第3話─予想外
夜の街は、静まり返っていた。
日中は多くの人々で賑わう大通りも、今では人影一つ見当たらない。
道の両脇には古びた石造りの建物が立ち並び、窓という窓には固く鎧戸が下ろされている。
通りを照らすのは、一定の間隔で設置された街灯だけだった。
硝子の覆いに収められた淡い光が石畳をぼんやりと浮かび上がらせ、その外側には、夜の闇が深く沈んでいる。
そんな街路を、一人の男が歩いていた。
俺である。
「今度こそ、とっ捕まえてやる」
独りでにそう呟く。
「もう、やり直すのは勘弁だ」
できることなら、これ以上痛い思いをしたくない。
だから、今夜で全てを終わらせてしまいたいのだが。
「確か、ここらへんで…………」
その時。
パチパチ┄┄と。
火の爆ぜる音が聞こえてきた。
街中の、それもこんな夜更けにも関わらず。
視線が、通りの奥へと向く。
そこに、誰かが立っていた。
街灯から少し離れた、建物と建物の間。夜の闇に半ば溶け込むようにして、一人の人物が佇んでいる。
何かを探している様子もなければ、どこかへ向かおうとしている様子もない。ただ、薄暗い路地の入口に立ち、俯いたままじっとしていた。
奇妙なことに、その人物の周囲だけが、ぼんやりと赤く照らされていた。街灯の光ではない。もっと別の何かが、光を放っているらしかった。
「おい、お前」
声をかけた。
返事はない。
「お前が、ここ最近王都を騒がせている魔術師だな」
すると、人影の肩がぴくりと動き、ゆっくりとこちらを振り返る。
「ああ……」
男は、ようやく声を発した。
「お巡りさん。夜分遅くに、どうも」
にこりと笑う。
近所の知り合いにでも出会ったかのような、気安い笑顔だった。
「…………」
俺は、会釈さえ返さない。
「それで、私が王都を騒がせている魔術師というのはどういう事でしょう」
「しらばっくれても無駄だ。調べはついている」
「…………」
「分かったら、大人しく投降しろ」
「…………」
男は、何も答えなかった。
先ほどまで浮かべていた人当たりのよさそうな笑みも、今ではすっかり消えている。ただ、何かを考え込むように僅かに首を傾げ、こちらの顔をじっと見つめていた。
俺は男の一挙手一投足に注意を払いながら、ゆっくりと距離を詰めていく。
相手は魔術師だ。
それも、既に何人もの人間を殺害している疑いのある、極めて危険な魔術師。普通の犯罪者を相手にするのとは、わけが違う。
何しろ、魔術師という連中は、何をきっかけに魔術を発動させるのか分かったものではないのだ。指を鳴らすだけで発動するものもあれば、視線を合わせただけで効果を発揮するものまで存在する。
だからこそ、迂闊に近づくべきではない。
……本来ならば。
しかし、今回ばかりは事情が違った。
俺は、この男が次に何をするのかを知っている。そのために、わざわざ今晩の巡回区域まで指定したのだから。
「もう一度言う。大人しく投降しろ」
俺は腰の装備に手を添えながら、男に告げた。
返事はない。
ただ、男の口元が僅かに動いたように見えた。
そして。
パチパチ──バチバチッ!
「…………っ」
不意に、火の爆ぜる音が大きくなった。
男の手元で揺らめいていた赤い光が、突如として勢いを増したのだ。その正体は、男が片手にぶら下げていた、人間の手首だった。
肘から先を失った、誰のものとも知れない人間の手。その表面を舐めるように燃えていた炎が、一瞬にして激しく燃え上がる。
皮膚が黒く変色し、肉が縮み、指先が不自然に折れ曲がった。次の瞬間には、骨も肉も区別がつかないほど真っ黒に炭化し、崩れ落ちた破片が石畳の上へと散らばっていく。
しかし、炎はそこで収まらなかった。
むしろ、燃やすものを失ったにも関わらず、その勢いは増す一方だった。男の手元から溢れ出した炎が、まるで生き物のように膨れ上がる。
路地の壁が赤く染まり、周囲の建物に不気味な影が浮かび上がった。街灯の淡い光など、もはや何の意味もなさない。
夜の街が、一瞬にして真昼のような明るさに包まれる。
「いやぁ、バレちゃあ仕方ありませんね」
そんな異常な光景の中心で、男は困ったように笑った。
まるで、子供に悪戯を見つかってしまった大人のような口振りで。
「お巡りさんにも、研究の協力者になってもらいましょう」
男が、こちらに手を向ける。
その瞬間。
ゴウッ!
凄まじい轟音と共に、炎が放たれた。
もはや火炎などという生易しいものではない。
赤々と燃え盛る炎の奔流が、狭い街路を埋め尽くすように押し寄せてくる。膨大な熱量によって空気が歪み、周囲の石壁が瞬く間に赤熱した。
視界のすべてが、赤く染まる。
そして、炎は俺の立っていた場所を、いとも容易く呑み込んだ。
轟音が、夜の街に響き渡る。
炎の勢いは凄まじく、石畳を焼き焦がしながら通りの奥まで駆け抜けていった。建物の壁面が熱でひび割れ、窓に嵌め込まれていた硝子が次々と砕け散る。
やがて、数秒ほどして。
炎が、ゆっくりと収まっていった。
「…………」
男は、何も言わずにその光景を眺めていた。
先ほどまで人間が立っていた場所には、もはや何も残っていない。
黒く焦げついた石畳。熱によって変色した建物の壁。そして、地面のあちらこちらに散らばった、硝子の結晶にも似た半透明の物質。
それらは、あまりにも高温の炎によって石畳の表面が溶融し、再び固まったものだった。
男はしばらく焼け跡を眺めていたが、やがて興味を失ったように視線を外した。
「……ふむ」
小さく頷く。
それから、黒いローブを翻して踵を返した。
「それにしても…………何故バレたのでしょう」
誰に聞かせるでもなく、男は呟いた。
「目撃者も、ここら辺にいる人間も、全部燃やし尽くしたというのに…………」
不思議で仕方がない。
そんな声音だった。
そこには、自分が殺した人間たちに対する罪悪感など微塵も感じられなかった。男にとって重要なのは、どうして自分の研究が露見したのかという、その一点だけなのだろう。
「後で、しっかりと考え直さねば」
しかし。
男が、その場から立ち去ろうとした時だった。
ボウッ!
「──ッ!?」
突如として、男のすぐ傍で炎が燃え上がった。
何の前触れもなく、誰かが火をつけたわけでもなく、男の身体を守るように、その周囲を激しい炎が取り囲んだのだ。
その瞬間、男は目を見開いた。
「…………?」
ゆっくりと、振り返る。
そして、炎の向こう側に広がる暗闇へと視線を向けた。
そこには。
「…………驚きました」
男が、感心したような声を漏らした。
「まさか、私の魔術を躱す人間がいるとは」
その視線の先に立っていたのは、俺だった。
「…………はぁ」
深々とため息をつく。
俺は肩に付着した煤を払い落としながら、ゆっくりと男の方へ向き直った。
制服のあちらこちらには、焦げたような跡が残っている。外套の裾は熱によって縮れ、袖口の布地も僅かにけば立っていた。
だが、それだけだ。
少なくとも、身体に目立った傷はない。先ほどの炎を、どうにかやり過ごすことには成功したらしい。
「勝手に殺されちゃ困る」
俺はそう言って、制帽の位置を直した。
「こちとら国家魔術保安局だ。そう簡単にやられるわけにはいかない」
などと、随分と格好のいいことを言ってみたものの。俺は内心では、かなり渋い顔をしていた。
というか、できることなら今すぐ帰りたい。
何しろ、こちらの予定が早々に狂ってしまったのだから。
今回、俺が考えていた作戦は至って単純だった。
まず、男に魔術を使わせる。その炎に乗じて姿を隠し、相手がこちらを殺したと思い込むのを待つ。
そして、油断して背中を向けたところで、不意を突いて仕留める。
我ながら、実に合理的な作戦だったと思う。
何しろ、相手は正面から戦って勝てるような魔術師ではないのだ。ならば、わざわざ正々堂々と戦ってやる義理もない。
卑怯?
卑怯で結構。相手は連続殺人犯である。そもそも、そんなものに拘っていられるほど、俺の命は安くない。
ともかく、相手がこちらを死んだと思い込んでいる以上、背後からの奇襲は十分に成功するはずだった。
実際、男は完全にこちらから意識を外していた。ローブを翻し、背中を向けた。あとは、こちらが攻撃を仕掛けるだけ。
しかし。
「まさか、自動迎撃タイプの魔術まで持ってるのかよ…………」
思わず、そんな言葉が口から漏れた。
自動迎撃。それは、術者本人の意思とは無関係に、特定の条件を満たした際、自動的に発動する迎撃魔術の総称である。
例えば、術者に向けられた攻撃を感知して防御するもの。あるいは、一定の範囲内に敵意を持った人間が侵入した際、先制して攻撃を仕掛けるもの。
発動条件は魔術によって異なるが、共通しているのは、術者自身が意識していなくても機能するという点だった。
つまり、寝ていようが、気を抜いていようが、背中を向けていようが、術者の身に危険が迫れば、魔術が勝手に対処してくれるのである。
当然、そんな高度な魔術を誰もが扱えるわけではない。
魔術を自動で発動させるためには、あらかじめ複雑な発動条件を組み込む必要がある。さらに、周囲の状況を正確に判別し、適切なタイミングで魔術を行使するための仕組みまで構築しなければならない。
その難易度は、通常の魔術とは比較にならない。ましてや、今のように、術者自身が完全に油断している状況で発動するとなれば、なおさらだ。
そして、この男がそんな魔術を使用したということは。
「ほぉ…………?」
男が、感心したように目を細めた。
「それを知っていますか。アナタ、さては中々のやり手ですね?」
「さあ、どうだろうな」
「なるほど、これなら国家魔術保安局という肩書にも頷けます」
男は嬉しそうに頷いた。
先ほどまでの穏やかな笑顔とは、少し違う。まるで、思いがけず興味深い研究対象を見つけたかのような、好奇心に満ちた表情だった。
「お前も、随分と血なまぐさい魔術を使うじゃないか」
魔術師という連中は、基本的に研究熱心だ。
だからこそ、基本的には争いごとに慣れておらず、引き籠ってばかりいる研究畑の者が多い。
しかし、この魔術師は実戦的な魔術にも理解がある。それも、自動迎撃の魔術を習得するくらいに高度なレベルで。
「いやぁ、しかし…………」
男が、ふと口を開いた。
その表情には、先ほどまで以上に楽しげな色が浮かんでいた。
「思わぬ収穫です。まさか、こんな便利な的が現れてくるとは」
にやり、と。
男の口元が、不気味に歪む。
そして、ゆっくりと片手を持ち上げた。
ボウッ。
その掌の上に、小さな炎が灯る。最初は蝋燭の火ほどの大きさだったそれが、見る間に膨れ上がり、やがて男の手を離れて宙へと浮かび上がった。
赤々と燃える炎の塊。
それが、男の周囲をゆっくりと漂い始める。
一つ。
二つ。
三つ。
まるで、夜空に浮かぶ小さな太陽のようだった。
その光に照らされた男の顔には、隠しきれない歓喜が浮かんでいる。
「どうか…………どうか…………」
男は宙に浮かぶ炎を一瞥すると、再び俺へと視線を向けた。
その目は、もはや人間を見るものではなかった。新しい実験器具を手に入れた研究者が、これからどんな結果が得られるのかと期待に胸を膨らませている。
そんな、目だった。
「できるだけ、耐えてくださいねぇ?」
男が、楽しそうに微笑む。
その瞬間、宙に浮かぶ炎が一斉に大きく燃え上がった。




