第7話「忍び寄る実家の影と甘い檻」
春の柔らかな日差しが、執務室の窓ガラスを透過して床の絨毯に四角い光の模様を描いている。
ルイスは木製のデスクに向かい、領地の収穫見込みを記した羊皮紙に羽ペンを走らせている。
インクの焦げたような匂いが、室内に漂う微かな花の香りと混ざり合って鼻腔をくすぐった。
平和で穏やかな時間が流れる中、廊下から近づいてくる足音が空気を微かに震わせる。
硬い木を叩く短い音が二度響き、厚い樫の扉がゆっくりと開かれた。
銀色の盆を持った初老の執事が入室し、ルイスの机の前に静かに歩み寄る。
彼の表情は硬く、盆の上に置かれた一通の封筒を忌々しそうに見つめている。
封筒の裏には、赤い蜜蝋で押し固められた棘のある蔓の紋章が刻まれていた。
それを見た瞬間、ルイスの心臓が肋骨を内側から強く叩きつける。
執事が無言で一礼して退室すると、室内には再び重苦しい静寂が降りた。
分厚い羊皮紙を二つに折りたたんでいた蜜蝋の封が、ルイスのかじかんだ指先で乾いた音を立てて砕け散る。
広げられた便箋には、見覚えのある細く神経質な文字が黒々と羅列されている。
視線が文字の端をなぞるたびに、ルイスの血管を流れる血液の温度が急速に奪われていった。
実家である男爵家からの書状には、辺境の地が豊かになったという噂を聞きつけたこと、そしてその利益を実家に還元するべきだという強欲な要求が書き連ねられている。
『どうして、今になって』
紙を持つ指先が、小刻みに震え始める。
肺の奥に冷たい石が詰め込まれたように、呼吸が浅く早くなっていく。
耳の奥で、自身の血流が早鐘のように鳴り響く音がうるさいほどに反響していた。
視界の端が暗く滲み、過去の記憶が濁流となって脳裏に押し寄せてくる。
雪の冷たさが背中から体温を奪い、引き裂かれた腹部から赤い液体が流れ出していたあの夜の凄惨な感覚が、幻肢痛のように腹部の奥を焼いた。
利益を奪い取るだけ奪い取り、最後には魔獣の群れに放り出された前世の光景が、ルイスの喉を締め付けて酸素を奪っていく。
その時、執務室の厚い扉が勢いよく開かれ、隙間から流れ込んだ廊下の冷気が室内の空気を大きく揺らした。
重い軍靴が絨毯の毛足を沈める音が、ルイスの鼓膜を直接叩く。
顔を上げる余裕すらないルイスの頭上から、大きな影が落ちてくる。
黒い軍服に身を包んだガレッドが、鋭い眼光でルイスの青ざめた顔と、震える手にある手紙を交互に見下ろしていた。
「どうした。ひどい顔色だぞ」
低く響く声が、頭上から降ってくる。
ルイスは反射的に便箋を隠そうと手を動かすが、震える指は思うように動かない。
ガレッドの大きな手が伸びてきて、ルイスの手から便箋を静かに抜き取った。
「なんでもありません。ただの、実家からの季節の挨拶です。お気になさらないでください」
かすれる声を腹の底から引き上げ、必死に取り繕う。
しかしガレッドはルイスの言葉を無視し、手元にある便箋へと視線を落とす。
彼の黒い瞳が文字を追うごとに、室内の空気が泥のように重く沈み込んでいくのがわかった。
剣だこが刻まれた太い指が便箋を握りしめ、紙が悲鳴を上げるような音を立ててしわくちゃに潰されていく。
ガレッドから放たれるα特有の威圧感が、肌を刺すような鋭さを持って膨れ上がる。
ルイスは恐怖に身をすくませ、椅子の背もたれに深く背中を押し付けた。
『また、あの冷酷な視線を向けられるのだろうか』
前世と同じように切り捨てられる日が来たのだと、ルイスはまぶたを固く閉じる。
しかし、予想に反して威圧感はすぐに霧散し、代わりに熟れた果実を煮詰めたような甘い匂いが爆発的に部屋を満たし始めた。
ゆっくりと目を開けると、ガレッドが大きな歩幅で距離を詰め、ルイスの座る椅子のひじ掛けに両手をついて覆いかぶさるように顔を近づけている。
「こんなくだらない紙切れのために、お前は指を冷たくして震えていたのか」
吐き出された声には怒りよりも、深い嘆きと不満の色が濃く混ざっている。
ガレッドは片手を伸ばし、ルイスの冷え切った頬を大きな掌で包み込んだ。
火傷しそうなほどの高い体温が、凍りついていたルイスの皮膚を強制的に溶かしていく。
親指の腹が目尻を優しく撫で、乱れた前髪を横へと流す。
その不器用な手つきは、高価な硝子細工を扱うようにどこまでも慎重だった。
「ガレッド様、私は……」
「何も言うな。お前は俺の妻であり、この領地の開拓を担う重要な契約者だ。あの強欲な男爵家に、お前の指一本たりとも触れさせるつもりはない」
ガレッドはルイスの頬から手を離すと、振り返って暖炉へと歩み寄る。
赤々と燃える炎の中に、実家からの便箋を躊躇なく投げ入れた。
乾いた羊皮紙は一瞬で炎に包まれ、黒い灰となって熱気とともに煙突へ吸い込まれていく。
過去からの呪縛が物理的に燃え尽きていく光景に、ルイスは小さくため息をつく。
ガレッドが再びルイスの元へ戻り、今度は彼の体を椅子ごと抱き込むように両腕を回した。
鼻先が彼の軍服の胸元に触れ、甘く重厚な匂いが肺の奥深くまで入り込んでくる。
腰に回された腕の力強さと、背中を包み込む大きな手の温もりが、ルイスの内で張り詰めていた警戒心を少しずつ解きほぐしていった。
「お前は、ここで俺のそばにいればいい。それ以外のことは、すべて俺が対処する」
頭上から降ってくる低い声は、契約という言葉の響きを完全に逸脱している。
甘い匂いにほだされたΩの本能が、目の前の熱源にすり寄りたいと強く訴えかけてくる。
ルイスは震える両手をゆっくりと持ち上げ、ガレッドの背中にそっと回した。
厚い布地越しに伝わる彼の心音は、ルイスの心臓のリズムと呼応するように力強く脈打っている。
利益を最優先とした冷たい契約関係は、この甘い檻の中で完全に形を失おうとしていた。




