表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
72/72

第二部・第24話:冷静に、ね?

周に送る文面を考え始めて、十分で翔は手を止めた。


 ノートの上には、まだ一行もまともな文章が書けていない。


 書いては消し、書いては消し、最後には白紙のページだけが残った。


 昨日、ノクターンで唯奈と話した時点では、チャットが最善だと思っていた。


 声には感情が乗る。


 電話は、危険だ。


 少し声が低くなっただけで、周に「何かおかしい」と気取られるかもしれない。


 いや、周がそこまで読めるかは怪しい。


 むしろ、読めない可能性の方が高い。


 だが、読めない人間相手だからこそ、逆に怖い。


 こちらが意図していない部分だけを拾って、意図している部分を全部取りこぼす。


 そういうことが、周にはあり得る。


 翔はペンを指先で回しながら、深く息を吐いた。


 ――あいつ、そもそも警戒なんてするのか?


 そこが、一番の問題だった。


 昨日の作戦はこうだ。


 周に「由美の誕生日プレゼントを考えている」と伝える。


 周はそれを不審に思い、由美へ警戒を促す。


 由美は誕生日当日に身構える。


 だが、何も起きない。


 その“何も起きなかった”という事実が、由美の中で罪悪感と疑心を膨らませる。


 理屈としては、かなり綺麗だった。


 だが、その途中に一つ、大きな穴がある。


 周が、こちらの文面から「警戒した方がいい」と感じ取れるかどうか。


 翔は、ノートを睨んだ。


 周は、物事を客観的に捉えることが苦手なのだと思う。


 悪人ではない。


 少なくとも、自分では善意のつもりで動く。


 だが、その善意がどこへ刺さるのかを想像する力が、致命的に足りない。


 「水に流す」と言えてしまう。


 それが、すべてだった。


 あれを言えば翔がどう感じるか。


 その一歩先が見えていない。


 だからこそ、チャットは危ない。


 文章で、しかも短い文面で、頭の悪い奴にも分かるレベルの怪しさをわずかに残しつつ、それでいて善意とも取れる形に整える。


 そんな芸当は、ほぼ不可能だった。


 怪しさを強くすれば、翔が露骨に何か企んでいると伝わる。


 怪しさを薄くすれば、周は何も感じ取らない。


 善意に寄せすぎれば、ただの相談になる。


 不自然に寄せすぎれば、作戦が露見する。


 文面は、思っていたよりもずっと難しかった。


 翔はノートを閉じ、椅子から立ち上がった。


 考える場所を変える必要があった。


 そして、こういう時に向かう場所は、もうだいたい決まっている。


 ◇


 ノクターンは、昼過ぎの早い時間で、客が少なかった。


 扉の鈴が鳴ると、カウンターの奥で唯奈が顔を上げた。


「お、兄さん」


 いつもの軽い声。


 翔はそのままカウンター席に座った。


「昨日の件なんだけど」


「うん?」


 唯奈はグラスを拭きながら、半分だけこちらを見る。


「チャット、無理だ」


 グラスを拭く手が止まった。


「……は?」


 唯奈は、かなり分かりやすく顔をしかめた。


「昨日まで何聞いてたの?」


「聞いてた」


「じゃあ何でそうなるの」


「現実的に無理だと気づいた」


 翔は、カウンターに肘を置いて続ける。


「チャットが一番安全なのは分かる。声に感情が乗らない。記録も残る。やり取りも制御しやすい」


「そうだよ」


「だが、周相手には無理だ」


 唯奈の眉が少し上がる。


「何で?」


「お前は周を知らない」


「それはそうだけど」


「あいつの空気の読めなさを過小評価しすぎてる」


 翔は、昨日から頭の中で何度も繰り返した結論を、そのまま言葉にした。


「チャットで、わずかな怪しさを残す。善意にも見えるようにする。周がそれを見て、由美に警戒を促す。……普通の相手ならいけるかもしれない」


「うん」


「でも周だと、多分無理だ」


 唯奈はグラスを台に置いた。


 表情が、少しだけ真面目になる。


「どう無理なの?」


「怪しさを薄くすれば、何も感じ取らない」


「……」


「怪しさを濃くすれば、今度は“翔も由美のために悩んでるんだな”みたいな理解になる可能性がある」


 唯奈が、一瞬だけ黙った。


 その沈黙で、翔は自分の説明が伝わったことを知った。


「……やばいね、その人」


「やばい」


「善意の方向に誤読するタイプ?」


「そう」


「しかも、自分が善意側にいるって信じてるタイプ?」


「そう」


 唯奈は額に手を当てた。


「一番面倒なやつじゃん」


「だから電話だ」


 翔がそう言うと、唯奈は今度こそ露骨に嫌な顔をした。


「私がセリフを考えるってこと?」


「そうなる」


「兄さん」


 唯奈は、カウンター越しに身を乗り出した。


「昨日まで何を聞いていたの? 電話は悪手だって一番――」


「分かってる」


 翔は遮った。


「声には感情が乗る。殺意も出る。怒りも出る。俺が少しでも失敗すれば、周に怪しまれる」


「そう」


「だが、周には声の方が効く」


 唯奈は言葉を止めた。


 翔は、少しだけ声を落とす。


「周は、文章の裏は読めない。でも声の“困ってる感じ”には弱い」


「……」


「あいつは、自分が相談されていると思うと、急に善人として働き始める。誰かを助けていると思い込む。その時だけ、行動が早い」


 翔は、昨日の喫茶店での周を思い出す。


 水に流せ。


 あれも、周にとっては善意だった。


 由美のため。


 翔のため。


 過去を終わらせるため。


 そう信じているから、踏み込めた。


 なら、その性質を利用するしかない。


「周には、文章で“怪しい相談”を送るんじゃなくて、電話で“悩んでいる空気”を出す方がいい」


「……つまり」


 唯奈が目を細める。


「翔が由美の誕生日プレゼントについて、少し困った声で相談する」


「ああ」


「周は、“自分が橋渡ししなきゃ”って思う」


「多分な」


「でも、そこで兄さんが殺意を出したら全部終わる」


「だから脚本がいる」


 唯奈はしばらく黙った。


 店内のBGMが流れる。


 奥のテーブルで、学生らしい二人組が小さな声で笑っている。


 唯奈は、その笑い声が消えるのを待つようにしてから、深く息を吐いた。


「分かった」


 その声は、諦めに近かった。


「脚本、考える」


 翔は小さく頭を下げた。


「助かる」


「ただし」


 唯奈は指を一本立てた。


「実行は今すぐじゃない」


「分かってる」


「分かってない顔してる」


「分かってる」


「兄さん、こういう時、分かったって顔で分かってないから」


 翔は反論しようとして、やめた。


 自覚がないわけではない。


 唯奈は続ける。


「プレゼントの用意はする。これはいい。実物がある方が、相談にリアリティが出る」


「うん」


「でも周への相談は、ぎりぎり」


「誕生日直前?」


「そう」


 唯奈は頷く。


「早すぎると、警戒が長く続いて、途中で薄まる。場合によっては、由美側で対策を考える時間ができる。ぎりぎりなら、周も焦る。焦ったまま由美に伝える。由美も身構える。そこに何も来ない」


 翔は、頭の中でその流れを確認した。


 やはり、理屈は通っている。


「だから、今やることは三つ」


 唯奈はカウンターの上に指を置き、一つずつ叩いた。


「プレゼントを用意する」


 一つ。


「電話の脚本を作る」


 二つ。


「兄さんが、それを冷静に言えるように練習する」


 三つ。


 最後の「冷静に」だけ、明らかに強調された。


「冷静に、ね? 兄さん」


 翔は、少しだけ背筋を伸ばした。


「了解した」


「本当に?」


「本当に」


「殺意を込めない」


「込めない」


「声を低くしすぎない」


「しない」


「由美の名前を言う時に間を空けない」


「……分かった」


「今の間、怪しい」


「今のは練習前だからノーカンで」


 唯奈は呆れたように笑った。


「不安すぎる」


「大丈夫だ。練習する」


「どこで」


「テニスしながら」


「何で?」


「身体を動かしている方が声が固まらない」


 唯奈は数秒だけ翔を見つめ、それから小さく首を振った。


「兄さんって、たまにすごく変だよね」


「今さらだろ」


「今さらだけど、毎回更新してくる」


 それから唯奈は、カウンター下から小さなメモ帳を取り出した。


「とりあえず、流れだけ決めるよ」


 翔もノートを開いた。


 唯奈は、淡々と書き出す。


 ・最初は軽く近況

 ・昨日の喧嘩っぽい空気は引きずらない

 ・由美の誕生日が近いことを“たまたま思い出した”感じにする

 ・プレゼントを買ったとは言わない

 ・「あげようか迷ってる」にする

 ・周に結論を求めない

 ・最後は短く切る


「結論を求めないのは、チャットと同じなんだな」


「そこは同じ」


 唯奈は言う。


「周に“止めた方がいい”って言わせたら負け。周に考えさせるだけでいい」


「周が由美に言うかは?」


「言う」


 唯奈は即答した。


「少なくとも、その人が兄さんの言う通りのタイプなら、言う」


「根拠は?」


「自分が間に入って良い方向に持っていけると思っている人は、自分が情報を握った時に黙っていられないから」


 翔は、その言葉に反論できなかった。


 周は、まさにそういう人間だ。


 唯奈は、さらに言葉を続ける。


「しかも今回は、昨日の“水に流す”のあとでしょ?」


「ああ」


「周は多分、兄さんとの関係を修復したい。自分が良いことをしている感覚も取り戻したい。だったら、“由美にも一応伝えておこう”ってなる」


「……よく分かるな」


「分かるよ」


 唯奈は、少しだけ笑った。


「そういう人、夜には多いから」


 夜。


 バー。


 相談。


 以前も似たようなことを言っていた。


 翔は、その言葉の奥に踏み込まなかった。


 唯奈の過去を掘ることは、今の目的ではない。


 ただ、今の一言で、唯奈が人の愚かさを何度も見てきたことだけは分かった。


 ◇


 ノクターンを出る頃には、やることがはっきりしていた。


 プレゼントを用意する。


 それは本当に渡すためではない。


 相談に質量を持たせるためだ。


 何を買うかはまだ決めていない。


 高すぎず、重すぎず、無難で、しかし「わざわざ買った」と思える程度のもの。


 その線で探せばいい。


 そして電話は、誕生日の前日か、二日前。


 ぎりぎり。


 冷静に。


 唯奈の声が、まだ耳に残っている。


 ――冷静に、ね? 兄さん。


 翔は、駅へ向かう途中で小さく息を吐いた。


 冷静に。


 その言葉ほど、今の自分に必要で、今の自分に向いていないものはなかった。


 ◇


 夕方、市営コートの壁打ちスペースには、いつもの乾いた音が響いていた。


 パコン。


 パコン。


 翔はボールを返しながら、小声で台詞を試す。


「もしもし、周?」


 打つ。


「少しだけ、聞きたいことがあって」


 返る。


「由美の誕生日、近いだろ」


 打つ。


 その瞬間、声が少し低くなった。


 翔は自分で気づいて、舌打ちしそうになる。


 駄目だ。


 由美の名前で、声が変わる。


 これでは駄目だ。


 もう一度。


「由美の誕生日、近いだろ」


 打つ。


 まだ硬い。


 もう一度。


「由美の誕生日、近いだろ」


 ほんの少し自然になった。


 だが、今度は軽すぎる。


 相談の重さがない。


 難しい。


 テニスのフォームより難しい。


 ラケットの角度は、何度も打てば身体が覚える。


 だが、殺意の乗らない声は、身体が覚えてくれない。


 むしろ身体の方が勝手に殺意を出してくる。


 翔は、ボールを拾いながら深く息を吐いた。


「冷静に、ね……」


 独り言のように呟く。


 その時だった。


「居た!」


 聞き慣れた声が、入口から飛んできた。


「兄さん!」


 翔はラケットを止めて振り返る。


 玲奈が、いつものラケットケースを背負って立っていた。


 夕方の光の中で、髪を結んだ姿がやけに自然に見える。


「……なんで毎回分かるんだ⁉」


 翔は思わず言った。


「毎日来てる? もしかして」


 玲奈は胸を張った。


「練習は毎日してます!」


「それはすごいな」


「でも、兄さんがいるのは音で分かるんですよ!」


「音?」


「はい!」


 玲奈は壁打ちスペースを指さした。


「兄さんの打球音、ちょっと変わってるんです」


「変?」


「悪い意味じゃないです。まっすぐで、硬い音がするんです。あと、同じリズムでずっと続くから、遠くからでも分かります」


 翔は、思わず壁を見た。


 自分の打球音。


 そんなものを意識したことはなかった。


 玲奈は続ける。


「今日は、ちょっと音が怖かったですけど」


 翔の喉が詰まった。


「……怖かった?」


「はい。なんか、ボールじゃなくて壁を説得してるみたいな音でした」


「壁を説得」


「うん。しかも説得下手そうな感じ」


 翔は、思わず苦笑した。


「ひどいな」


「事実です」


 玲奈はにこっと笑う。


 その笑顔に、さっきまで組み立てていた台詞の冷たさが、少しだけ薄まる。


 翔はふと、不安になって周囲を見回した。


「やっべ。近所迷惑だったかな……」


 玲奈が首を傾げる。


「え?」


「そんな遠くから分かるなら、結構響いてるってことだろ」


「あ、それは大丈夫です。ここ、壁打ち用スペースだし、防音壁ありますし。私が分かるのは、毎日ここで練習してるからです」


「ならいいけど」


「気になるんですか?」


「まあ。迷惑かけるのは嫌だし」


 玲奈は少しだけ目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。


「兄さん、そういうところ普通ですよね」


「何だよ、そういうところって」


「いや、なんか、たまにすごく怖い顔してるのに、近所迷惑は気にするんだなって」


「気にするだろ」


「うん。そこがいいと思います」


 不意打ちだった。


 翔は、返事に困って一度ラケットを持ち直した。


「……練習するか」


「はい!」


 玲奈は元気よく答えた。


 そのまま二人で軽くラリーを始める。


 ボールが行き来する。


 考え事は、完全には消えない。


 周への電話。


 由美の誕生日。


 唯奈の脚本。


 冷静に。


 すべてが頭の奥に残っている。


 それでも、玲奈が打つボールを返している間だけは、声の練習をしなくて済む。


 復讐のための声と、日常の声。


 その二つが、自分の中で少しずつ別れていく。


 周への電話では、声色一つ間違えられない。


 由美の名前を言う時に、殺意を乗せてはいけない。


 でも、玲奈の前では、意識しなくても声が緩む。


 それが、少し怖かった。


 同時に、救いでもあった。


「兄さん!」


 玲奈が打ち返しながら言う。


「今の、いい球!」


「そっちもな」


「お、褒めた!」


「褒めるだろ、普通」


「兄さんの普通、たまに貴重だから!」


「どういう意味だよ」


 玲奈が笑う。


 翔も、少しだけ笑う。


 その声は、練習したどの台詞よりも自然だった。


 だからこそ、翔は自分の中で小さく確認する。


 この声を、守る。


 この声を、復讐の声に混ぜない。


 電話は、ぎりぎりで。


 冷静に。


 唯奈の言葉を、もう一度胸の中で繰り返す。


 冷静に、ね? 兄さん。


 翔はラケットを振り抜いた。


 ボールが綺麗に返る。


 乾いた音が、夕方のコートに響いた。


 今度の音は、少しだけ柔らかかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ