瀬戸澄佳に見る禊祓の仕事
前に、天宇受売命について、巫女の仕事とは「場をほどき、結び直す」ことではないか、と書きました。
今回は、その話を本編側に引き寄せて、瀬戸澄佳の祓いについて整理してみたいと思います。
作中で瀬戸が行っている祓いは、いわゆる悪いものを消す「魔法スキル」ではありません。穢れを光で焼き払うような、万能なものではないように描いています(それでも、かなりチート巫女ですが、ヒロインなので大目に見てほしいです)。
瀬戸の祓いは、まず受けるところから始まります。
禍津日や穢れに触れるとき、瀬戸は一度、それを自分の中に受けます。安全な場所から一方的に清めているのではなく、満足の内側に溜まったもの、流れなくなったもの、死の側へ傾いたものを、自分の身体の中に通します。
そして、そこに留めない。自分のものにしてしまうのでも、抱え込んで沈むのでもなく、水の流れに乗せて通していくのが、彼女の基本スタイルです。
瀬戸の身体は、いうならば川ですが、もう少し抽象的にイメージするならば、水の流れが通る場所になるというのが近いと思います。
本作品における穢れは、単純な悪ではないし、生きることや傷つくこと、誰かを傷つけることや、怒ること、など、様々な感情が、澱のように溜まって作り上げるものです。
もちろん、それは危険なもので、放っておけば色んな意味で人を呑み込むものです。けれど、最初から「悪しきもの」として切り捨てればよいものでもないでしょう。
問題は、それがどこかに溜まって暴発することです。
本来なら流れていくはずのものが、どこかで詰まり、固まり、本人の内側で膨れ上がってしまう。その状態が、作中で禍津日に象徴される穢れの危うさになります。
だから瀬戸は、穢れを消すのではなく、流します。
ただし、その流れは外側から勝手に作れるものではない。なので、瀬戸はまず、その穢れに触れ、自分の内側に受け入れることで、流れが通る場所を作るという方法をとることになるのです。
これは、巫女という職能とも深く関わっています。
古い祭祀や民俗信仰には、神霊や邪気のようなものを、一度人に憑かせるという発想があります。その「憑かれる器」となる存在が、憑坐です。
本来であれば、憑かれる者と、それを読み解き、鎮め、祓う者は分かれていることが多く、平安時代の禊祓、あるいは病気治療や物の怪対処では、かなり馴染み深い形だったと言えると思います。
たとえば、藤原実資の日記『小右記』には、僧と憑坐による禊祓の様子が沢山出てきます。
寛仁三年三月十八日条には、藤原道長の病に関して、「邪気駆移人々、称貴布祢・稲荷等神明云々」という記述があります。
邪気が人々に駆け移り、貴布祢や稲荷などの神明を称した、という意味です。
作中の時代からは六十年ほど後の記録になりますが、邪気が人に移り、その人を通して現れるという発想は、平安時代の貴族社会でも一般的な認識だったといえると思います。
ここで大事なのは、邪気がただ消されているわけではない、ということです。人に移る。人を通して現れる。そのうえで、鎮められ、処理されていく過程が、重視されていることです。
僧や陰陽師、あるいは祭祀者が、加持や修法によって穢れ、怨霊、呪いを調伏し、その正体を巫女に憑かせ、移すのです。
瀬戸の祓いは、この発想を、一人の巫女の身体に集約したものです。
もちろん、山の神などの力を借りながらではありますが、彼女はそれを一人で行っています。瀬戸は、穢れを受ける憑坐であり、同時にそれを流す巫女でもある。憑かれる側と、祓う側を、一人で兼ねて、禊祓を行っています。
この禊と祓ですが、厳密にいえば、両者は同じものではありません。
祓は、罪や穢れ、禍事を取り除き、遠ざける働きです。禊は、水や身体行為を通して、穢れを流し去る働きです。
ただし、古くからこの二つは重なって語られてきました。
よく知られる「祓詞」にも、次のような言葉があります。
「掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等 諸諸の禍事 罪 穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白す事を 聞こし食せと恐み恐みも白す」
ここでは、伊邪那岐大神が黄泉の穢れを落とすために行った行為が、「御禊祓へ」として語られます。禊と祓は別の言葉でありながら、この時点ですでに深く重なっています。
瀬戸の祓いも、同じように、祓であり、禊でもあります。
穢れを取り除くという意味では祓です。しかし、そのために水の流れを用い、自分の身体をその通り道にするという意味では禊です。
瀬戸は、穢れを自分の中に受けます。そして、留めず、抱え込まず、流れが通る場所を作ります。その流れによって、穢れは本人の内側から離れ、動き出します。彼女は、穢れを人の世から自然の循環へ戻すための通路になるのです。
ただ、満足燈彦と禍津日の場合は、それだけでは足りません。
満足は、なぜだか禍津日と深く結びついています。彼の穢れは外側に付着した、ただの汚れではなく、満足自身の生き方や感情、死の気配、体調や意志とも絡み合っています。
だから、瀬戸はその固まった境界をほどいていくように、彼の体に触れます。禍津日と満足、死の側と生の側、穢れと本人の境目を、壊さず、少しずつほどき、そして、もう一度こちら側へ結び直すのです。
瀬戸の祓いは、単なる浄化ではなく、治療であり、再生であり、産み直しでもあります。
作中では、すでに二度、三度と、満足は穢れた繭に閉じ込められています。出羽での二度は、明確に黄泉の境界を越えています。
ただ、二度とも戻ってきました。この復活の下敷きになっているのは、お気づきの方もいらっしゃるとは思いますが、大穴牟遅の黄泉返り神話です。
一度目は、焼けた石によって殺された大穴牟遅を、神産巣日命が遣わした蚶貝比賣と蛤貝比売が治療し、蘇らせる場面です。
壊れた身体を集め、湿らせ、塗り、もう一度形に戻す。これは、治療としての再生です。言うまでもなく、貝の化身である両女神は女性器の隠喩ですし、「母(神産巣日神)の乳汁」を塗って治癒したともあるので、出産や生まれ変わりが描かれていると読むのは自然でしょう。
羽黒山で、瀬戸とルリカが二人で行った儀式は、この蚶貝比賣と蛤貝比売の働きを重ねています。一人ではなく、二人で行う。水と声、祈りと身体、流す力と結び直す力によって、崩れかけたものをもう一度形にするイメージです。
次は、大穴牟遅の二度目の蘇りになります。
復活した大穴牟遅は、兄の八十神に再び殺されます。大木の割れ目に挟まれて死んでしまいます。このときは、母が生き返らせる役割を担っています。
こちらも、木の又とあるように、神話でも分かりやすく出産をイメージさせるよう描いています。胎内に閉じ込められた者を、もう一度外へ取り出して再生する。これも、産み直しの神話です。
飽海嶽の月光川のシーンには、この二度目の蘇りを重ねています。
生と死の境界に閉じ込められた者を、もう一度こちら側へ取り出す。死の側へ行きかけたものを、力ずくで引き戻すのではなく、境界をほどき、通れるようにして、現実の側へ結び直す。
瀬戸の禊祓は、この二つの再生の型を、巫女として行っているものでした。
流すだけではなく、壊れかけたものを集め、生と死の境界で固まったものをほどき、そして、もう一度結び直す。それは、祓いであり、禊であり、治療であり、産み直しでもあります。
ここで、前に紹介した天宇受売命の話を思い返してください。
天岩戸神話は、単に天照大神が隠れて、また出てくるだけの話ではありません。天照大神が岩戸に籠もることで、世界から光が失われる。それは、太陽が消え、神々の秩序が止まり、世界が一度死ぬことを意味しています。
その閉じた岩戸の内側から、天照大神がもう一度外へ現れる。これは、神話的には、太陽と世界の生まれ直しとなります。
天宇受売命は、岩戸の前で踊り、閉じきった場に笑いを起こし、こわばった境界をほどきます。そして、天照大神がもう一度こちら側へ出てこられるように、場を結び直します。
これは、瀬戸の禊祓と質的には同じ働きです。
天宇受売命は、天岩戸で太陽を世界へ産霊直す。瀬戸は、禍津日と穢れに呑まれた満足を、人の世へ産霊直す。どちらも、境界を壊すのではなく、固まった境界をほどき、もう一度通れるように結び直しています。
瀬戸は単なるヒーラーではありません。
安全な場所から穢れを消すのではなく、自分の身体を憑坐にし、水の流れが通る場所にし、ときには母体のような境界にして、穢れと生死のあいだに立つ。
そして、それを受けとめ、通し、流す。同時に、ほどいて、結び直す。その危うい仕事が、瀬戸澄佳の禊祓です。
正直、作中では、なかなか上手く描写ができてないのですが、少しでも、禊祓のプロセス、そのイメージが掴めてもらえたら幸いです。




