第1話:午前二時の境界線
人生のどん底は、静かな場所にあると思っていた。
例えば、誰もいない深夜の公園のベンチとか、冷たい雨が降る路地裏とか。
けれど、俺・相馬廻が辿り着いた「底」は、暴力的なまでに明るくて、目がチカチカするほど原色にまみれていた。
時刻は深夜一時五十五分。草木も眠る丑三つ時に、俺はサイズが合っていない安物のリクルートスーツのズボンの裾を引きずって歩いていた。今日で何社目だろうか。「お祈りメール」という名の、丁寧な拒絶通知を受け取ったのは。スマホの画面が通知で光るたび、俺の存在価値が少しずつ削り取られていく気がする。
「……しんどい…」
いつもの帰り道、吐き出した溜息が、夜の冷気に溶けていく。駅からアパートまでの、何の変哲もない街の数百回は通った道。
だが、今夜は何かが違った。
いつの間にか、周囲から音が消えている。遠くを走る車の走行音も、自販機の音も聞こえない。
代わりに、足元から這い上がるような奇妙な霧が立ち込め、視界が滲む。そして、シャッターが閉まったままの潰れたパチンコ屋の角を曲がった瞬間ーー。
俺の視界は、暴力的な極彩色でいっぱいになった。
「……は?」
そこには、巨大な「城」があった。いや、城というにはあまりにも品がない。
建物を埋め尽くすように貼り付けられた、赤と黄色のド派手な看板。屋上には、王冠を被った不気味なバクのようなマスコットキャラクターが鎮座し、ギョロリとした目で下界を見下ろしている。店の名前は……『怪安の魔殿 DON・ZOKO黄泉比良坂店』。
「ドン……ゾコ?……こんな店、ここにあったっけ?」
記憶にない。こんな目立つ建物があれば、忘れるはずがない。
まるで、世界が寝静まった隙を狙って、異次元から出現したかのような唐突さだった。入り口からは、けたたましいほど陽気なテーマソングが流れている。
『ドンドンドン、ドン・ゾ〜コ〜♪ 地獄の沙汰も金次第〜♪』
……不穏すぎるだろ。
だが、就活で精神をすり減らし、正常な判断力を失っていた俺は、光に群がる虫のようにフラフラとその入り口へ吸い寄せられてしまった。
自動ドアが開く。
途端に、鼻をつくような安っぽい芳香剤の匂いと、埃っぽい熱気が俺を包み込んだ。
「っしゃぁせ〜〜」
店内に足を踏み入れて視界を埋め尽くしたのは「モノ」だった。商品、商品、商品。床から天井まで、隙間なく積み上げられた商品の山。これが噂に聞く「圧縮陳列」というやつか。だが、並んでいるものがおかしい。
『呪いの藁人形セット(五寸釘付き) 怪安999円!』
『訳あり事故物件の鍵(開運効果あり?) 一山500円!』
『賞味期限切れ(百年)の乾パン ご自由にどうぞ』
……ここは一体、何屋なんだ?
眩暈がした。徐々に冷えた頭を抱えて逃げ出そうと踵を返しかけたその時、目の前に一枚のポスターが突きつけられる。壁の隙間に貼られた、手書きの求人募集だ。
『緊急急募! 深夜アルバイト。
時給:2525円(深夜割増含む。危険手当別途支給)
資格:健康な肉体と、多少の霊感。学歴・職歴不問。社員登用あり。
備考:人生のどん底にいる方、歓迎』
「……どん底にいる方、か……」
その単語は、俺の心臓に刺さった。時給2525円。今の俺には、喉から手が出るほど欲しい金額だ。それに「学歴不問」「社員登用」。まるで俺のために用意された言葉のようだった。
「……ぅおい、そこのお前ェ」
不意に、背後からドスの利いた声がした。恐る恐る振り返ると、そこには一人の男が立っている。
黒いエプロンに、腕まくりしたシャツ。ヘアスタイルは今どき漫画でもみない綺麗なリーゼントで、眼光は鋭く、全身から放たれる威圧感が半端ではない。背中には『店長(代理)・鬼怒川』という名札が光っていた。
「て、店長さん、ですか? あの、この求人は……」
俺が震える声でポスターを指差すと、鬼怒川と名乗った男は、俺の顔をジロジロと値踏みするように見つめた。そして、鼻を鳴らす。
「フン。死相が出てやがるぜ。採用だ」
「えっ」
「今から働け。着替えてこい」
「ええっ!?」
あまりの急展開に思考が追いつかない。死相? 採用? 今から?だが、鬼怒川さんは有無を言わせぬ迫力で俺にバックヤードを指し示した。半ば強制的に着替えさせられ、ブカブカの黒エプロンをつけられた俺は、わけもわからぬままレジカウンターの中に立たされる。
「いいかぁ、新人。この店の客層は特殊だ」
レジの横で腕を組み、鬼怒川店長(代理)が低い声で言う。
「もうすでに特殊なんですが……」
「口答えすんな。そろそろだ」
店長が壁の時計を見上げる。秒針がカチリ、カチリと音を立てて進んでいる。俺も釣られて時計を見た。午前一時五十九分五十秒。
あと十秒で、深夜二時。
その瞬間、店内の蛍光灯がチカチカと不規則に点滅した。空気が、重くなる。耳鳴りがして、視界が滲む。
――カチン。
秒針が、午前二時を指した。
――ブォォォォォォン!!
店内に、場違いな轟音が響き渡る。バイクの排気音だ。それも、鼓膜が破れそうなほどの爆音。自動ドアが乱暴に開くと、一台の大型バイクがそのまま店内に突っ込んできた。
「ぃいいいいいいやぁあああああ!?」
俺は悲鳴を上げて店の端に走っていく。バイクは陳列棚すれすれで急ブレーキをかけ、タイヤをきしませて停止した。警察をよばなくては、いや、ヤバい客すぎるから鬼怒川さんがもう呼んでいるかもしれない。
「て、てんcy……」
バイクに跨っているライダーがヘルメットを外す。店長を呼ぶ声は喉に張り付いて出なかった。
黒い革ジャン。ボロボロのジーンズ。
そして、その肩の上には――何もなかった。首から上が、綺麗さっぱり存在しない。
「く、首なし……ライダー……?!」
「……くくっ、おい新人、何呆けてやがる。お客様には『いらっしゃいませ』だろ?」
鬼怒川店長の大きな手が、俺の背中をバシンと叩いた。
「い、いらっしゃいませぇ……!」
俺の裏返った声が、店内に響く。鬼怒川店長(代理)に背中を引っぱたかれた勢いで、俺は首なしライダーの真正面に踊り出てしまっていた。
目の前には、虚空。本来あるべき頭部の位置には何もなく、ただ革ジャンの襟が立っているだけ。なのに、間違いなく「睨まれている」という圧が肌を刺す。
『■■■■――ッ!!』
ライダーが苛立ちを露わにし、ハンドルをガンガンと殴りつけた。その衝撃で、近くの棚から陳列されていた『般若心経スピーカー(自動読経機能付き)』がバラバラと落ちる。
「ひいっ! お、お客様、店内での暴力行為はご遠慮ください! 商品が! 俺の寿命が!」
「落ち着け新人。よぉく見てみろ」
店長の声は、相変わらず他人の不幸を楽しんでいるように聞こえる。
「奴は何に苛立っているんだ? 破壊衝動か? それとも欠乏感か?」
「け、欠乏……?」
言われて、俺は必死にライダーを観察した。逃げ出したい。今すぐこの場から消え去りたい。でも、足がすくんで動かないなら、見るしかない。
ライダーは暴れながらも、しきりに自分の鎖骨のあたりをグーで叩いていた。ドンドン、と胸を打つような仕草。そして、先ほどなぎ払ったオーディオコーナーの残骸に、まるでしがみつくように手を伸ばしている。
……こいつ、何をしてんだ?
ヘッドホンを拾い上げようとして、落として、また拾って。自分の耳に――いや、耳があったはずの場所に当てようとして、空振りして。
待てよ。首がない。つまり耳もない。
俺の中の知識が繋がり始めた。バイク乗りにとって、ツーリング中の音楽は命。風を切る音、エンジンの鼓動、そして好きな曲。それが全部、彼の生きがいだったはずだ。
でも、首を失った瞬間、全てが無音になった。
「……聞こえないんだ。首がないから……耳もない。だから、大好きなバイクの音も、風の音も、音楽も聞こえない。死んでからずっと、無音の世界で走り続けてる……」
「ほぉう」
鬼怒川店長が、ニヤリと口角を上げた。
「悪くない着眼点だな、新人」
店長はレジの下から、黄色の蛍光紙と極太のマジックペンを取り出した。キュキュキュッ、と小気味良い音が静寂を切り裂く。書き上がったPOPを、店長は俺の胸に押し付けた。
「おい新人。家電コーナーのB棚、真ん中の段にあるやつ、持ってこい!」
「え、あ、はい!」
俺は転がるように走った。散乱する商品を飛び越え、家電コーナーへ。B棚、B棚ってどれだよ。ドタバタ走り回り辿り着いたB棚の真ん中にあったのは、『ウェアラブルネックスピーカー』だった。 耳を塞がず、首にかけて鎖骨の振動で音を聴くタイプのスピーカーだ。なるほど、これなら、耳がなくても――!
「お、お客様! こちらの商品はいかがでしょうかッ!」
俺は戻るなり、POPを貼り付けた箱をライダーに突き出した。ライダーの手が止まる。見えない視線が、店長の書いた毒々しい文字に吸い寄せられるのが分かった。
『鼓膜不要。骨で聴け! 魂に直接響く重低音。あの世へのツーリング、BGMはこれで決まり!』
……乱暴なキャッチコピー。だが、その言葉はライダーの心を貫いたようだった。
ライダーの体が、小刻みに震え始める。彼はゆっくりと手を伸ばし、俺の手からネックスピーカーを受け取り、箱を開けた。まだお会計終わってないじゃん……、といつもの世界のことを考えてしまうが今はそれどころじゃない。ライダーは、自分の首の断面を覆うように肩に乗せ、ポケットからいつのだかわからないmp3プレイヤーを出して再生ボタンを押したようだった。
『…………ッ!?』
声にならない衝撃が、ライダーの全身を駆け巡ったのが分かった。彼の体が、ビクンと跳ねる。 聞こえているのだ。骨を伝わり、魂を揺さぶる音が。生前、彼が愛してやまなかった、音が。
ライダーは空を仰ぎ(首はないけど)、震える手でアクセルを握る仕草をした。満足げな空気が、彼の周囲に漂い始める。彼はポケットから、古びた硬貨を数枚取り出すとレジの前に置いた。チャリ、と冷たい音がする。
――ピッ。
どこからともなく、レジを通す電子音が響いた。次の瞬間、ライダーは俺に向かってビシッとサムズアップをしてみせると、光の粒子となって崩れ始める。少ししてバイクの爆音と共に、彼は霧の中へと消えていった。
後には、静寂と、店長が書いたPOPが残された。
「じょ、成仏したってこと……?」
俺は呆然と呟いた。腰が抜けて、その場にへたり込む。
「……やるじゃん、新人クン」
不意に、女子の声が降ってきた。顔を上げると、細い腕でモップを持った小柄な少女が立っている。 金髪ボブに、黒いエプロン。肌は真っ白で、いかにもサブカル好きしそうな見た目だ。名札には『天音』と書かれている。
「あ、あなたは……?」
「バイトの天音。あー、店長、またこんなよわっちそうなの雇うの?」
ため息をついた彼女は、床に散らばった商品の残骸を見渡す。蛍光灯に照らされたブリーチヘアーが少しだけ目に痛い。
「ま、初日にしてはよく頑張ったじゃん。余韻に浸ってるとこ悪いけど、さっさと掃除して」
天音さんは慣れた手つきでモップを動かし始めた。まるで、さっきの出来事が日常茶飯事のように。
「え、あの、まだ続くんですか? こういうの……」
「深夜二時から五時までがゴールデンタイム。まだ二時間近くあるよ」
二時間。あと二時間も。
俺は這うようにして立ち上がり、散乱した般若心経スピーカーの残骸を拾う。まだ震えている手で、転がったヘッドホンを棚に戻した。
さっきの出来事って本当にリアルの現実?
時計を見ると、午前二時十五分。黄泉比良坂のゴールデンタイムは、まだ始まったばかり。
就職初日は、どうやらまだまだ上がれそうにない。




