第8話「過去の幻影と迫り来る黒い波」
実家からの手紙が燃やされてから数日が経過し、屋敷内の空気は以前よりもさらに甘く穏やかなものに変化している。
ガレッドは以前にも増して過保護になり、執務の合間を縫ってはルイスの様子を見に来るようになっている。
ルイスは中庭のガラス張りの温室で、新しく芽吹いた薬草の手入れをしていた。
湿った土の匂いと、若葉の青々とした香りが太陽の光に温められて空間を満たしている。
小さな鉢に水を注ぎ終え、額ににじんだ汗を手の甲で拭ったその時、中庭の入り口から慌ただしい足音が近づいてきた。
重い金属の鎧がこすれ合う音とともに、息を切らした若い騎士が温室に飛び込んでくる。
彼の顔は青ざめ、視線はルイスの後ろに立つガレッドへ真っ直ぐに向けられていた。
「申し上げます。北方の魔獣の森で、異常な瘴気の発生が確認されました。群れが興奮状態にあり、こちらへ向けて大規模な移動を始めている兆候があります」
騎士の報告を聞いた瞬間、ルイスの手から小さなスコップが滑り落ち、乾いた音を立てて石畳に転がる。
背筋を凍らせるような冷たい感覚が、足元から頭頂部へと一気に駆け上がった。
前世でルイスの命を奪った、魔獣の大規模な暴走の記憶が鮮明に蘇る。
時期は前世よりも早いが、原因は明らかである。
領地が急速に豊かになり始めたことに焦った男爵家が、利益を奪い取るために裏の魔術師を雇い、森に禁忌の誘引剤を撒いたのだ。
混乱に乗じて辺境伯の戦力を削ぎ、ルイスを連れ戻すための卑劣な罠だった。
ガレッドは太い眉を寄せ、鋭い眼光で北の空を睨みつけている。
彼の周囲の空気が張り詰め、α特有の重い威圧感が温室内の植物を震わせるように広がっていく。
『このままでは、また同じ悲劇が繰り返されてしまう』
ルイスは両手を強く握り締め、震える膝に力を込めて一歩前へ踏み出す。
ガレッドの大きな背中に向かって、はっきりとした声で呼びかけた。
「ガレッド様、これは自然発生の暴走ではありません。人為的な罠です。森の入り口にある古い遺跡の周辺に、魔獣を引き寄せる誘引剤が仕掛けられているはずです」
振り返ったガレッドの瞳が、驚きにわずかに見開かれる。
騎士も信じられないものを見るようにルイスを見つめていた。
ルイスは前世の記憶とは言えず、実家の黒い噂として知っていた知識だと補足する。
「私の実家は、裏社会の魔術師とつながりがあります。辺境の利益を狙って、彼らが仕組んだことに間違いありません」
ガレッドはルイスの言葉を疑うことなく、すぐに騎士に向かって鋭い指示を飛ばした。
遺跡周辺の調査と、防衛線の構築を命じられた騎士が、一礼して駆け出していく。
二人きりになった温室で、ガレッドはゆっくりとルイスに向き直る。
彼はルイスの両肩を大きな手で掴み、その瞳の奥を覗き込むように見つめた。
「よく教えてくれた。お前は屋敷の奥で、護衛とともに身を隠しているんだ。絶対に外へは出るな」
その声には、ルイスを危険から遠ざけようとする強い庇護欲が込められている。
しかしルイスは首を横に振り、ガレッドの胸元の軍服を両手で強く握りしめた。
「私も行きます。私の治癒魔法があれば、前線で傷つく兵士たちを救うことができます。それに、土壌を浄化する力で瘴気を中和することも可能です」
「駄目だ。戦場はお前が考えるような場所ではない。血と泥にまみれ、命が簡単に散っていく場所だ」
ガレッドの声が荒くなり、肩を掴む手に力がこもる。
ルイスは痛みに顔をしかめることなく、真っ直ぐにガレッドの黒い瞳を見つめ返した。
「知っています。だからこそ、私は安全な場所でただ待っているだけの無力な存在には戻りたくないのです。あなたと共に、この領地を守らせてください」
前世の冷たい雪の中で、孤独に死を迎えた記憶がルイスの背中を押している。
今はもう、何もできずに怯えるだけの自分ではない。
ガレッドはルイスの強い決意の前に言葉を失い、深く長いため息をつく。
温室内を満たしていた緊迫した空気が少しだけ緩み、代わりに甘く重い匂いが再び漂い始めた。
「わかった。ただし、絶対に俺の視界から外れるな。お前の身に何かあれば、俺は自分を許すことができない」
不器用で過保護な宣言とともに、ガレッドの大きな手がルイスの頭を乱暴に撫でる。
剣だこのある指の感触が、ルイスの胸の奥に熱い塊を落としていった。
二人は視線を絡ませたまま、迫り来る黒い波に立ち向かうための覚悟を静かに共有している。




