第9話:訓練空域の亡霊
エンジンの咆哮が、コンクリートの床を震わせる。
冷えた格納庫の一角、静かに機体が始動する音が響いていた。
「──鳴瀬機、最終確認完了。起動問題なし。」
整備担当の声に、鳴瀬隼也は操縦席から軽く右手を上げた。
視線の先、ヘルメット越しに見えるのは──神谷澪。
今日から彼女が、正式に“鳴瀬機”の担当整備士として配属された。
「……まあ、頼りにしてるよ、整備士さん。」
「言われなくても。機体は万全にしてあります。問題があるとしたら……」
「俺の腕、ってとこか。」
「……自覚あるならいい。」
少しきつい口調。それでも、口の端には微かに笑みが浮かんでいた。
そのやり取りを背に、地上スタッフが出発シークエンスの開始を告げる。
「イーグル2、タキシング開始。滑走路Bに向かいます。」
◇
空は、澄んでいた。
雲ひとつない青空の中、鳴瀬の機体が滑らかに旋回する。
(……風は弱い。気流も安定。やりやすい空だな。)
だが、安心できるほど甘くはない。
今日は模擬訓練復帰初日。しかも“指導機”つきだ。
「こちらイーグル1。イーグル2、チェック入れる。飛行ログ取ってるからな。」
通信に応じたのは、真壁颯士。
訓練空域での指導役を任されるベテランパイロットであり、鳴瀬にとっては――
うっとうしいけれど、信頼できる存在でもある。
「了解、イーグル1。……ご指導、よろしくお願いします。」
「生憎だがな、こっちは命懸けで見てる。無様な飛び方したら、降りてこなくていいぞ。」
「了解しました。」
そう返す声には、微かな緊張がにじんでいた。
滑走路でエンジンをかけるときには感じなかった重圧が、
高度を上げるたびに、肩へ、背中へ、のしかかってくる。
(……また、誰かが死ぬかもって、思ってんのか? 俺が?)
◇
模擬訓練は順調だった。
データリンクによる編隊飛行、ターゲット機との交差、標準的な機動確認。
鳴瀬は指示された軌道をほぼ正確にこなし、真壁の無言の承認を得ていた。
だが、次の瞬間。
「……イーグル2、ノイズ入ってる。聞こえるか?」
「イーグル1、こちらも混線しています。バックアップ回線に切り替えます──」
──ブツッ。
突然、通信が切れた。
HUDの一部がノイズで埋まり、コントロールパネルの挙動が一瞬乱れる。
「……これは、演習用のジャミングじゃ……」
次の瞬間、鳴瀬の視界に――“それ”が見えた。
夕焼けに包まれた空、焦げる煙、炎を上げて墜落していく僚機。
爆発の衝撃。無線から聞こえる悲鳴。
「イーグル2、離脱しろ! 今すぐ──!」
その声は、もう過去のものだった。
(俺が……あのとき、命令を聞いていれば……)
スロットルが震える。操縦桿を握る手が、汗で濡れていた。
目の前の空は、今も同じ色だ。
“あの空”が、またここにある気がして──鳴瀬は機体の動きをわずかに乱した。
「イーグル2、姿勢が乱れてるぞ!」
真壁の声が、頭に響いた。
「深呼吸しろ。見るのは“今”の空だ。“過去”は、お前の敵じゃない。」
◇
機体は、水平を保ち始めた。
鳴瀬は息を吐き、汗のにじむ手で操縦桿を握り直す。
「イーグル2、復旧完了。通信ノイズ、解消……したようです。」
「申し訳ありません。少し、集中を欠いていました。」
「そっちは“整備士のせい”にできねぇからな。」
皮肉混じりの一言に、鳴瀬は苦笑を返した。
訓練は予定どおり終了。機体は無事帰還コースに入る。
だが鳴瀬の中では、何かが確かに変わり始めていた。
──逃げるだけじゃ、何も変わらない。
この空を飛ぶ意味。それを、自分で見つけなければならない。
◇
「お疲れさま。」
格納庫に戻った鳴瀬に、澪が声をかけた。
「機体の状態はほぼ完璧だった。操縦も……問題なかったと思う。」
「そっか。じゃあ、何が“完璧じゃなかった”のか、あとで聞くから。」
その後ろでは、真壁が静かにヘルメットを脱いでいた。
「鳴瀬、悪くなかったぞ。……あのまま墜ちてもおかしくなかったがな。」
「……その評価、恐縮です。」
「生きて帰った奴は皆“合格”だ。今は、それで十分だ。」
真壁はそれだけを言って、背を向けた。
澪は小さく呟いた。
「……訓練の後、あの人、ずっとログ見返してたよ。鳴瀬さんの動き。」
「……気にかけてくれてたんだな。」
「違うよ。……期待してるんだと思う。鳴瀬さんに。」
鳴瀬は何も言わなかった。ただ、天井の蛍光灯を見上げて、
(……俺なんかに?)
と、ぼそりと呟いた。
“訓練空域の亡霊”は、まだ空に棲んでいた。
けれど──確かに、風向きは変わり始めていた。