第二部・第6話:布の向こう側
オスマントルコ――その単語が頭の中で何度も反響していたせいで、翔は朝から落ち着かなかった。授業中にぼんやり黒板を見ていても、教科書の余白に走り書きした世界地図の輪郭が視界の端にちらつくし、休み時間に友達が配信の話をしていても、頭の中では「どこから世界がズレた?」という問いが勝手に回り続ける。復讐が終わった後に残った空白は、昨日まで冷たい穴だったのに、今日はそこに別の熱が入り込んでしまっている。怒りではない。憎しみでもない。――知りたい、というやつだ。自分でも笑えるくらい厄介な燃料だと思う。
それを一番最初に真正面から止めに来たのは、学校でも遼でもなく、義妹の澪だった。
帰宅してリビングに入った瞬間、澪はソファから立ち上がり、翔の顔を見るなり眉を吊り上げた。
「で⁉」
第一声がそれだった。
「兄様は、オスマン帝国に移住しようと思ったんですか⁉」
翔は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。次の瞬間、反射で声が出た。
「思ってねえよ⁉」
自分でも驚くくらい、素の声だった。
「外国語全然喋れないし、日本から出る気もない。そもそも学校行ってんのにどこで移住の準備するんだよ」
澪はじっと翔の顔を見て、数秒固まってから、ようやく肩の力を抜いた。
「……良かった」
ため息が、本気だったのが分かる。
「何が良かったんだよ」
「だって、ただでさえ男性いなくて、どこも困ってるのに」
何気ない一言だった。
だが翔の中で、それは鈍い音を立てて引っかかった。
――ただでさえ、どこも困ってる。
男女比は一対千。男が少ない。希少価値がある。優遇される。過剰に配慮される。そこまでは分かる。けれど「困ってる」というのは、生活のどこかが成立しづらい、という意味だ。今の東京は、成立している。街は動いている。電車は走っている。物流は回っている。ビルは建っている。道路も橋も、崩れずに維持されている。元の世界と比べても「崩壊の兆候」はない。むしろ――どこか新しいものが混ざっているのに、全体は普通のままだ。
おかしい。
男女比が偏っているなら、力仕事は誰がやってる?
建築。土木。運搬。整備。危険作業。そういう分野は、元の世界だと男が多かった。もちろん女もいる。だが比率はある。人口そのものが変われば、人手不足は必ず出る。なのに、この世界の東京は“困っている”と言いながら、困っているように見えない。
矛盾だ。
翔は、澪の顔を見たまま、ゆっくりと言った。
「……どこも困ってる、って、具体的に何が?」
澪は一瞬だけ言葉に詰まり、目線をそらした。
「……物流と、建設とか。あと、夜勤系。体力がいる仕事」
そこで言い方を少し変える。
「もちろん女の人もやってるけど、数がね。自治体も企業も、省人化にめちゃ補助金出してる。最近、ニュースでやってた」
省人化。
補助金。
つまり、何かで代替している。
翔の胸の奥に、小さな興奮が灯った。復讐の燃料とは違う種類の熱が、じわじわと温度を上げる。
「……なるほど」
澪は翔の目の色が変わったのを見て、嫌な予感の顔をした。
「兄様」
「なに」
「変なこと考えないでよ?」
翔は苦笑して、誤魔化すように肩をすくめた。
「考えない方が無理だろ」
◇
翌日、学校の帰り道に翔はわざと遠回りをした。澪に見つからないように、という意味じゃない。ただ、自分の目で街を見たかった。世界は日常の皮を被っている。だからこそ、日常の中にある小さなズレを拾わないといけない。
駅前の再開発エリアに近づくと、例の“違和感”がすぐ目に入った。
工事現場が、布で覆われている。
白い防音シート。高い仮囲い。中が見えない。上から覗き込める場所もない。元の世界でも安全対策や騒音対策で覆うことはあった。だが、ここまで“徹底して見せない”感じは少ない。まるで――中にあるものを見られたくないみたいだ。
翔は足を止め、仮囲いの端まで歩く。隙間を探す。覗ける角度を探す。だが、ない。
くそ。
気になる。
布の向こう側は一体どうなっている?
工事現場でバイトでもしてみるか――一瞬、本気でそう思った。自分が今、芸能のルートに乗りかけていることを忘れるほどに。だが次の瞬間、冷静さが戻る。顔と名前を売っている最中に、身元が曖昧なバイトで現場に潜り込むのは危険すぎる。何より、効率が悪い。
翔は舌打ちを飲み込み、スマホを取り出した。
“現場名”らしき看板を撮る。
会社名も撮る。
しかし、検索しても一般向けの情報は薄い。「安全管理」「地域への配慮」「最新技術の導入」――そんな無難な言葉ばかりが並ぶ。
最新技術。
やっぱりだ。
翔は帰宅してから、神崎遼にメッセージを送った。
――なあ、工事現場って見たことある?
返事はすぐ来た。
――あるけど。なんで今さら?
翔は正直に送る。
――男が少ないのに街が回ってるのが気になった
――現場が布で見えない
数秒置いて、遼から通話が来た。
「お前さ」
開口一番、呆れた声。
「芸能の仕事あるのに、そっちはどうする気だよ?」
翔は反射的に言い返した。
「別に捨てるって言ってない」
「捨てる気なくても、時間は有限だろ」
遼の言葉は正しい。だが、翔は納得できない。
「気になるんだよ」
「気になる、で現場に突っ込むなよ。……お前の顔、もう知られてる側なんだから」
翔は舌打ちしそうになった。
「じゃあどうしろ」
遼は、あっさりと言った。
「動画サイトで見ろ」
「……は?」
「この世界の現場は、企業が“広報用”に映像上げてる。新技術の宣伝。見学希望が多くて危ないから、囲って見せない代わりに動画で見せるって流れが増えてる」
翔は一瞬、言葉を失った。
合理的すぎる。
そして、それなら布の理由も説明がつく。
「……マジか」
「マジ。検索ワード送る」
遼からリンクとキーワードが送られてくる。
翔は通話を切り、すぐに端末で動画サイトを開いた。
検索。
会社名。
現場名。
出てきた。
“最新省人化建設システム 実証映像(一般公開版)”
嫌な予感と、期待が同時に膨らむ。
再生を押した。
◇
画面が明るくなり、まず映ったのは、現場全体の俯瞰だった。クレーン。足場。資材置き場。ここまでは普通だ。だが次の瞬間、翔の眉が動いた。
クレーンが、普通じゃない。
巨大な腕が二本ある。いや、正確には“補助腕”が付いた重機だった。片方の腕が梁を支え、もう片方の腕が微調整する。通常のクレーンよりも、動きが細かい。まるで人間の手みたいに、震えずに止まる。
操作席が映る。
操縦者は一人。ヘルメット。作業服。だが手元の操作が軽い。レバーを大きく倒しているわけじゃない。指先で、少し動かすだけ。画面の端に“姿勢制御アシスト稼働中”と表示が出る。
翔は息を飲んだ。
半自動化だ。
完全な無人ではない。人間が操作する。だが、重い部分を機械が勝手に補正している。人間の“筋力”ではなく、“判断”だけが必要になる。
次の映像。
外骨格――いや、そこまで派手じゃないが、腰から脚、腕にかけて簡易的な補助フレームを着けた作業員が映る。普通の作業服の上から装着できるタイプ。作業員はコンクリートブロックを持ち上げる。片手で、とは言わない。だが、持ち上げ方が明らかに違う。重さの逃がし方を、機械が支えている。
翔の背中に冷たい汗が流れた。
発達しすぎているわけじゃない。
街全部が未来都市になっているわけでもない。
でも、ここだけ。
建設と力仕事の周辺だけが、“一点突破”で進化している。
まるでファンタジーだ。
ファンタジーの装置を現実に落としたみたいな進化の仕方。
コメント欄が画面下に流れる。
〈男手不足対策の最適解〉
〈これなら女でも夜勤いける〉
〈省人化補助金やばい〉
〈海外輸出もしてるらしい〉
海外。
翔の頭に、オスマントルコの文字が浮かぶ。
この技術が、世界線のズレと関係ないわけがない。
◇
動画が終わったあとも、翔はしばらく画面を閉じられなかった。
胸の奥で、何かが確定していく。
この世界は、男女比が逆転しただけじゃない。
男女比が逆転した“結果”、社会の一部が異常に変化した。
そして、その変化は日本だけじゃない。
海外に広がっている。
世界がズレている。
しかも、ズレ方がランダムではない。必要に迫られて、補われるように変化している。
翔は椅子にもたれ、笑いそうになった。
復讐が終わって空っぽになって、何をすればいいか分からなかったはずなのに。
今は、分かる。
やりたいことが、できてしまった。
――知りたい。
――どこまでズレた?
――どこからズレた?
――誰が、どうやって?
答えが出るかどうかは分からない。
でも、復讐と同じだ。
分からなくても、進める。
進みたくなる。
翔は画面を閉じ、深く息を吐いた。
布の向こう側は、確かに存在していた。
そしてそれは、思ったよりもずっと――世界の中心に近い場所だった。




