因果は蜘蛛の糸を備えてはいる
ウィトゥスの研究施設だった場所への移動自体は、円滑に進んだ。
無数のパイプが通された廊下を真っすぐ進みさえすれば良いので道に迷うこともなく、灯りひとつない暗闇に閉ざされていようとも、十分に蓄電残量のある携行照明をハリコは咥えている。
「……ウ゛ゥ゛、ウ、ゥゥ゛。」
強いて歩みを遅らせた要因を上げるならば、ハリコが抱えて引きずっている死体袋の存在であった。これをマナコの居場所にまで持っていくことこそが現状最優先の、そして唯一の目標である。
ハリコは時おり足を止め、歩を進めるたびに腕の中から徐々にすり抜けていく死体袋を抱えなおした。遺体から染み出てくる体液は既に死体袋の表面まで染みわたってじっとりと湿らせ、床面を引き摺る際の摩擦も増している。
その重量は遺体となった人間が死ぬ間際まで健康的であったことの証であり、いよいよマナコのもとへ養分を持ち帰ることが実現しようとしている点も含め、ますます喜ぶべきことに違いは無かったのだが。
「ウ゛ゥ゛ー……ウ゛ゥ゛ッ。」
首を振るって、自らの意識を保とうとし続けることについても、ハリコは怠らなかった。
定期的に、自分が為そうとしていること、現状の思考を意識して保たなければ、またしても例の得体の知れぬ自我が思考の奥底から湧き上がってくるとも知れなかったのだから。
しかし、ハリコの警戒とは裏腹に、あるはずもない記憶を有した人格が自分の内側から声を上げることは無かった。
「……ウ゛ン゛。」
それもまた、不気味ではあった。つい先ほどまで、少しでもハリコが思考に空白を生めば、その間隙を埋めるかのように自分ではない存在の思考が滲み出てきていたというのに。
今もまだ、自分の思考の内側に、己ならざる意思は潜んでいるのだろうか?ハリコは独り言のように、自分自身に問いかけるごとく唸り声を定期的にあげていたのだが、当然ながら返答が与えられることはない。
確かめるすべもないことに頭を悩ませる意味も薄く、ハリコは自らの思考が阻害されぬならば良しとして、再び抱えなおした死体袋を引き摺り、口に咥えた携行照明の光を頼りに進み出した。
「ウァ。」
ウィトゥス博士の研究施設があった場所を以前、最後に見たのは、上層街への"処刑任務"……すなわち、地下都市に住まう人間たちをことごとく死なせに出発した時のことである。
あの時は、研究施設の奥部で肥大化した菌糸の塊、シェルの菌糸によって一帯が覆い尽くされ、かつては無機質な平面ばかりで構成されていた施設も埋もれて、菌糸の洞窟のような状況となっていた。
が、今、ようやっとたどり着いたハリコが見たのは、水分も養分も吸い尽くした"神"ことシェルが去り、菌糸が枯れ果てた光景であった。
「……。」
あれだけ際限なく、伸び放題に繁茂していた菌糸の絨毯は、ことごとく乾ききって捩れた残滓と化していた。
吸収した養分や水分を蓄える構造もなく、ただただ広範囲に延び広がった菌糸が、飢渇に耐えうるはずもない。もとは本来の粘性や張り巡らせた根によって、壁や天井に貼りついていたのだろう菌糸も悉く剥がれ、灰のごとく床に降り積もっていた。
飢餓の極致に喘ぎ、得られもしない救いを求めるかのごとく、随所で疎らに辛うじて立ち上がった子実体の先端から、もはや死した胞子が力なくばら撒かれていた。
「ア゛……ウ゛ゥ゛……。」
菌糸たちの死に様を見せつけられるのは、人の遺体に入り込んだ菌類たるリズァーラー、ハリコにとってはショッキングな光景であった。水分も養分も奪われたまま、苦しみ抜いて枯れていくのは、いかに凄惨な苦痛であったことか。
地下都市で生まれた死肉を吸い尽くしたシェルの巨体を、大司教と門徒たちが"神"と崇める情動を理解できなかったハリコ。
だが、膨大な量の水分と養分を抱えた存在が去った後のこの場所こそが、神に捨て去られた地なのだという形容には首肯せずにいられなかったろう。
「……ウ゛……。」
死体袋を引きずりながら、施設の奥へと踏み込んでいくハリコ。
辛うじて壁に貼りついた形で残っていた、ひときわ太い菌糸の束が、壁面からハリコの方へ手を差し伸べるように胞子の詰まった子実体を伸ばしている。
「……ア゛ァ゛。」
呼応するように伸ばしたハリコの指先が、その先端に触れると同時に、菌糸と子実体たちは粉々に砕けて床へと散っていった。それらの内部は、一切の水分を保っていなかった。
解き放たれれば、新たな菌糸を伸ばし始めるはずだった無数の胞子も、今や単なる砂と変わらぬ無生物同様の状態で、空中に散逸していく。遺体の体液で湿った死体袋を引きずった跡へ照明の光を投げかけ確認するも、今さら与えられた水分で立ち上がる菌糸はない。
これほどの死に包まれる実感は、ハリコにとって初めての経験であった。人間の死体はいくらでも見てきたが、最低限の養分と湿度さえあれば蔓延る菌糸が死ぬことなど、地下都市においてはまずあり得なかったのである。
「ウ゛ー……。」
ハリコの胸中では、哀切の念と同時に、不安もますます高まってきていた。これほどまでに菌糸が死に絶えた空間で、マナコは今なお活動再開できる状態なのだろうか。
リズァーラーは、乾燥剤を噴きつけられて表皮部分が固形化しても、中枢さえ無事に保たれていれば再度活動可能状態へと戻ることは出来る。ウィーパによって、リズァーラーを処理する"確実な"手段として管理局に与えられた誤認識の賜物であった。
行動を起こすことなく、休眠状態を続けるリズァーラーは、内部に蓄えられた水分や養分を消費することもない。
「……ウ゛ゥ゛、グゥ゛ゥ゛ゥ゛。」
それでもハリコは、かくも無数の菌糸たちの死に満たされた空間においては、マナコの無事を祈らずにいられなかった。
今こそ、"神"のごとき、自らの手の届かぬ現象へ措置を講じ得る存在を、求めたくあった。
マナコの身体を預けていた場所を、忘れるはずなどない。無数に並ぶ研究室のひとつに、あの時はキャシーと共にマナコの身体を抱えて向かったのだった。
「ア……。」
ずっと想い続けたパートナーとの再会は、なんともアッサリしたものだった。
口に咥えた携行照明の光は、閉まりようのない研究室の扉の向こう側に、横たえられた死体袋を照らし出した。白い粉末、すなわち回収時に付着した乾燥剤の跡も、変わらぬままである。
あの中に、マナコの身体を収めてある。
感動的な演出も、幾つもの苦難を乗り越えて帰り来たハリコを出迎える拍手も、何もない。ただ静寂と暗闇が、これまでマナコを守り抜いてきた時のまま周囲に佇んでいた。
「ウァァ゛、アゥウ゛……!」
ドサッ、と死体袋を取り落とし、マナコの体が収められた死体袋へヨタヨタと歩んでいくハリコ。
感極まる、という状態を経験するのもハリコにとっては初めてのことであった。今までは、誰かが持ってきた任務内容に従って行動してさえいれば、望ましい結果は得られたのだ。自らの意思で、自らの望む結末へ至った実感は、彼の身を自然と震わせた。
マナコ。ついに会えた。どれだけ、会いたかったことか。
「ウゥ、ウゥゥ゛ー……!」
震える膝で身体を支えきれず、ハリコは途中から両手を床につき、四つん這いになってマナコの体が収められた死体袋へと這い寄っていく。
マナコは、頭部を覆う菌糸の毛先の一本一本まで、乾ききった状態だった。活動再開した際に惨めな姿にならぬよう、不要な衝撃を与えぬようにそっと死体袋の口を開き、顔を覗かせる。
ハリコの咥えた携行照明の光の環の中に、マナコの顔があらわれた。
マナコだ。
真っ白に乾き、まるで彫像のごとく動かないが、確かに体は無事に保存されていた。
「ア゛、ア゛ァ゛、ウァア゛ア゛!」
ハリコの胸中を満たしたのは、心に想いつづけた相手とようやく再会できたことを喜ぶばかりの、甘美な思いでは決してなかった。
今の今まで、活動できない状態でマナコを待たせ続けてしまったこと、ただ一緒に居たいという自分たちの願いを叶えるために散々苦難を味わったこと……自らの身に降り注いだ苦境が一度に押し寄せてくるようで、非常に苦しかった。
何よりも、このちっぽけなリズァーラー、一体を復活させるためだけに、お姉ちゃんが殺されなければならなかったのだと思うほど、強い虚無感と憎悪が湧き上がるばかりだった。
「……エ?」
リズァーラー。
私たちの暮らしを何もかも壊して、あげく私とお姉ちゃんがまた会えたのも台無しにして、お姉ちゃんの後悔を私が受け入れることも許さず……自分だけは、大切な相手と一緒に居ようってつもり?
そう、これがあなたにとって大切な"マナコ"なのね。私のお姉ちゃんと同じ名前をもって、私のお姉ちゃんの血肉をすすって、長らえようとする身勝手なリズァーラー。
自分ばかりが、良い思いをできると思わないことね。
「……ア、アァ゛、ウ゛ゥ゛ア゛ァ゛ァ゛!!」
あなたの身体の動かし方は、だいたい分かったの。
壊してあげる。あなたの目の前で、あなたの腕を使って、あなたの一番大事な相手を。
カラカラに乾涸びたリズァーラーを、呆気なく叩き潰すのは、さぞ心地が良いでしょうね。いい音を立てて、砕けてくれるでしょうね。
「グルア゛ァ゛、ガゥ゛ア゛ァ゛ァ゛ア゛!」
抗えると思わないで。この身体は、もともと私のもの。あなたは、死んだ私の体に後から入ってきただけの、雑菌。
"マナコ"を叩き潰したあとは、あなたがここまで引きずってきたお姉ちゃんの血肉を、存分にあなたの身体に吸わせてあげる。水分と養分を補給してじっとしていれば、ほぼ永久にリズァーラーは意識を保ったままで居られるのでしょう?
心の底から後悔すればいい、永遠に後悔し続ければいい、自分がこの世に存在してしまったことを。
考え得る限り最悪の状況で、蘇ってきた自分ではない意思。ハリコの行動を心底から憎悪し、ハリコに地獄の苦しみを味わわせようと画策していた存在が、マナコの身体を確認するまで息を潜めていたのは必然ではあったが。
彫像のごとく動かないマナコの上に、堅く握りしめた拳を振り上げる自分の身体を、ハリコは止めるすべなど見いだせなかった。唯一、動かせる口を全開にし、懇願とも激昂とも取れぬ絶叫を上げ続け、早くも声は涸れた。
「アァ゛、ア゛、ウァ゛……!!」
ブツ、ブツ、ビビ、と布を破くような音が背後で響く。
拳を振り上げた腕に激痛が走ったのは、直後のことだった。
見れば、まるで口元の皮膚を無理矢理引き裂いたかのように大きく顎を開いた、少女の姿をしたリズァーラーが、牙を光らせハリコの腕に噛みついていた。
「ア゛、ア゛……!?」
「う゛、ぅぅ゛!」
少女の姿をしたリズァーラーは、渾身の力でハリコの腕に噛みついたまま、マナコの身体を砕こうとするハリコの行動を必死で阻止している。
ハリコが口から取り落としていた携行照明の光の先、部屋の壁際には、まるで全身がクッションのごとき菌糸で覆われた別のリズァーラーが居た。彼の菌糸だけは、辛うじて枯れずに保たれている。
「リコさん?リコさん、ですよね……!自分です、デリクです、忘れておいでですか?ほら、マナコさんの身体を預けていただいた……どうして、マナコさんの身体を壊すような真似をなさっているんですか!?」
実際のところ、ハリコはこの二名の存在をすっかり忘れていた。
デリクと、グレッサ。ウィトゥス博士の研究施設にて、長らく博士の実験台として用いられ、博士がシェルの研究に夢中になった頃から存在を忘れ去られたように研究室の隅で放置されていたリズァーラー。
マナコの身体をここに預けた際、しっかり守るようにキャシーから頼まれていたのも、デリクとグレッサであった。今まで色々なことがありすぎて、その事実をすっかり忘却していたハリコは、自分の内に潜む敵へ意図せず情報を隠匿し得ていたのである。
何なの、こいつら!まだ、生き延びていたリズァーラー、ここに居たの!?
離して、離せ!離せ!コイツは、私のお姉ちゃんの仇!私と同じ苦しみを、味わわせてやらなきゃならないんだから!




