第20話 ふにゃ
大樹からは、温度のような……匂いのような……目に見えない何かが伝わってくる気がした。
そして、かすかに「呼び声」のようなものまで聞こえてくる気がする。
気がするだけだけど‥‥‥。
「何か感じますか?」
いつの間にか隣に立っていた梢社長が、そっと僕の肩に手を置く。すると、周囲の風景がゆっくりと黄金色に染まり始めた。
光は大樹を中心にふわりと湧き出し、やわらかく広がっていく。なのに、不思議と眩しくない。
「これは‥‥‥」
「そうですねー、こちらの言葉で言えばオーラや生命エネルギーといったところでしょうか。」
「生命エネルギー?」
「今は、私の感覚をちょっと共有したんですよ」
そう言って手を離すと、黄金の輝きはふっと消え、視界が元に戻る。。
「すごいです」
「すごいよね〜」
梢社長はいつも通りのんびりと頷いた。どうやら、彼女にとってはこれが日常のようだ。
「……触れてみてもいいですか?」
思わずそう尋ねると、社長は目をまんまるに見開いた。
「触るの!? 本気で!? 森川くん、ほんとに触っちゃうの!?」
「あ、すみません。ちょっと興味が……」
慌てて言い訳する僕をじっと見つめた社長は、突然、声を弾ませる。
「触るとね、手が吹き飛んでなくなっちゃうよ!」
——え、吹き飛ぶ!?
頭の中で「ボンッ」と手が飛んでくイメージが浮かび、体が固まる。
すると社長は、手を叩いて笑った。
「ウソでーす」
……ウソかい。
「ウソでーす!」
——何この人。可愛いんだけど。
「いいよー、触っちゃいな!」
許可をもらい、僕はそっと大樹に近づいて手を伸ばした。
幹は意外と柔らかく、指先に脈動のようなものがじんわり伝わってくる。まるで、木の奥深くに巨大な心臓があるみたいだ。
やがて、じんわりとした温もりが手のひらから全身へ広がっていく。
すごい……。
体の奥深く、意識の中にまで染み込んでくる。
どこまでも加速するように流れ込んでくる何かが、僕を満たしていく。
この感覚は……一体感? いや、むしろその逆、孤独感。
僕は僕のまま、ただ「ここに“ある”」ことを、そっと許されたような感覚。
どこまでも広がる空間に一人放り出されたような孤独感。
なのに、誰かにそっと寄り添われるような安堵感が同時に押し寄せる。
その矛盾した感覚が愛おしくて、全身が満たされていくのを感じた。
どれほどの時間が経ったのだろう。
ほんの一瞬だったのか、それとも永遠にも思える時間だったのか——。
はっとして、そっと手を離す。
その瞬間、全ての感覚が潮が引くように消え去り、静寂だけが戻ってきた。
それでも、手のひらには温もりの余韻が残っている気がして、僕は無意識に指先を握りしめていた。
そんな僕を見ていたサブリナが、社長に詰め寄る。
「ねえ、ちょっとだけでいいから、触らせて!」
はしゃぐサブリナに、梢社長は表情を曇らせる。
「えー、触ると、手が吹き飛んで、血まみれになるよ!」
——聞いた!さっき聞いたよそれ!ディテール増えてるけど!
「マジ!?」
サブリナの顔が青ざめた。
——先生! 聞いてなかった人がここにいます!
サブリナは恐る恐る大樹に近づき、幹に手を当てたかと思うと、「ふにゃ」と妙な声を上げて、そのまま幹に抱きついた。
その姿は、まるで木に恋をしたかのようだ。
やば、と思い隣に立つ梢社長を見ても、ニコニコ微笑んでるだけ。
とはいえ、いつまでもたっても離れようとしないサブリナ。
「森川くん、あれ剥がしてきて。」
梢社長が変わらずにっこりと微笑みながら冷たい声で僕に指示を出す。
笑顔のまま、冷たい声で指示され、僕はサブリナの肩を掴んで『よいしょ』と引っ張る。『ふにゃ』と変な声を出しながらも、なんとか彼女を幹から引き剥がして地面に戻した。
そのあと、僕は梢社長に連れられ、大樹の周りを一周した。
さっき目にした草花について、梢社長が説明してくれる。
「これね、美味しいお茶になるんだよ。肌にも塗れるよ」
「それって、さっきの……」
「うん。毎朝摘んで、お茶にしたり木陰さんに持ってったりしてるの」
「全部摘んでも平気なんですか?」
「うん。一日でまた生えるから」
——え、なにそのご都合仕様。
「あとね、あの畑の野菜。煎じて作るとポーションになるの」
——ポ、ポーション!?
「ポーションって、あのポーションですか?」
思わず声を上げ、力が入り、つんのめりそうになる。
「たぶんそのポーションだよ。 面倒だから、あんまり作んないけどね。」
梢社長は何気ない顔でさらっと答える。
——あっさり言いますけど、そんな薬マズくない!?
その後も説明は続いたが、ポーションの衝撃で内容が全く頭に入ってこなかった。
気がつけば、僕は大樹の横にある物置のような小屋に手を伸ばしかけていた。
「ちょっと待って!そこは今度ね!」
慌てる社長の声に、あわてて手を引っ込める。何事もなかったように、社長は前を歩いていった。
ひと通りの説明を受けたあと、僕たちは大樹の部屋を後にした。
腰が抜けて動けなくなったサブリナは、仕方なく僕が背負って事務所まで戻ることになった。
——抱き着くなんて無茶しすぎだって、まったく。
でも……その気持ち、ちょっとわかる。
あの、自分が「自分でいい」って思える感覚。
多幸感と、切なさと、愛おしさが溶け合った感覚。
……ですよね。
背中に伝わるサブリナの体温を感じながら、僕はあの時の感覚をもう一度思い出していた。
事務所に戻ったあとも、彼女が完全に正気に戻るまで一時間かかった。
その間、時折「ウヒヒ」と変な笑い声を漏らす彼女に、僕はそっと目を逸らしていた。
けれど一時間後には、ケロッとした顔で自転車にまたがり、ぶんぶん手を振って帰っていった。
——大丈夫かな、あの人。
「社長、今日は帰らないんですか?」
そう尋ねると、サブリナに手を振りながら、梢社長は軽く答えた。
「うん。一応こっちにも部屋借りてるけど、面倒だから社長室で寝泊まりしてるよ」
——社長室、あるんだ……。
「じゃ、森川くんもお疲れさま!また明日ね〜」
手を振る社長に「お先に失礼します」と頭を下げ、会社を出た。
帰り道、今日のことをぼんやり反芻しながら歩いていると、突然、背後から声がかかる。
「森川さん……ですか?」
振り返ると、暗いスーツ姿の男が立っていた。
夕暮れの逆光で顔はよく見えない。一瞬、谷口もどきかと思ったけれど、細身の体と落ち着いた雰囲気から別人だとわかった。
「すみません、呼び止めて。森川さん、で合ってますか?」
なぜか、胃のあたりがぎゅっと締め付けられるような感覚がして、思わず左手首のブレスレットに触れる。
「……どちら様ですか?」
男はにっこりと微笑み、手を差し出した。
「私、神戸と言います。はじめまして、森川さん」
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