第15話:花子と口裂け女の再来
昼間の俺は、驚くほど何もしていない。
午後二時に起きる。カーテンの隙間から入る西日が目に痛い。スマホを確認する。LINEの通知は3件あったが、全て広告だった。別に、友達がいないわけではない。大学時代のグループLINEは一応あるし、元のバイト仲間と連絡もたまにする。ただ、そこに「就活全敗してドン・ゾコっていう幽霊向けディスカウントストアで深夜バイトしてます」と伝える気持ちはない。
冷蔵庫を開ける。卵が二個に、納豆が一パック。そろそろ現実世界のスーパーにも行かなければいけないが、今日はこれでいく。卵かけご飯を食べながら、テレビを付け、スマホもいじる。どちらにも集中できないからだ。
——最近、ニュースの見方が変わった。
「交差点で歩行者はねられ死亡」。前なら五秒でスクロールしていた。今は、この人が今夜ドン・ゾコに来るかもしれない、と考えてしまう。包丁が刺さったまま歩いてきたあのサラリーマンの顔が、まだ頭に残っている。
テレビの中の死は自分に関係なかった。この店で働くまでは。
◇ ◇ ◇
午後五時。日が傾いてきた頃、コンビニに行くついでにドン・ゾコの前を通った。
昼間の店は、空きテナントにしか見えない。灰色のシャッターが下りていて、壁は薄汚れていて、「テナント募集」の紙が貼ってある。誰も気に留めない、駅前の行き止まりの一角。
——のはずだった。
立ち止まった。目を擦った。もう一度見た。
シャッターの隙間から、光が漏れていた。
蛍光灯の、あの白っぽい光。チカ、と一回だけ明滅して、消えた。
午後五時だ。営業時間は午前二時から五時。今は真昼間——ではないが、まだ明るい。店が「見える」時間じゃない。目の錯覚かもしれない。夕日がシャッターに反射しただけかもしれない。そう思おうとした。でも体が覚えている。あの光の色は、太陽のものじゃない。
もう一度シャッターを見る。何もない。灰色のシャッター。テナント募集の紙。薄汚れた壁。
通りすがりのおばさんが、俺の横を歩いていく。俺と同じ方向を一瞬見て、何も気にせず通り過ぎた。
——見えてないんだ。あの人には。
コンビニでコーヒーゼリーとアイスコーヒーを買って帰った。手が少し冷たかった。
◇ ◇ ◇
午前二時。出勤。
「出勤しました」
「遅刻ギリギリだぞ」
「5分前です〜」
天音がモップを持って通り過ぎながら、小さく笑った。「いつもの」が始まる。蛍光灯が今日は点滅はしていない。だが、光の色がいつもと違う。白じゃなくて、ほんのすこし青白い。病院の廊下みたいな……そんなに病院に詳しいわけじゃないが。
「天音……今日、光の色変じゃない?」
「もう、古いからじゃない?そろそろ変えないと。店長、備品ちゃんと買ってください」
「……おう」
全員、天井を見ていた。気にしている。棚の配置も、微妙にずれている気がする。昨日まで通路の右側にあったお香の棚が、五センチくらい左に寄っている気がする。商品を並べ直した記憶はない。鬼怒川店長に聞いたら「棚は動かしてねぇ」と言われた。
店が、動いている。
そんな馬鹿な話があるかと思うが、この店は現世とあの世の境目に建っている。壁も棚も蛍光灯も、普通の建材じゃない。何でできているのかは知らないが、普通じゃないことだけは確かだ。
最初の客が来た。常連の犬だ。いつも通り尻尾を振って、いつも通り何も買わずに帰った。
二人目。久しぶりに見る顔だ。花子さんのうちの一人——関西弁の子が来た。
「いらっしゃいませ。まだこっちの世界にいたんですね」
「なんか失礼やな! まぁええわ、なあなあ、ちょっと聞いてぇな」
トイレットペーパーを三つ抱えて、レジに来た。
「どしたの、花子さん」
「最近な、トイレで水流したら、排水がなんか変なんよ。逆流するっていうか、下から押し返されるっていうか」
「それは……配管の問題では」
「ちゃうねん、物理的なやつちゃうねん。こう、なんか、下から気配がするっていうか。トイレの下って地面やんか。地面の下って——」
花子さんが声をひそめた。
「——あっち側やろ」
あっち側。幽世。黄泉比良坂の向こう。
「上からだけやなくて、下からも何か来とる気ぃするんよ。うちらトイレの専門家やから、排水の流れには敏感やねん」
花子さんがトイレットペーパーを抱え直して帰っていった。彼女はトイレの専門家だったのか。
三人目は、口裂け女が再度来店した。
自動ドアが開くと、コツコツとハイヒールの音がする。マスク姿の美女——に見えるが、マスクの下はご存知の通り。今日はサングラスとカラコンの「二段階恐怖」フル装備で、見た目だけなら繁華街にいそうだ。
「あ、口裂けさん。いらっしゃいませ」
「久しぶり。カラコンの替え、ある?」
「ありますよ。度なしでいいですか?」
「度なしで」
いつもの買い物だ。レジに持ってくる間、口裂け女がふと言った。
「ねぇ、最近ちょっと困ったことがあるんだけど」
「なんですか?」
「外を歩いてたらさ、人間に見られたの」
手が止まった。
「見られた? 口裂け女さんって、いつも自分から見せにいってませんでしたっけ?」
「それとこれとは別なのよ。マスクの下が見えたとかじゃなくて、わたしの存在自体に気づいてる感じ。『え、なんかいない?』みたいな顔。——今まで、そんなことなかったのに」
口裂け女は、ターゲットを驚かせる時以外は存在自体も曖昧だ。その彼女が見られた、と言うのだからやはり……あっちとこっちの境界が、曖昧になっているのか?
「……いつ頃からですか」
「ここ一週間くらいかな。一回だけじゃないの。三回は見られた。そのうち一回は、おばあさんに『あんた、顔色悪いわよ』って、声までかけられた」
口裂け女が苦笑した。
「顔色の問題じゃないんだけどね、わたしの場合」
カラコンをレジ袋に入れて渡す。口裂け女が出ていったあと、天音がぼそっと言った。
「一般人に見えてるのは、まずいよ」
「……だよね」
境界が緩んでいる。昨夜の殺された客たちだけじゃなく、妖怪まで一般人に見え始めている。
今日の昼間、シャッターの隙間から光が漏れていたのも、見間違いじゃないのだろう。
◇ ◇ ◇
午前三時半。客足が途絶えた静かな時間帯に、あの男が来た。
黒いコートに白い手袋、穏やかな目元。年齢不詳。透けてもいないし、生きた人間の重さもない。分類できない存在の、あの男だ。
「いらっしゃいませ」
男はゆっくりと店内を見回している。棚を一つ一つ確認するように。天井を見て、壁を見て、床を見た。
「……何かお探しですか?」
「いえ。見ているだけです」
男は蛍光灯を見上げた。青白い光が、白い手袋に反射する。
「蛍光灯、よく持っていますね」
その一言で、空気が張り詰めた。
鬼怒川店長がレジの奥から、射るような目で見ている。
「……何の用だ」
「用というほどのことでは。ただ、少し心配になりまして」
温度のない笑顔で微笑んだ。
「この店は素敵ですね。品揃えも、店員さんも。ただ——」
彼がカウンターに手を置いた。白い手袋の指先が、カウンターの表面をなぞる。
「建物が、疲れていますね。壁も、棚も、この蛍光灯も。本来持つはずの力が、少しずつ抜けている」
鬼怒川店長が腕を組んだまま一歩出た。
「帰れ」
「帰りますよ。お客様ですから、閉め出しはしないでしょう?」
店長が黙った。ここは店だ。客を選ばない。
「また来ます。——次は、少しお話がしたいですね。店長さんと」
自動ドアに向かう。出ていく直前、振り返った。
「店員さん」
「は、はい」
「POPの絵、描かれているんですか? お上手です」
笑って出ていった。自動ドアが閉まる。店内に、沈黙が落ちた。
「……店長」
「なんだ」
「今の人って——」
「客だ。それ以上でも以下でもねぇ」
嘘だ。また嘘をついている。店長があの男を見る目は、客を見る目じゃなかった。警戒と、もっと複雑な何かが混じっていた。
◇ ◇ ◇
午前五時。閉店だ。
天音は「ちょっと眠い」と珍しく弱音を吐いて、先に帰ってしまった。昨日の殺された客の対応で、天音も消耗しているのだろう。俺も帰ってすぐに寝たい。閉店作業の最後、ゴミ袋を裏口に出しに行く。バックヤードの扉を開けると——声が聞こえた。
店長の声だ。レジのあたりから、独り言というよりは誰かに話しかけている。しかしもう店内には誰もいないはずだ。天音は帰ったし、奏太は朝になって消えた。ざしきは棚の上で寝ている。
扉の隙間から、そっと覗いてみた。
鬼怒川店長が、壁に手を当てている。左手を、壁にそっと。まるで誰かの頬に触れるみたいに。
「……まだ大丈夫だ」
壁に向かって呟いている。
「まだ持つ。心配すんな」
蛍光灯がチカ、と一回だけ明滅した。まるで返事をするように。
俺は息を止めた。見てはいけないものを見ている気がした。手を離した店長は、いつもの仏頂面のリーゼントではない。一人の青年のようだった。音を立てないようにバックヤードに引っ込んで、三十秒数えてから「お疲れさまでしたー」と声を出して店に戻った。
「……まだいたのか」
「ゴミ出してました。じゃ、お先に失礼します」
「ああ」
外に出る。朝の光がまぶしい。
店長は壁に「心配すんな」と言って、……蛍光灯が返事をした? 一体どういうことなんだ。考えがまとまる前に、強めの朝の風がそれを吹き飛ばした。
ドン・ゾコの看板が消えていく。今朝もやっぱり、消えるのが遅い。昨日よりもさらに。




