうして瞳を伏せ。
眼鏡を装着していないこめかみに向け、そっと口づけた。
* * *
十九才の花嫁と、二十九歳の花婿が幸せそうに語らうそれは、五年前の思い出話。
これからもずっと、ずぅっと続くのだろう二人の追いかけ合いは、年齢だろうが身分だろうが、本人の言い張る腕前だろうが、ひらいた距離をなくすための大切な一時に繋がっている。
言えなかった言葉を少しずつ、伝えられるようになった少女。
女性となり、母となってなお男装は改めなかった、困った彼女の。
――――これは、大事な孵化の物語。
fin.




