第二部・第24話:冷静に、ね?
周に送る文面を考え始めて、十分で翔は手を止めた。
ノートの上には、まだ一行もまともな文章が書けていない。
書いては消し、書いては消し、最後には白紙のページだけが残った。
昨日、ノクターンで唯奈と話した時点では、チャットが最善だと思っていた。
声には感情が乗る。
電話は、危険だ。
少し声が低くなっただけで、周に「何かおかしい」と気取られるかもしれない。
いや、周がそこまで読めるかは怪しい。
むしろ、読めない可能性の方が高い。
だが、読めない人間相手だからこそ、逆に怖い。
こちらが意図していない部分だけを拾って、意図している部分を全部取りこぼす。
そういうことが、周にはあり得る。
翔はペンを指先で回しながら、深く息を吐いた。
――あいつ、そもそも警戒なんてするのか?
そこが、一番の問題だった。
昨日の作戦はこうだ。
周に「由美の誕生日プレゼントを考えている」と伝える。
周はそれを不審に思い、由美へ警戒を促す。
由美は誕生日当日に身構える。
だが、何も起きない。
その“何も起きなかった”という事実が、由美の中で罪悪感と疑心を膨らませる。
理屈としては、かなり綺麗だった。
だが、その途中に一つ、大きな穴がある。
周が、こちらの文面から「警戒した方がいい」と感じ取れるかどうか。
翔は、ノートを睨んだ。
周は、物事を客観的に捉えることが苦手なのだと思う。
悪人ではない。
少なくとも、自分では善意のつもりで動く。
だが、その善意がどこへ刺さるのかを想像する力が、致命的に足りない。
「水に流す」と言えてしまう。
それが、すべてだった。
あれを言えば翔がどう感じるか。
その一歩先が見えていない。
だからこそ、チャットは危ない。
文章で、しかも短い文面で、頭の悪い奴にも分かるレベルの怪しさをわずかに残しつつ、それでいて善意とも取れる形に整える。
そんな芸当は、ほぼ不可能だった。
怪しさを強くすれば、翔が露骨に何か企んでいると伝わる。
怪しさを薄くすれば、周は何も感じ取らない。
善意に寄せすぎれば、ただの相談になる。
不自然に寄せすぎれば、作戦が露見する。
文面は、思っていたよりもずっと難しかった。
翔はノートを閉じ、椅子から立ち上がった。
考える場所を変える必要があった。
そして、こういう時に向かう場所は、もうだいたい決まっている。
◇
ノクターンは、昼過ぎの早い時間で、客が少なかった。
扉の鈴が鳴ると、カウンターの奥で唯奈が顔を上げた。
「お、兄さん」
いつもの軽い声。
翔はそのままカウンター席に座った。
「昨日の件なんだけど」
「うん?」
唯奈はグラスを拭きながら、半分だけこちらを見る。
「チャット、無理だ」
グラスを拭く手が止まった。
「……は?」
唯奈は、かなり分かりやすく顔をしかめた。
「昨日まで何聞いてたの?」
「聞いてた」
「じゃあ何でそうなるの」
「現実的に無理だと気づいた」
翔は、カウンターに肘を置いて続ける。
「チャットが一番安全なのは分かる。声に感情が乗らない。記録も残る。やり取りも制御しやすい」
「そうだよ」
「だが、周相手には無理だ」
唯奈の眉が少し上がる。
「何で?」
「お前は周を知らない」
「それはそうだけど」
「あいつの空気の読めなさを過小評価しすぎてる」
翔は、昨日から頭の中で何度も繰り返した結論を、そのまま言葉にした。
「チャットで、わずかな怪しさを残す。善意にも見えるようにする。周がそれを見て、由美に警戒を促す。……普通の相手ならいけるかもしれない」
「うん」
「でも周だと、多分無理だ」
唯奈はグラスを台に置いた。
表情が、少しだけ真面目になる。
「どう無理なの?」
「怪しさを薄くすれば、何も感じ取らない」
「……」
「怪しさを濃くすれば、今度は“翔も由美のために悩んでるんだな”みたいな理解になる可能性がある」
唯奈が、一瞬だけ黙った。
その沈黙で、翔は自分の説明が伝わったことを知った。
「……やばいね、その人」
「やばい」
「善意の方向に誤読するタイプ?」
「そう」
「しかも、自分が善意側にいるって信じてるタイプ?」
「そう」
唯奈は額に手を当てた。
「一番面倒なやつじゃん」
「だから電話だ」
翔がそう言うと、唯奈は今度こそ露骨に嫌な顔をした。
「私がセリフを考えるってこと?」
「そうなる」
「兄さん」
唯奈は、カウンター越しに身を乗り出した。
「昨日まで何を聞いていたの? 電話は悪手だって一番――」
「分かってる」
翔は遮った。
「声には感情が乗る。殺意も出る。怒りも出る。俺が少しでも失敗すれば、周に怪しまれる」
「そう」
「だが、周には声の方が効く」
唯奈は言葉を止めた。
翔は、少しだけ声を落とす。
「周は、文章の裏は読めない。でも声の“困ってる感じ”には弱い」
「……」
「あいつは、自分が相談されていると思うと、急に善人として働き始める。誰かを助けていると思い込む。その時だけ、行動が早い」
翔は、昨日の喫茶店での周を思い出す。
水に流せ。
あれも、周にとっては善意だった。
由美のため。
翔のため。
過去を終わらせるため。
そう信じているから、踏み込めた。
なら、その性質を利用するしかない。
「周には、文章で“怪しい相談”を送るんじゃなくて、電話で“悩んでいる空気”を出す方がいい」
「……つまり」
唯奈が目を細める。
「翔が由美の誕生日プレゼントについて、少し困った声で相談する」
「ああ」
「周は、“自分が橋渡ししなきゃ”って思う」
「多分な」
「でも、そこで兄さんが殺意を出したら全部終わる」
「だから脚本がいる」
唯奈はしばらく黙った。
店内のBGMが流れる。
奥のテーブルで、学生らしい二人組が小さな声で笑っている。
唯奈は、その笑い声が消えるのを待つようにしてから、深く息を吐いた。
「分かった」
その声は、諦めに近かった。
「脚本、考える」
翔は小さく頭を下げた。
「助かる」
「ただし」
唯奈は指を一本立てた。
「実行は今すぐじゃない」
「分かってる」
「分かってない顔してる」
「分かってる」
「兄さん、こういう時、分かったって顔で分かってないから」
翔は反論しようとして、やめた。
自覚がないわけではない。
唯奈は続ける。
「プレゼントの用意はする。これはいい。実物がある方が、相談にリアリティが出る」
「うん」
「でも周への相談は、ぎりぎり」
「誕生日直前?」
「そう」
唯奈は頷く。
「早すぎると、警戒が長く続いて、途中で薄まる。場合によっては、由美側で対策を考える時間ができる。ぎりぎりなら、周も焦る。焦ったまま由美に伝える。由美も身構える。そこに何も来ない」
翔は、頭の中でその流れを確認した。
やはり、理屈は通っている。
「だから、今やることは三つ」
唯奈はカウンターの上に指を置き、一つずつ叩いた。
「プレゼントを用意する」
一つ。
「電話の脚本を作る」
二つ。
「兄さんが、それを冷静に言えるように練習する」
三つ。
最後の「冷静に」だけ、明らかに強調された。
「冷静に、ね? 兄さん」
翔は、少しだけ背筋を伸ばした。
「了解した」
「本当に?」
「本当に」
「殺意を込めない」
「込めない」
「声を低くしすぎない」
「しない」
「由美の名前を言う時に間を空けない」
「……分かった」
「今の間、怪しい」
「今のは練習前だからノーカンで」
唯奈は呆れたように笑った。
「不安すぎる」
「大丈夫だ。練習する」
「どこで」
「テニスしながら」
「何で?」
「身体を動かしている方が声が固まらない」
唯奈は数秒だけ翔を見つめ、それから小さく首を振った。
「兄さんって、たまにすごく変だよね」
「今さらだろ」
「今さらだけど、毎回更新してくる」
それから唯奈は、カウンター下から小さなメモ帳を取り出した。
「とりあえず、流れだけ決めるよ」
翔もノートを開いた。
唯奈は、淡々と書き出す。
・最初は軽く近況
・昨日の喧嘩っぽい空気は引きずらない
・由美の誕生日が近いことを“たまたま思い出した”感じにする
・プレゼントを買ったとは言わない
・「あげようか迷ってる」にする
・周に結論を求めない
・最後は短く切る
「結論を求めないのは、チャットと同じなんだな」
「そこは同じ」
唯奈は言う。
「周に“止めた方がいい”って言わせたら負け。周に考えさせるだけでいい」
「周が由美に言うかは?」
「言う」
唯奈は即答した。
「少なくとも、その人が兄さんの言う通りのタイプなら、言う」
「根拠は?」
「自分が間に入って良い方向に持っていけると思っている人は、自分が情報を握った時に黙っていられないから」
翔は、その言葉に反論できなかった。
周は、まさにそういう人間だ。
唯奈は、さらに言葉を続ける。
「しかも今回は、昨日の“水に流す”のあとでしょ?」
「ああ」
「周は多分、兄さんとの関係を修復したい。自分が良いことをしている感覚も取り戻したい。だったら、“由美にも一応伝えておこう”ってなる」
「……よく分かるな」
「分かるよ」
唯奈は、少しだけ笑った。
「そういう人、夜には多いから」
夜。
バー。
相談。
以前も似たようなことを言っていた。
翔は、その言葉の奥に踏み込まなかった。
唯奈の過去を掘ることは、今の目的ではない。
ただ、今の一言で、唯奈が人の愚かさを何度も見てきたことだけは分かった。
◇
ノクターンを出る頃には、やることがはっきりしていた。
プレゼントを用意する。
それは本当に渡すためではない。
相談に質量を持たせるためだ。
何を買うかはまだ決めていない。
高すぎず、重すぎず、無難で、しかし「わざわざ買った」と思える程度のもの。
その線で探せばいい。
そして電話は、誕生日の前日か、二日前。
ぎりぎり。
冷静に。
唯奈の声が、まだ耳に残っている。
――冷静に、ね? 兄さん。
翔は、駅へ向かう途中で小さく息を吐いた。
冷静に。
その言葉ほど、今の自分に必要で、今の自分に向いていないものはなかった。
◇
夕方、市営コートの壁打ちスペースには、いつもの乾いた音が響いていた。
パコン。
パコン。
翔はボールを返しながら、小声で台詞を試す。
「もしもし、周?」
打つ。
「少しだけ、聞きたいことがあって」
返る。
「由美の誕生日、近いだろ」
打つ。
その瞬間、声が少し低くなった。
翔は自分で気づいて、舌打ちしそうになる。
駄目だ。
由美の名前で、声が変わる。
これでは駄目だ。
もう一度。
「由美の誕生日、近いだろ」
打つ。
まだ硬い。
もう一度。
「由美の誕生日、近いだろ」
ほんの少し自然になった。
だが、今度は軽すぎる。
相談の重さがない。
難しい。
テニスのフォームより難しい。
ラケットの角度は、何度も打てば身体が覚える。
だが、殺意の乗らない声は、身体が覚えてくれない。
むしろ身体の方が勝手に殺意を出してくる。
翔は、ボールを拾いながら深く息を吐いた。
「冷静に、ね……」
独り言のように呟く。
その時だった。
「居た!」
聞き慣れた声が、入口から飛んできた。
「兄さん!」
翔はラケットを止めて振り返る。
玲奈が、いつものラケットケースを背負って立っていた。
夕方の光の中で、髪を結んだ姿がやけに自然に見える。
「……なんで毎回分かるんだ⁉」
翔は思わず言った。
「毎日来てる? もしかして」
玲奈は胸を張った。
「練習は毎日してます!」
「それはすごいな」
「でも、兄さんがいるのは音で分かるんですよ!」
「音?」
「はい!」
玲奈は壁打ちスペースを指さした。
「兄さんの打球音、ちょっと変わってるんです」
「変?」
「悪い意味じゃないです。まっすぐで、硬い音がするんです。あと、同じリズムでずっと続くから、遠くからでも分かります」
翔は、思わず壁を見た。
自分の打球音。
そんなものを意識したことはなかった。
玲奈は続ける。
「今日は、ちょっと音が怖かったですけど」
翔の喉が詰まった。
「……怖かった?」
「はい。なんか、ボールじゃなくて壁を説得してるみたいな音でした」
「壁を説得」
「うん。しかも説得下手そうな感じ」
翔は、思わず苦笑した。
「ひどいな」
「事実です」
玲奈はにこっと笑う。
その笑顔に、さっきまで組み立てていた台詞の冷たさが、少しだけ薄まる。
翔はふと、不安になって周囲を見回した。
「やっべ。近所迷惑だったかな……」
玲奈が首を傾げる。
「え?」
「そんな遠くから分かるなら、結構響いてるってことだろ」
「あ、それは大丈夫です。ここ、壁打ち用スペースだし、防音壁ありますし。私が分かるのは、毎日ここで練習してるからです」
「ならいいけど」
「気になるんですか?」
「まあ。迷惑かけるのは嫌だし」
玲奈は少しだけ目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。
「兄さん、そういうところ普通ですよね」
「何だよ、そういうところって」
「いや、なんか、たまにすごく怖い顔してるのに、近所迷惑は気にするんだなって」
「気にするだろ」
「うん。そこがいいと思います」
不意打ちだった。
翔は、返事に困って一度ラケットを持ち直した。
「……練習するか」
「はい!」
玲奈は元気よく答えた。
そのまま二人で軽くラリーを始める。
ボールが行き来する。
考え事は、完全には消えない。
周への電話。
由美の誕生日。
唯奈の脚本。
冷静に。
すべてが頭の奥に残っている。
それでも、玲奈が打つボールを返している間だけは、声の練習をしなくて済む。
復讐のための声と、日常の声。
その二つが、自分の中で少しずつ別れていく。
周への電話では、声色一つ間違えられない。
由美の名前を言う時に、殺意を乗せてはいけない。
でも、玲奈の前では、意識しなくても声が緩む。
それが、少し怖かった。
同時に、救いでもあった。
「兄さん!」
玲奈が打ち返しながら言う。
「今の、いい球!」
「そっちもな」
「お、褒めた!」
「褒めるだろ、普通」
「兄さんの普通、たまに貴重だから!」
「どういう意味だよ」
玲奈が笑う。
翔も、少しだけ笑う。
その声は、練習したどの台詞よりも自然だった。
だからこそ、翔は自分の中で小さく確認する。
この声を、守る。
この声を、復讐の声に混ぜない。
電話は、ぎりぎりで。
冷静に。
唯奈の言葉を、もう一度胸の中で繰り返す。
冷静に、ね? 兄さん。
翔はラケットを振り抜いた。
ボールが綺麗に返る。
乾いた音が、夕方のコートに響いた。
今度の音は、少しだけ柔らかかった。




